シーアは、シャノアとのみ彫られた墓石に花を捧げ、こうべを垂れた。 それは、この冷たい石の下に眠る王弟殿下への祈り。
彼女の毒薬で死んだ男に対する贖罪。 不幸にして彼女の父がとめられなかったことを、彼女がとめるための決意。
近づいてくる足音に、シーアは立ち上がった。 目を向けて、その主が国王陛下であるのを確認し、そのまま端に下がって片膝をつく。
「シーア。少し、待っていてくれぬか?」 「はい」 その顔立ちも、金髪も青い目も、彼によく似ている、とシーアは改めて思い、
胸が突かれる思いがした。
国王は、しばし彼の弟の墓に祈り、それから護衛たちを彼らの会話の聞こえない
位置まで下がらせた後、シーアに向き直った。 「このようなところでなければ、なかなか二人で話す機会が作れぬからな」
二人で話す、とは言ったものの、国王は、どう切り出していいか分からないとでも いう風に、溜め息を漏らして、口を閉ざした。
彼が十分すぎるほど考えあぐねる間、シーアは待ち続けた。
「シーア。余はそちやそちの父の忠誠を、疑ったことがない」
「……はい、恐れ入ります」 「特にそちは、幼い頃から余やレネアによく仕えておるのを、余は知っておる。
その、余は、長年そちを見てきて、そちを娘のように思っておったし、 出来ればこれからも、そう思いたいと、今は願っておる」
「陛下!?」 シーアは信じられない思いで、国王を見上げた。
長年仕えてきたシーアには、彼の言っている意味が、間違いなく理解することが出来た。
レネアが馬場で言ったことを思い返して、その時気づかなかったことに思い至り、
それが彼女の主君らの総意なのだと、シーアは悟って、顔が青ざめた。
「わたくし、……考えたことも……なく……」
「そうか。では考えよ。ただ、覚えておいて欲しい。 余はそちを娘のように思っておるし、そちの幸せを願っておる」
――陛下の幸せが、自分の幸せだと答えられたら……。 口の中が乾いて、舌が張り付いたように動かなかった。
「陛下、……わたくし……」 「シーア、もう一度言う。余はそちの幸せを願っておるのだ。だから、命令はしない。
そちに決めて欲しい。そちは余が今言ったことを忘れてもよいのだ。
結局のところ、忠誠からではなく、そちが真に望まねば、あれにとっても不幸なことに なるだろうからな」
……はい、と答えたシーアの声は、力なく宙にただよった。
「実は、そちの父にはもう話してある」
国王は、その気の置けない友との会話を思い出したのか、少し微笑んだ。
「いやな顔をされたがな。まだあれの疑惑が完全に晴れたわけではないと。
そもそも、そちの父は今回のことに反対しておったし、そちの幸せを願い、 娘が言うことを聞かぬと嘆いてもおった」
「父が父の責任を果たしたように、わたくしも自分の責任を果たすだけです……」
「そうだな。そちは最善をつくしておる。あれが安定して、良き方向へ進みつつあるのを、 余は嬉しく思う。あれは……」
国王は言葉を切って、悲しげに首を振った。 「いや、すまない。……愚かな父親の……繰り言だ」
シーアはただ、返事の代わりに頭を下げることしか出来なかった。
*
小枝が窓を叩く音で、シーアは、はっと目を覚ました。 どうやら知らず知らずのうちに、うとうとしてしまったらしい。
「大丈夫か?」 ルーゼンが持っていた書類を脇に置き、彼女の顔に手を添えた。
いつものベッド、いつもの夜。隣に横たわる体が発する、いつもの匂いと感触に包まれる。
「え……、ええ。すみません。地方に関する問題については……んん、……ぁ」
ルーゼンにキスをされてさえぎられ、そのまま押し潰されるように横たわるが、 疲労と緊張に体が反応しなかった。
「シーア。もう、今日はいいから」 ルーゼンが心配げに頬を撫でる。
「武芸大会が終わったというのに、近衛は相変わらず忙しいのだな」
武芸大会が終わったのは、たった五日前なのに、もう遠い過去のような気がした。
昼間は別の場所で見張りについているし、夜は夜で、毎日ルーゼン邸に来て、
