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   ユーリアン

ユーリアンは、ついに張り詰めた糸が切れるのを感じ、ベッドに倒れ伏して泣き始めた。
つやのある茶褐色の髪がシーツの上で扇状に広がり、薄い夜着に包まれた華奢な
両肩と、小さく丸めた背中が小刻みに揺れる。
時折、押さえ切れない嗚咽がのどの奥から漏れ、しんとした空気に低くこもって響くが、
隣に横たわる彼女の夫は、ピクリとも動かない。

ユーリアンと夫は、今日結婚式を終えて、永遠の愛を誓ったばかりだった。
けれども、初夜の床に来た夫は、ひどく酩酊していて、従僕の支えがなければ歩けず、
待っていた新妻をちらりとだけ見て、ベッドの上に崩れ落ちてしまっていた。
重そうな筋肉質の手足を投げだして眠る夫のそばで、一人取り残されたユーリアンは、
沈む気持ちを押さえられずに唇を噛む。
人々のあたたかな祝意や、盛大に開かれた宴席を思い返しても、ただ空しく、
寝室のそこかしこに飾られた花々も、きちんと整えられた豪華なベッドも、何一つ
彼女の慰めにはならなかった。

この結婚は、彼女の母である女王が決めたことだった。
ユーリアンに選択権は全く無かったし、夫は彼女の故国に国境を接する王国の王太子、
自分は王女なのだから、これが政略結婚以外の何ものでもないことは、十分に
承知していた。
とはいっても、ユーリアンは期待していたのだ。

彼女の夫は、まだ十六歳のユーリアンより十歳ほども年上で、すでにその評判を
世間に知らしめていた。
曰く、武芸に秀で、戦いにおいては勇猛果敢、獅子のような金髪と優しい青い眼を
持ち、人々に慕われる世継ぎの王子。

たくさんの娘たちが、彼の妃の座を狙っていると噂されていたし、候補として
挙げられていた中には、ユーリアンよりずっと家格の高い娘の名もあった。
だから、この縁談が本決まりになった時、ユーリアンはとても嬉しく思い、夫のために
努力をしようと決心もした。
夫の国の文化や習慣を聞き、修めた作法や芸事をさらい、肌の調子を整えて、
足の爪先から髪の毛一本一本に至るまで、全身を隅々まで入念に磨き上げたのも、
この日を夫と迎えるためだった。

――でも、夫には愛人がいる。
ユーリアンは顔を上げて、涙に濡れた目をこすり、そしてその手を途中でとめた。
こんな風に泣き続けると、翌朝にはまぶたが腫れ上がってしまうかも知れない。
予定では、明日から首都を離れ、半月ほどかけて地方都市を幾つか回ることに
なっている。
歓迎してくれる人々に対して、泣き腫らしたみっともない顔を見せるわけにいかない。
そう自分自身に言い聞かせるも、明日もまた夫の隣で、にこやかさを装わなければ
ならないことを考えると、ユーリアンはまぶたが熱くなるのをこらえられず、
シーツの上に一つ、また一つと涙をにじませてしまうのだった。

夫の愛人の存在を教えてくれたのは、夫の国の貴族で、内宰府の職を辞した後、
広く世界を見るため旅行しているという、穏やかな顔の老人だった。
故国に滞在していた彼は、ユーリアンが国を出立するまで、見知らぬ土地へ嫁ぐ
彼女のために、さまざまな質問に答えてくれた。
だが、その顔色は、皆が慶事に浮かれる中、どことなく心苦しそうだった。

(どうかされましたか? 顔色が少し良くないようですが)
(いいえ、……王女殿下の気にされるようなことは……何も)
不審に思った彼女の問いに、老人は眉間にしわを寄せて言葉を濁した。
(しかし、知らずに嫁ぐのは、あまりにもお可哀相で)
彼は沈痛な面持ちで首を左右に振り、人払いを求めた。
それからユーリアンの耳元に顔を寄せ、ご用心を、と低いささやき声で続ける。
("王太子のお気に入り"と呼ばれる近衛の女騎士は、あなたの婚約者の愛人なのです)

ユーリアンは一目で彼女が分かった。
初めて会ったのは国境の街メッシエ・スールエで、彼女は花嫁を迎えに来た
護国将軍のお供として、その一行の中にいた。
すらっとした体は小柄なユーリアンより頭半分も高く、やわらかくカールした
黒髪や、感じのいい笑顔も、話に聞いていた通りだった。
愛人の女騎士は王太子妃づきを任じられていると紹介され、首都に向かう旅の間中、
臆するところのない堂々とした態度でユーリアンに付き従っていたので、
ユーリアンは本当に彼女が未来の夫の愛人なのか、半信半疑になったくらいだった。

けれども、疑惑が確信に変わったのは、今日の祝宴でのこと。
(良く……似合っているな)
きっかけは夫のその一言。

愛人の女騎士は宴の早い時間に、彼女の父親の護国将軍――どことなく渋い顔を
していた――と共に、王太子と新しい王太子妃の前へ出て一礼し、祝意を述べた。
ユーリアンががっかりしたことに、彼女は他の女性と比べて地味に見える近衛の
正装ではなく、銀糸の刺繍の入った瑠璃色の絹のドレスといった、華やかな
いでたちだった。
前あきの白い肌に馴染んだ高価そうな首飾りが、シャンデリアの明かりにきらめき、
散りばめられたエメラルドは、彼女の緑の目に良く映えて、確かに、これ以上ないほど、
見事に彼女に似合っていた。

ユーリアンの夫が愛人の装いを褒めたたえ、情深い微笑みを顔に浮かべる。
愛人は褒め言葉の礼を言い、頬を薔薇色に染めて、どこかおどけたようなものが
混ざった、あふれんばかりの笑みを返した。
(贈ってくださった方に、見ていただきたくて)
彼女はそう付け加えると、はにかむように目を伏せて、愛情を込めた指先で
のど元のエメラルドにそっと触れた。
その瞬間、ユーリアンは、誰が彼女にそれを贈ったのかを直感し、自分の平凡な
茶色の目と髪を呪った。

――私、もう二度とエメラルドは身につけない。
そんな決心をしても余計自分がみじめに思えて、彼女は小さくしゃくりあげた。
「いい度胸だわ」
ユーリアンはしわがれた声で毒づいた。
「あれは、宣戦布告なの? "王太子のお気に入り"はそんなにお偉いの?
少しでも良心の呵責があれば、王太子妃づきになろうなんて思うはずがないのに、
私を小国の王女だとあなどっているのかしら」

ユーリアンは将来の王妃なのだから、夫に愛人がいても気にせず、毅然と
構えていれば良い。
故国を出発する間際、婚約者の愛人の存在を訴えたユーリアンに、彼女の母は
そうさとした。
未来の夫の国は安定した大国で、こちらは小国。
向こうの申し出が王太子であったのは、望外のこと。
ユーリアンの相手として提示されたのが、後ろ見のない病弱な第二王子や、
まだ十二歳の第三王子であっても、異を唱えることは出来なかったのですよ、と。

――隣に寝ているのが、第二王子であったかもしれない。
ユーリアンはその可能性に寒気を感じて身震いし、自身を暖めるように腕を回した。
冷たい目をした第二王子は、"智の王子"と呼ばれているだけあって、洗練された
着こなしの貴公子だったが、ユーリアンは、こころなしかそっけない態度を取られて
いるような気がした。