武芸大会以降、熱心に仕事に取り組むルーゼンを手伝っているから、時が経つのが ひどく速く感じ、気力を保つのも限界に近くなっていた。
「そういえば昼間、王宮にいないようだが、何をそのように多忙なのだ?」
シーアは、内心の罪の意識を隠しながら、あらかじめ用意していた言葉を口にする。
「王太子殿下の婚約のことで、いろいろと準備することがありまして……」
ルーゼンが顔をしかめた。彼女が嘘をついたのが分かったようだった。
――ルーゼン殿下に嘘をつくのが、だんだん下手になってきている。 うつむいて、シーアは目を伏せた。
言い訳を重ねても、誤魔化すことが出来ないのは分かっているし、そのうち、
王太子殿下の婚約についてわざと口を滑らせたことや、他のいろいろな嘘にも 気づかれてしまうかもしれない、と思い煩う。
だが、ルーゼンは何も言わず、諦めたように息を吐いた。 「疲れているのではないか? ここに毎日通うのが負担なのでは?」
「……邪魔、ですか?」 ――それは困る。 己の都合だけの問いに、彼は照れたように少し顔を赤くした。
「俺は……嬉しいが……その、無理はするなよ」
「実はわたくし、王太子妃づきを打診されているのです」
彼は自分のついた嘘を許すだろう、とシーアは思った。 自分がアリスン監獄で彼がしたことを許したように。 ――でも、その後は?
「こちらの宮廷に慣れていない彼女を補佐するためと、その後のことも考えて……」
シーアは言葉の途中で黙り込んだ。
彼の知らないところで、その後の根回しはもう始まっている。 なのに、自分の重い感情にとらわれて、いつまでも決心がつかないのは、
国王陛下の問いに答えを出すのが、ひどく難しいからだった。 忠誠からではなく、自分が望むのか望まないのか。
それは、いまだ明確には考えたことのない命題だった。
「お前、最近……今日は特に、おかしいぞ。何か気を取られていることがあるのか?」 「……ルーゼン殿下、……」
覗き込む薄青い瞳を、シーアは受け止められない。 「もし、わたくしが、もうここへは来ないと言ったら、……どうされますか?」
「…………シーア……、俺、は……」 ルーゼンが絶句し、視線をさまよわせた。それから、顔を少し上げ、枕の方に目を向ける。
その下に、例のメダルをが隠してあることを、シーアは、渡した次の日の夜に、 ルーゼンから見せられて知っていた。
「いえ、すみません。忘れて下さい。……今日は風が強いから、おかしなことばかり 考えてしまう」
両手で顔を覆い、彼の視線を避ける。混乱して、涙が出そうだった。
「……シーア、お前はどうせ、夜中に起きて帰るのだろうが、短時間でも眠って
いったらどうだ? ……せめて、風がもう少し止むまで」 ルーゼンが再度溜め息をついて言い、ベッド脇のテーブルに身を乗り出して、
蝋燭の火を全て吹き消す。 「殿下? 明かりを……」 「ついていたら、お前が、眠れないだろう?」
その少し怒ったような優しい声を、きっと一生忘れないと、シーアは目を閉じながら思い、
彼の腕のあたたかさに抱かれて、またまどろみ始めた。
*
――今日は風が強くて、木の枝が窓を叩く。
シーアは意識を浮かび上がらせながら、何かが窓を揺する気配をうかがった。
――でも、枝は窓を開けたり、邸に侵入したりしない。……では、ここ。
目を開けて、静かにベッドから降りる。
手探りで肌着とズボンのみを身につけ、剣を手に取って、さやを払う。
抜き身の剣は、訓練された手のひらにちょうどいい重さで馴染み、シーアに 覚悟と自信を思い起こさせてくれた。
ベッドで布のこすれる音がして、かすかに見えるルーゼンの影が起き上がった。 「シー……」 「しっ」
素早く彼の口を押さえてとめる。 「殿下。邸に侵入者です」 「えっ! あ?」
がたんと広間の方で音がして、ルーゼンは口をつぐんだ。
「行くのか?」 「はい」 「邸の外に出て、助けを……」
「駄目。危険です」 ――ルーゼン殿下は謀反側にとっても大事な駒のはず。 シーアは彼の手をぎゅっと握った。