夫の弟に歓迎されてないかもしれないと考えるのは辛いことで、そのうえ彼に
間の悪い思いをさせてしまったらしい一件を思い出し、ユーリアンは溜め息をついた。
今日の祝宴で、夫の弟は胸につけた小さなメダルを気にして、しきりに手をやり、
落ち着きに欠けているので、夫が苦笑しながらたしなめていた。
夫の胸にもついているそのメダルが、武芸大会の優勝者のメダルだと聞いていたので、
ユーリアンは夫の弟に、どの部門で優勝したのか、話を振ってみた。
だが、そのとたん、隣で夫が吹き出し、それを合図にしたかのように周りの者が
くすくす笑った。夫の弟はもごもごと言いよどみ、ユーリアンは何かしくじったらしいと
悟って口をつぐんだ。
それは、自分の失態が何だったか、皆が何を笑っているのか見当もつかないことが、
余計にユーリアンには新参者と思い知らされる出来事だった。

――ここから逃げ出して、国に帰りたいわ。
望郷の念にかられ、ユーリアンは痛む頭を起こし、宙を見上げる。
目に入ったのは、天蓋つきのベッド、細かい彫刻の施された支柱、王太子と
その妃のために用意された、広くて立派で豪華すぎる寝室。
故国と比べて王宮も格式も何もかもが重厚で、今にも押し潰されそうに感じ、
途方にくれて再び深い溜め息をつく。

「……帰りたいの」
涙まじりにつぶやき、傷心を持て余してベッドから降りる。
ふらふらと次の間へ向かい、扉を開けた先は無人。
真っ暗な中をさらに行き、控えの間へと続く扉をほんのわずかに開けると、隙間から
目に飛び込んだのは、小さな蝋燭の明かりに照らされた愛人の女騎士の横顔だった。



近衛の制服に着替えた夫の愛人は、剣を抱いて長椅子に座り、目を閉じて
眠っているように見えた。
膝に力が入らなくて、ユーリアンは崩れ落ちるようにぺたんと床に座り込む。
しばらく王太子妃づきの女騎士や女官が、交代で控えるというのは聞いていたが、
彼女がいるとは思い浮かびもしなかった。

なぜ、今、あの人が、という苦々しさが、のどの奥からこみ上げて、ユーリアンは
両手を口元に当てた。
王太子が結婚しても、自分の地位は揺らがないと思っているらしい、平静そのもの
の顔が憎らしかった。
しかし、かと言って、部屋を出て直接対峙することも出来ず、凍りついたような時が
流れる間、ユーリアンに出来たのは、暗がりに身を隠したまま、ただ彼女を凝視する
ことだけだった。

と、女騎士がまぶたを開け、揺れる火影を見詰めた。
気づかれたかしらと、ユーリアンが不安を募らせる中、女騎士は立ち上がる。
だが、予想に反して、彼女はユーリアンに背を向け、廊下側の扉へと歩み寄った。
同時に、誰かが廊下側の扉を静かにノックするのが聞こえた。

「いや……、部屋の外で、……ああ、待っていろ」
かすかに声がして、姿を見せたのは夫の弟だった。
夫の弟は従者を部屋の外に追い出し、女騎士が扉を閉めるのを確かめた後、
肩の力を抜いて、ふうっと一つ大きく息を吐く。

「そちらはもう終わりましたか?」
いたわるような口調で女騎士が彼に話し掛ける。
「ああ。お前は?」
「あと一時間ほどで交代です」
「そうか、あ……、兄上は? ひどく酔っ払っていたようだが」
ユーリアンが手を握り締めるのと同時に、彼女が肩をすくめた。
「あれでは、朝まで起きられないかもしれません。近衛の者が調子にのって、
飲ませすぎたようです」
「……お前ら近衛は、王太子の悪友と改名した方がいいかもしれんな」
なかば呆れたような声の夫の弟に対し、愛人の女騎士が、ふふっと笑った。
「それも近衛の、一つの役割ですから」

「王女殿下――もう妃殿下か。妃殿下の態度がぎこちないようだったな。
早くこちらの宮廷に慣れるといいのだが」
夫の弟が長椅子の中央に深く腰掛け、女騎士に向けてさりげなく右手を差し上げた。
「そうですね。でも……」
「でも、何だ?」

女騎士は彼に近寄り、その手を握り返しながら、ユーリアンも知っている名前を
口の端に乗せる。
「あちらの宮廷にいたそうです。おそらく、原因はそのせいかと」
「ああ……」
夫の弟は低く嘆息して、天を仰いだ。
「彼が妃殿下に何を吹き込んだかと思うと、頭が痛いですね」
「まったく、あいつは不和の種をばら撒いていまいましい。自分から署名したくせに、
国外追放処分だけで済んでありがたいと……」
「しっ」

女騎士が夫の弟の唇に人差し指を添えて、彼の言葉をさえぎった。
それから彼女は、慣れた様子で彼の膝の間に座り、空いている手を彼の頭の
後ろに回した。
夫の弟が応えて体を曲げ、女騎士は体を伸ばして彼の唇をとらえた。
「ん、ふ……あ、……」
交差させた指先をくすぐるように絡ませて、手に頬に唇に、二人は何度も
口づけを繰り返す。
その目の前で思いがけない展開に、ユーリアンは、ただ目を疑い、呆然と二人を
見守ることしか出来なかった。

「わたくしとしては、殿下が妃殿下に冷たかったのが気になりますが」
やがて女騎士が名残惜しげに唇を離し、夫の弟の胸に人差し指を突き立てて言った。
「せっかく仲直りした兄殿下を妃殿下に取られたように思っていらっしゃるのでしょう?」
女騎士のからかうような言葉に、夫の弟は違う、と短く答えてそっぽを向いた。

「お前は王太子妃づきに任命されてから、ずっと忙しくなって会えなくなるし、
義姉上を迎えにメッシエ・スールエまで行ってしまうし、明日からはまた、
兄上たちについて首都を離れなければいけないだろう?」
夫の弟は、ふわっとした黒髪に不満げな顔を埋め、さすがに八つ当たりのような
言い訳が恥ずかしかったのか、最後の方はくぐもった声で呟いた。

「それで、妃殿下にあのような態度をお取りになったのですか?」
女騎士は眉をひそめ、彼の顔を覗き込んだ。
「妃殿下はまだ十六歳なんですよ。それなのに殿下ときたら大人げのない。
皆、王太子殿下と妃殿下の幸せを祈っていますのに、弟殿下がそのようでは、
周囲の者が困ります」

女騎士に叱られた夫の弟は、少しばつが悪そうな顔をしていたが、どこか
嬉しそうな様子が口元に表れていて、そのいたずらが見つかった子供にも
似た愛嬌に、ユーリアンは思わず微笑まずにはいられなかった。
「分かった。……お前が、困るのなら、明日からは義姉上への態度を改めて、
必要なら謝るから」

お前が、という部分を特に強調して言った夫の弟に、女騎士は彼の頬をなでながら、
心底呆れたといった風に息を吐いた。
「本当に……、妃殿下のお相手が王太子殿下で良かったです」
「俺もそう思っているよ」
夫の弟が笑って女騎士を抱き締めた。
「殿下、わたくしは真面目に……」
「俺も真面目に言っている。……ほら、二人きりなんだから殿下はやめろ」
「ん……ええ」

彼の手が彼女の頬に触れ、雨のような口づけが女騎士の顔に降りそそぐ。
女騎士はくすくす笑い、たわむれて体を引いた。視線を落とし、彼の胸の小さな
メダルをそっと触る。
彼らは顔を見合わせてまた笑った。

「会えなくて、寂しかったですよ」
「俺も、寂しかった……」
二人はお互いの名を呼び合い、恋人同士の特別な言葉をささやき合う。
頬をすり寄せ、濡れて光る血色の唇を重ね、しだいにそれは、お互いの口唇を
むさぼるような激しいものへと変わる。
その熱を帯びた吐息や、うるんだ二人の瞳に、ユーリアンは彼らの間にある
事実をはっきりと悟ったのだった。