――だから、傷つけられるようなことはないだろうけど。 「殿下はここにいて下さい。この部屋から出ないで。でも、もし何かあったら、
わたくしを呼んで下さい。必ず、戻って参りますから」
――寝室の明かりが消えたから、行動に移したのかもしれない。
そんなことを考えながら、廊下に人の気配がないことを確かめ、ゆっくりと扉を開ける。
侵入者の立てる物音を探り、猫のような足取りで廊下を渡り、角から広間を見渡す。
大階段の脇に造りつけられた暖炉の棚の上に、三つ又の銀の燭台が二つ。
うち一つに灯された、か細い火が、侵入者たちをわずかに照らし出していた。
男が一人ひざまずいて、積み上がった暖炉壁の、くりぬかれたように暗い隠し穴の
入り口を覗き込んでいる。その背後には見守るように二人。 ――ああいうものは、邸を建てる時でないと細工するのは難しいはず。
では、謀反側はこちらが思っていたよりも周到に用意していたのだと、シーアは もう一度、手の内の剣を握り直す。
大階段の下で周りを警戒しているごつい男は知っている。宰相の親衛隊の手だれだ。
彼が一番手前にいるのは幸運だった。真っ先に、やれる。 隠し穴に取り組んでいる小男には、見覚えがなく、肩や腕の筋肉の付き方から、
多少は出来ると推量する。 その後ろで指図しているのは、"宰相のふところ刀"と目されている内宰府の若手。
少し太り気味の鈍重そうな体が動くたびに、服についた布飾りがひらひらと揺れる。
一人くらいは生かして捕らえたかったけれど、それも難しいだろうと、シーアは 素早く計算する。
こちらには時の利と地の利があるとはいえ、三対一では厳しいものがある。
ゆっくりと呼吸しながら、暗闇を利用して近づく。
風が強いのも重畳。吹きすさぶ音に隠れ、ぎりぎりまで迫れる。
大階段の半ばから、宰相の親衛隊員がこちらに気づくと同時に、シーアは跳んだ。
そのまま勢いを利用して、男の首から肩にかけて剣を叩きつける。 確かな手ごたえと、鋭く飛び散る血臭に、シーアはその男のことを忘れ、
たたらを踏んで、方向を変える。
内宰府の若手まで、二歩。突然のことに声も出ない様子。
地面と水平に振るった剣は、腹部の表面をかすり、裂けた白い胴衣の奥、
割れた皮膚の隙間から、血管が生々しく透ける内臓袋をまみえさせただけだった。 シーアは下顎に力をいれて、もう一歩踏み込む。
今度の一撃は、腹部をぶったぎり、もろくやわらかい臓物を捕らえた。
引き寄せた剣に、黄色い人脂と、赤い血と、ちぎれた淡紅色の薄い腸膜がまとわりつく。 これは、致命傷。
そして、腰の短剣に手をかけた三人目。 ――でも、遅い。 相手が剣を抜く瞬間を見計らい、無防備になった胸部を狙う。
手首のばねをきかせ、血とはらわたが付いたままの刃先を上げて、肋骨の間から 心臓を一突きにする。
男が豚のようにうめき、ゆっくりと倒れ果てた。 傷口から色あざやかな鮮血が噴水のようにほとばしり、宙を赤く染める。
シーアは返り血をものともせず、足元のしかばねを冷ややかに眺めた。
――これで、やっと終わる。
シーアは剣を左手に持ち替え、暖炉に歩み寄った。 肌着のすそで手のひらについた血糊を拭き取り、かがんで隠し穴に手を突っ込む。
指先に触れた薄い紙は、最後の関門。取り出して開き、一瞥して、その名を探す。 ――…………、ない。
シーアは、ほうっと息を漏らし、体の筋肉を緩めた。
だから、油断していた。気がついた時には遅かった。
背後から忍び寄ってきたのは、汚くもつれた金褐色の髪を振り乱した第四の侵入者。 彼女に向けて頭上から落とされる長剣に、空気がうなる。
間一髪、柄に近いところで受け止めるが、押し切られて体勢が崩れる。
立て直そうと踏んだ足は血でぬめる床に滑り、壁に背中を打ち付けて息が詰まった。
痛みをこらえて、かろうじて片目を開ければ、次の猛攻。 二度目の衝撃は重く、骨まで響いて手首がしびれた。
シーアの手から、つるりと剣が落ち、絶望的な音を立てて地面に転がる。
男が荒れてがさがさになった唇をゆがませて笑い、剣を振り上げた。 逃げ場は、ない。 ――右? 左?