「その、今夜は俺も、王宮に泊まることになっているのだが……」
夫の弟が咳払いをして、そう切り出した。
「またそんな……。あなたも、今日は、よく休まなくてはいけませんのに」
困惑顔で難色を示した女騎士に、夫の弟はすねたように目を閉じてうつむいた。
「明日からまた、しばらく離れ離れになるのに、お前はそうやって……。ああ、そうだ。
……俺は、お前が来るまで寝ないで待っているからな」

女騎士は一瞬目を丸くし、それから夫の弟にもたれながら、声を殺してくっくっと笑った。
「あなたは、人の弱みをよくご存知……、ん、やっ……」
信じられないくらい表情を崩した夫の弟が、彼女の首筋を舐め上げ、
耳朶に息を吹きかけて、待っている、と繰り返す。

「駄目、です……。こんなところで……、あ」
執拗に続く愛撫に女騎士の体がのけぞって震え、手が肩を強くつかんだ。
けれども、抗議の声は弱々しく、白いのどは上気して、紅潮しつつあった。
「待っているから」
「え、ええ、行きます。……もちろん、行きますから。でも、本当に、これ以上、
ここでは駄目……」



それ以上見てはいけない気がして、ユーリアンはそっとその場を離れた。
宿直を終えた後、彼女は彼の部屋に行くのだろう。
明かりの落ちた王宮内の廊下を、ひたひたと急ぎ足で渡り、王族用の寝所の扉を
開けて静かに忍び入る。
待ちわびて少し不機嫌になった彼の手を取り、優しくなだめて、控えの間で見たのと
同じキスをする。
じゃれ合って笑い、一緒にベッドへ入り、そして……。

ユーリアンの体が突然、熱を持ったように火照った。
ベッドの中で、彼らが何をするのか見当はつく。
馬がどうやって繁殖するかは知っているし、結婚初夜に何が起こるかも聞いている。
――でも、ふしだらだわ。
悔しいことに、二人に対する反発が、うらやましさから来ているのだということを、
ユーリアンはよく自覚していた。

寝室では、ベッドサイドテーブルの小さな明かりに照らされて、ユーリアンの夫が
変わらず寝息を立てている。
ユーリアンはベッドの端に腰掛け、腕を伸ばして、瞬時ためらう。
「起きて……、起きて下さい……」
彼の肩に手を置き、祈るような気持ちで揺すぶると、夫は薄目を開け、それから
力なく上体を起こして、ユーリアンの頬を撫でた。

「泣いているな。どうした?」
彼女を気遣う言葉はやわらかく響き、ユーリアンは自分がまた涙を流していることに
気がついた。
「じ……自信がないの。……ここで、妃として、やっていく自信が。
この国は重くて、複雑で、分からないことも多すぎて……」
ユーリアンの夫は彼女を抱き寄せ、慰める手つきで彼女の茶色の髪を撫でつけた。
「周囲の者を信頼しなさい。国王陛下や弟たち、護国将軍、騎士たち、女官たち、
官僚たち、……何より夫たる俺を」

「あなたを?」
ユーリアンは思わず高くなった声を呑み込み、手を当てて夫の厚い胸板を押し返した。
与えられたたくましさ、気強さから自分の体をはがし、夫の顔を正面に見据える。
「あなたや、あなたの"お気に入り"の女騎士……。彼女は、あなたの愛人なの?」
それは、老貴族に耳打ちされてからずっと、頭の中で繰り返してきた疑問、でも決して
するつもりのなかった質問だった。
それが真実ではないと、もうすでに半ば承知しつつも、ユーリアンの口からこぼれた
言葉は、夫をひどく打ちのめしたようだった。
目を閉じて黙り込んだ夫を前に、ユーリアンは取り返しのつかない後悔に襲われる。