シーアは一瞬逡巡し、間に合わないと悟って恐怖する。
「シーア!」 声がして、目の前の男が消え、空間がひらけた。
まばたきして見えたのは、暖炉の石壁に押し付けられた男と、その腕をつかむ 夜着姿のルーゼン。
男がルーゼンを突き飛ばし、斬りつけようと剣を構える。シーアの心臓が凍った。
とっさに、暖炉の上の、明かりがついていない方の燭台をつかみ、男の頭を殴りつける。
二度、三度。容赦などしない。燭台の先端が曲がって交差する。
やがて、男の頭蓋骨の割れる感触に、シーアは我に返った。
ばたばたと聞こえる足音は、チアニのもの。 辺りを見回して、息を吐く。もういない。四人だった。
「大丈夫か?」
ルーゼンが頬についた返り血をぬぐいながら立ち上がり、シーアに声をかけた。
指先が冷たかった。けれども、頭の芯が燃え上がるほどに熱かった。 シーアは手のひらを巡らし、彼の頬に向けて打ち下ろす。
高く乾いた音が、二人の耳に届いた。
「何を……」 「それはこちらの言いたいことです。なぜ部屋を出たのですか!?」
あふれる怒りにのどの奥が痛くて、困惑顔のルーゼンがぼやける。 「丸腰で、剣の心得もないのに、危ない場所に飛び込んで……」
「お前が危なかったのに、俺だけ安全な場所にいろと?」 「もちろんです! そのために王の近衛はいるのです。
陛下に代わって、命を投げ出すために! 御身大事になさいませ。殿下に何かあったら……、わたくし、……」 「シーア……」
優しく名前を呼ぶ彼の声に、涙がぽろぽろとこぼれ、頬を伝い落ちる。
「すみま……せ、ん」
彼女の涙に触れるルーゼンの手はあたたかく、シーアは、その手に自分の手を重ね、 その首筋に自分の顔を埋めた。
「ルーゼン殿下……、来て下さってありがとうございます」 「ああ」
――人の心は複雑で、よく分からないことも多いけど。
シーアは、ルーゼンを抱き寄せて、子供のようにしゃくりあげた。 ――でも、涙が止まらないのは……。
「殿下に何もなくて、……良かった」 「ああ、シーアも怪我がなくて」 「……はい」
シーアは彼の脈拍の音を聞き、ただひとえに決心する。 「殿下も……ご無事で、本当に……」
*
「ルーゼン殿下、これを」 シーアが差し出した一枚の薄い紙。ベッドに腰掛けたルーゼンがそれを受け取ると、
彼女は静かに、控えの位置へ下がって待機する様子を見せた。
広間を血の海にしたにもかかわらず、――というより、そのおかげで、シーアに対する
態度を一変させたチアニが、惨事の後始末を引き受け、二人は追い立てられるように 寝室に戻り、体をぬぐって血を落としていた。
彼の部屋着を身につけたシーアは、まだ血臭をまとっているように見えて、
ルーゼンはしばし、その凄惨なたたずまいに魅入られて放心する。
大量の血も、殺意を向けられたことも、彼にとっては初めてのことであったが、
シーアにとってはそうでないことを、二の腕の傷跡を思い出して、ルーゼンは その姿に納得する。
ただそれだけに、彼女に張られた頬が、今もなお痛む気がした。
「殿下?」
うながされて気を取り直し、ルーゼンは紙を広げて視線を落とした。 最初に目に付いたのは、たくさんの署名。
筆頭は、彼の叔父であるシャノア。そのすぐ下には、内宰府の宰相。 主流を外れた貴族たち。先ほど、シーアの剣にかかった内宰府の若手。
内治部を始めとした内宰十二部の官吏の名も幾つかあった。 知っている名前ばかりだった。
上方の丸まった箇所を伸ばせば、見慣れた叔父の筆跡。 一読し、信じられずに、もう一度声を出して読む。
「内宰府と護国府……対立の構図……、国政の根幹は内宰府たるべき……
護国府及び護国将軍の専横を廃し……国王と王太子を弑して、王弟シャノアを擁立……」 めまいを覚えて体を屈め、額に手を当てて考える。
「…………謀反? 謀反の連名状? 叔父上が内宰府と組んで謀反? すぐに、父上に知らせなければ、兄にも、こんな…………シーア?」
ルーゼンが顔を上げると、彼女は落ち着き払った目で彼を見守っていた。
「陛下はすでにご存知です。王太子殿下も。その、署名のない写しの部分を お持ちですから」 ――知っている?
シーアは彼が事態を飲み込むのを待っているかのように沈黙し、それからおもむろに 口を開いた。
「昔、もう二十年近く前と十年ほど前、王弟殿下は二度、陛下に対して悪心をいだき、 それをなそうとしました。
幸いそれらは、二度ともおおごとにならないうちに発覚し、秘密裡に処理され、 王統府でも一部の者しか知らない過去となりました。
二度目の計画が失敗に終わった後、国王陛下は、王弟殿下をアリスン監獄に 入れられて謹慎させ、こう告げられました。……三度目はない、と」
「三度目……三度目」 ルーゼンはつぶやき、嫌悪をもって連名状を見遣った。
「それで、この連名状の写しが陛下の手に渡った時、陛下は決心をされたのです。
ことがなされれば、いえ、これがおおやけになって人に知れ渡るだけでも、 王国が割れる原因になるでしょう」 「……内乱、か」
「はい。陛下は戦場がどのようなものかを知っておられます。その悲惨さ、
その及ぼす影響も。でも、王弟殿下はご存知なかった。もしくは知っていても、 己の野心を満足させることを優先させたのでしょう。
陛下は、血の繋がった弟殿下とはいえ、無辜の民と秤に掛けることは出来ない、 でも断頭台に送ることも出来ない、と父に……頼み……」
シーアの両手が、それと分かるほどに震え、とどめるように固く握り合わされた。
「父は、国王陛下の戦友としての責任からそれを受け、果たしました」
信じたくはなかった。けれども、疑うことが出来なかった。
「なぜ父上は、俺に話して下さらなかったのか」 そう問い、同時に、このような事態に安穏と、独りよがりの幸福をむさぼっていた
不甲斐ない男に話してもらえるはずがない、とルーゼンは自身に落胆する。
「ルーゼン殿下が王弟殿下と親しかったので、殿下がどのくらい謀反に関わっていたか、 わたくしたちには分からなかったのです。
ここの使用人たちは口が固くて、探りを入れても反応がなかった。
そのうえ、王弟殿下は亡くなる直前、ルーゼン殿下がその連名状に署名したと、 ほのめかしさえなさいました。
それを知って陛下は、殿下が王弟殿下の後を追って謀反に身を投じたのかと
苦悩され、一方で、関わっていない可能性にすがりつき、連名状が見つかるまで 謀反のことは第二王子に話さぬようにと、断を下されました」
ためらう様子を見せ、シーアが続ける。 「あの、殿下が……アリスン監獄で、謀反のことを何もご存知ないようでしたので、
わたくし、本当に驚いて……。 それで、署名入りのものが存在することは分かっていましたので、疑わしい場所を
探していたのです。王弟殿下の邸、行きつけの酒場、娼館、親しかった貴族たちの館、 王宮の内宰府の執務室、そして……ここ」
「ここ?」 頭の中で何かが、かちりと音を立てた。 書斎で、居間で彼の帰りを待っているシーア。それは、待っていたのではない。
「お前が……? 探していた?」
「そうです。でも、見つからなかった。
また、それと並行して、いつも王弟殿下に付き従っていた従僕も探していました。
王弟殿下の亡き後、その従僕は行方をくらましていたので、連名状の隠し場所を 知っていると推測されていたのです。
彼が見つかったのは武芸大会の直前――ルーゼン殿下の執務室に王太子殿下が
わたくしを呼びに来た時ですけれども、わたくしたちは彼を捕まえることが出来ず、