「そう……は、ならなかった」
長く沈黙を保った後のかすれた声。
片手で顔面をこすり、疲労を隠せずにいる姿。
「俺は次の王だから、何よりも王国の安定を優先させなければいけない。
だから、俺は黙認した。止めることは出来たはずだった。彼女にとっても、
辛いことであっただろう。
けれども、何があっても、何を犠牲にしても、父の轍を踏まずに済むなら……。
……いや、何でもない」

首を左右に振って正気を取り戻そうとする夫が、あまりにも疲れ切って見えたので、
ユーリアンは夫の背中に腕を回して、彼を抱き止めた。
思い返せば、愛情のない政略結婚の妃に対し、複雑な儀式に望んでは、
さりげなく彼女を誘導してくれて、宴席においては如才なく話しかけてくれて、
まめやかに気遣い、いたわってくれていたのだ。
――だから、考え違いをしてしまったのよ。

「……ごめんなさい」
彼女は夫の耳元でささやいた。
「ユーリアン……?」
夫はとまどい、先ほどよりもしっかりした口調で彼女の名を呼ぶ。

ユーリアンはもう一度、ごめんなさいと呟き、自分の体を夫に預けた。
まぶたを閉じて胸をぎゅっと押し付けると、やわらかな二つのふくらみが、
夫の筋肉質の体に合わせて形を変え、ぴったりと密着した。
薄い布地越しのあたたかさを肌に感じ、同じものが夫にも伝わって欲しい、
とユーリアンは願う。

果たして、夫は彼女の背中に手のひらを当てて、撫で返してくれた。
だが、その穏やかさに安心感を覚えたのも束の間、二度目に夫は指を立て、
腰の下からうなじまで、彼女の背筋に沿ってゆっくりとなぞった。
「……ふっ、…っ」
先ほどとは違う、何かをかき立てるような手つきに、ユーリアンの全身がぞくりと震えた。
湿った声が漏れて、恥ずかしさで頭に血が昇る。

夫の唇がユーリアンの細い首筋につけられ、さぐるように動いた。
責め立てるような愛撫に、ユーリアンはバランスを崩して尻もちをつく。
脇腹をつかむ力強い手が彼女を支えた。夫の腕にすがりついた彼女を更に、
やや乱暴な口づけが襲う。
低いうめき声が鎖骨に響き、熱い吐息の一つ一つが敏感にユーリアンに伝わる。
期待と不安で目を開けていられず、彼女はこれから待ち受ける嵐の予兆に、
ぼうっと霞みがかった頭で、ただ体温が上がっていくことを感じていた。

「あのっ……、んっ……」
背中から脇の下を通って撫で上げた夫の手は、ユーリアンの左の乳房を覆うほど
大きく、わしづかみにされた心臓が激しく動悸を打って肌に届いた。
ユーリアンの夫が夜着の上から彼女の張りつめた乳房に吸い付いた。
唇の間から差し出された舌先、かじるように動かされる歯の動きに、思考と理性が
とろとろと溶けて流れ出していく。

布一枚を隔てて彼の舌が、乳首をこねる未知の感触。
腫れて尖った乳首が、透ける布地を持ち上げて浮かび上がり、濡れて部分が
くっついて、夫の離れた後もわずかな振動で、彼女をひどく刺激した。
胸の谷間に鼻先を埋めた夫の吐息と、同時に上下してさすられる背中の手とが、
前から後ろから波となってユーリアンを彼女を翻弄し、たまらない気持ちにさせる。

「あの、わ、……私っ」
下半身に熱が溜まって巡り、無意識のうちに腰がくねる。
「ひゃ……、やっ」
夫がユーリアンを軽々と持ち上げて、ベッドの中央に押し倒した。
その天地が引っくり返るような勢いに、意識が攪拌されて、気を失いそうになる。

ごつごつした固い手はいまや、遠慮なくユーリアンの肌をまさぐり、裾をからげて
足の中の大事な場所に侵入しようとしていた。
細いふくらはぎをしごいて晒し、腿の内側に沿って、ゆっくりと撫で上げられる。
火照った体に浮かぶ、自分の汗の匂いが気になって、ユーリアンは居たたまれずに
両手でシーツを握り締めた。
知っていると思っていたことと実際に知ることは全く違うのだと、混乱した頭で
考えつくのはそれだけだった。

つい、と夫の指がユーリアンの秘所に行き当たった。
「やっ、…あ」
充血して敏感になっているそこに触れられた衝撃で、ユーリアンの体が撥ねる。
そこから痺れが肌身に広がり、また一段と熱が上がった。
夫の動く指に合わせて、くちゅりと、かすかな水音が聞こえたような気がした。

「待って……、少し、待ってくださっ……」
つかんで乱れた夫の夜着から、赤黒くそそり立つものが垣間見えた。
狼狽して後ずさりをしたユーリアンの両脚を押し広げて、夫が体を割り込ませる。
身悶えても、覆いかぶさる重い体に押さえつけられ、動くことが出来ない。
夜着は腹部にまとわりつき、ただの布の塊と化して、裸も同然のユーリアンには
為すすべがなかった。

二、三度つつかれて、細くなったのどの奥で、詰まったような小さな悲鳴が上がる。
茶色の髪の毛に差し入れられた指は、太くてがっしりとしていて、ユーリアンを
しっかりと固定し、足をばたつかせての抵抗は、抵抗の形にすらならない。

「しーっ……」
ユーリアンをなだめるような呼びかけに、やがて彼女は力なく縮こまる。
目を閉じたまま、その時を待つユーリアンの耳元で、夫の生ぬるい獣じみた呼気が
渦を巻いた。
あてがわれ、入り口を差し開くようにめり込んだものは、固く、かつ、ねっとりとしていて、
ユーリアンの発情した熱よりも熱かった。

「……いっ、ぁ、んくっ」
進むほどに、引き裂かれるような痛みがユーリアンを貫いた。
入って来たものが内臓を詰め込むように押し上げ、身中を隙間なく塞ぐ。
涙が目尻からこぼれて、髪の毛に吸い込まれるのを感じながら、歯を食いしばって
必死で耐える。

「ユーリアン……」
夫が動きを止めて、彼女の名を呼んだ。
ユーリアンはわずかにまぶたを開け、まつげの間から夫を透かし見る。
眉を寄せて辛そうな顔の夫に、ユーリアンはめまいにも似た戸惑いを覚える。

――初夜の床で起こることを、お母様は何と言ったかしら? 共同作業?
思い出して痛みをこらえ、彼の額に浮かんだ汗をぬぐい、精一杯笑ってみせる。
内側が痛んで、ずきん、ずきんと共鳴するように脈打っていた。

「……私は、大丈夫ですから」
夫は何も言わず、答えの代わりにキスを返した。
近づいてくる薄青い瞳の静けさが、ユーリアンを安心させる。
無理強いではなく、唇で挟み込むように口全体を覆い、舌を差し入れて優しく
口中を愛撫する。

それから、夫は緩やかに動き始めた。
先ほどよりも痛みは少なく、ユーリアンは全身の緊張を解いて夫に全てを任せる。
夫の動きが徐々に速くなり、深くなった。
ユーリアンは波打つ奔流に押し流されて、自分の発したものとは思えないような声を
遠くに聞いていた。



朝、ユーリアンが目覚めると、ベッドの中にいるのは彼女一人だけだった。
窓から差し込む日の光は、もう起きる予定の時間に近いことを示していて、
ユーリアンは節々が痛むのをさすりながら、控えていた女官の助けを借り、
起き上がって鏡台に向かう。

「あの、そういえば……」
昨日紹介された女官の名前を記憶から探り、小道具を持って待機している彼女に
呼びかけて口ごもる。
「王太子殿下は日課の遠駆けに出ておられます。でも、もう戻られるでしょう」
女官が察して答え、ユーリアンは、新婚第一日目の朝に夫の居場所が
分からないのを、情けなく思う。
――やはり、ここでは、やっていけないかもしれない。
暗い失望感がユーリアンの胸のうちをよぎった。
鏡に視線を戻し、そこに青白い顔色と少し腫れぼったいまぶたが映っているのを
確認して、ますます憂鬱になる。