謀反側に先を越されてしまったので、ここ数日、何箇所かに見張りを立てて、 彼らが連名状を取りに来るのを待っていたのです」
「このところ毎日来ていたのは、そういう理由だったのか?」 ――メダルをくれたからとか、そんな理由ではなく。
「殿下には申し訳なく思っております。アリスン監獄のことがなくても、
殿下の好意を知っていたなら、わたくしは迷わずそれを利用したと思います。
今後のためにも、連名状はどんな手段を使ってでも、手に入れる必要がありましたから」
「護国将軍は国王の戦友として、その弟を殺し、お前は王太子の戦友として、 その弟と、……父上がお前に、俺と寝ろ……と?」
――国王のために命を投げ出すことが出来るなら、体だって投げ出すだろう。 言葉は続かなかった。
「もしまだ間に合うなら、息子を取り戻したい。陛下が言われたのは、ただそれだけです。
国王陛下も王太子殿下も、ルーゼン殿下を放っておかれたことを後悔されていました」
シーアは、たまりかねたように彼に近づき、目線を合わせた。 「ルーゼン殿下、……殿下は次代の王国を支える柱です。
どうか、兄殿下と仲直りして、陛下と王太子殿下をお助けして下さい」
いつも変わらない緑の瞳が彼を見詰めた。
主君を思い、国を思うのは騎士の本分。 流浪の女騎士は人々を助ければ、去ってしまう。
「……シーア」
ルーゼンは腕を伸ばして、彼女に手を差し出した。 父や兄の言葉よりも、叔父の謀反よりも何よりも、聞きたいことは一つだけだった。
「それで、お前はもう来ない? 俺はアリスン監獄で、お前を傷つけたことを後悔して、でも、俺は嬉しかったから、
お前と過ごす日々が幸せだったから、シーア……」 彼の欲しかった笑顔がそこにはあり、ルーゼンは許されていることを知った。
今なら、言えなかった言葉を言える気がした。
「愛している、シーア。
俺はこれからも、お前にそばにいて欲しいと思っている。 でも、お前は……? お前は父上と兄上に忠誠を誓っていて……、連名状が
見つかれば、ここにもう用はないのだから……」 シーアが彼の手を取りながら片膝をついたので、ルーゼンはそれ以上続けられなかった。
胸の鼓動が鳴り響き、心がじんわり熱くなる。 それが騎士の正式の礼になるのを知っているから、彼女の次の言葉を待ち受ける。
「もちろん、国王陛下と王太子殿下への忠誠の誓いは第一です。けれども……」
シーアが、彼の手の甲に口づけ、それから顔を上げて微笑んだ。 「わたくしは、あなたに――ルーゼン、……愛を誓います」
*
"智の王子"と呼ばれる国王の第二王子と、近衛の女騎士である護国将軍の
末娘との婚約が噂され始めた頃、人々はこの意外な組み合わせの理由について、 さかんに憶測した。
ある人はしたり顔で、国王陛下は王太子殿下の婚約者より格落ちの相手を
探したのだと言い、またある人は、野心的な護国将軍がその権勢を伸ばす ために陰謀を巡らせたのだと言った。
宮廷に近い事情通は、王太子殿下が仲の悪い弟殿下との和解のために、
配下の女騎士を差し向けたのだと解説し、別の事情通によって、弟殿下からの 申し出だろうと反論されることもあった。
いろいろな噂がされ、いろいろな考察がなされたが、ただ唯一、この婚約が
政略的なものであって、二人の間に特別な結びつきはないということだけは、 衆人の一致した意見だった。
……少なくとも、二人のむつまじさが皆に知られるまでの、しばらくの間は。 |