「次は誘っていただけるかしら?」
誰に言うともなく呟くが、足の間のひりつく痛みは、存在感をもって、彼女に乗馬は
しばらく諦めたほうが良いことを思い知らせた。
「どうでしょうね。近衛の方々の訓練の一環だそうですから」
女官はユーリアンの髪を梳きながら、あまりおすすめ出来ないといった顔をした。
「そう。……では、お誘いがあっても、遠慮した方が良さそうね」

身支度を整えたユーリアンは重い気持ちを抱えたまま、朝日にしおれた花々と、
その濃い香りが充満する寝室を後にする。
次の間と控えの部屋を抜け、少し暗い廊下に出ると、ちょうどこちらへやってくる夫と
鉢合わせをした。
「あ……、お、おはようございます」
「ん、おはよう」
ぎこちない態度だったのはユーリアンだけで、湯浴みをしたのか、まだ少し濡れている
髪の毛を気にして撫で付けた夫は、昨夜のことなど何もなかったかのような、いつもの
落ち着いた、皆の理想の王太子だった。

「昨夜は、よく眠れているといいのだが。今日も少し予定が詰まっているので、
体が辛かったら言いなさい」
「はい、あの、お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」
夫は優しくうなずいて、窓のほうに目をやった。
「では、支度が出来ているのなら、皆が待っているから」

つられてユーリアンも、廊下の窓から眼下を眺めた。
庭先にしつらえたテーブルに、彼女達を待っている夫の弟や近衛たち、女騎士たち、
女官たちが出揃っている。

その集っている人々の中心、テーブルの上座に座っている夫の弟が、夫の愛人の
女騎士――もとい、夫の弟の愛人の女騎士に、何かを言って笑いかけた。
彼らは寄り添っているわけではない、触れているわけでもない。
なのに、ただ顔を見合わせて、視線を合わせて、笑い合っているだけなのに、
あの二人を見ていると、ユーリアンは頬が熱くなるのを感じた。

「あの二人は……」
――なぜ、もっと早くに、気づかなかったのかしら。
昨夜、控えの間での二人を見るまでもなく、あの様子では誰にでも一目で
分かりそうなものなのに。
――嫉妬に目がくらんで、たくさんのものが見えていなかったからよ。
ユーリアンは両手を頬に当てて覗き込み、今ひらめいた事柄を思い巡らす。

「ああ、あの二人か……」
夫が彼女の視線を追って、見ているものを確認し、溜め息をつくように笑った。
「正式な発表はまだだが、我々のほうが落ち着いたら、順次、話を進めていくことに
なっている。
将来の第二王子妃をいつまでも最前線に置いておくことは出来ないから、
近衛の中でも王太子妃づきになったが、いずれは義理の姉妹になる。
仲良くしてやって欲しい」

ふいに、ユーリアンの脳裏に一筋の光明が差し込んだ。
「それでは……、何か贈り物を、二人が喜ぶような贈り物を用意しましょう」
ユーリアンは夫の手に自分の手を重ね、彼を見上げて続けた。
「あなた、……あの、一緒に……、何が良いか、考えて下さいますか?」
夫は一瞬、驚いたような顔をしたが、返す視線はあたたかく、彼女の手を
握り返して答えた。
「ああ、一緒に」

この国は言われているほど安定しているのではないし、この人も時々は心が弱くなる
瞬間があるのだ、とユーリアンは深い感懐をいだく。
けれども、日差しはやわらかく、空は青く澄んでいて、庭の緑がとても綺麗だったので、
ユーリアンは背筋を伸ばして、夫の腕を取り、夫と共に長い廊下をたどり始めた。

 

 

 

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