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   レネア

ルーゼンは、レネアが手を上げて人々の歓声に応えるのを、割目して眺めていた。
武芸大会の最終日、闘技場のひな壇で、王太子であるレネアは、堂々たる体躯を
午後の光にさらし、時が来るのを待っていた。
程無くして、場内が水を打ったように静まり返る。
それを見計らい、彼は再び手を上げて、自身の婚約を宣言した。

歓喜の声や拍手がどっと沸き上がり、空を震わせた。
貴族たちも民衆も、人々は皆、幸せそうで祝意にあふれていた。国王と王太子の
そばに居並ぶ近衛たちも、シーアも含めて誰も彼もが幸福と誇りに満ちていた。
兄は、顔も見たことのない姫と政略結婚するというのに、日焼けしたいかつい顔に
やわらかな笑みを浮かべていた。獅子のたてがみのような金髪が、いつもより
濃く輝いて見えた。

突然、ルーゼンは悟った。
ここに集う人々、或いはこの国に住まう人々の幸せが、兄の幸せなのだと。
それは、王者たるものの必要不可欠な資質だ。

ルーゼンは、もう一度シーアに視線を戻した。
シーアの胸に輝くメダルは、今日か明日にでも兄に捧げられるのだろう。
国政の表舞台に出たばかりの弟王子は、まだ兄王子を無邪気に慕っていた頃を
思い出し、涙にかすむ目を閉じる。
そして、王国の繁栄と栄光を祈った。



「お前がこんな時間に来るなど、珍しいことがあるものだな」
ルーゼンの寝室に入ってかけられた声は、シーアの予想に反して穏やかなものだった。
ベッドの上で、くつろいだ格好をしたルーゼンは、羽ペンを片手に書類を見ていた。
シーアは扉を閉めて、蝋燭の明かりが、かすかに届く場所まで二、三歩進む。

ルーゼンの執務室で会って以来の逢瀬。
理由はどうあれ、弟殿下より兄殿下を優先させたのだから、彼が怒り狂っていても
おかしくはない、と思っていた。
だから、シーアは彼の態度に拍子抜けして、首を傾ける。

「せっかくの祝宴に、馬術部門の優勝者がいないのは盛り上がりに欠けるだろうに」
もう真夜中も近かったが、王宮ではまだ、王太子殿下の婚約と武芸大会の成功とを
祝って、酒席が続いていた。
その席で、武芸にうとい第二王子が所在無げにしていたのを、シーアは知っていた。
「優勝者は他にもいますし、ルーゼン殿下が早々に退出されたようでしたので、
どうかされたのかと思いまして」
手招きされ、横に座るようにうながされて、シーアはベッドに膝をついた。
「どこか具合でも悪いのですか?」

「いや、少し考えていて……」
ルーゼンが彼女の胸に顔を埋めて大息を吐き、シーアは腕を回して彼を抱きとめた。
「武芸大会が、無事に終わって、……大変だったけれど、盛大で、皆が喜んでいて。
その、……上手く説明できないが、こういうのは良いなと思ったのだ。
王国が安定していて、平和で、人々が幸せそうで。
お前が父上や兄に忠誠を誓っている理由が、分かったような気がしたのだ。
それで……」

ルーゼンは空咳をして顔を起こし、見返す緑の瞳に勇気づけられたように独白を続けた。
「それで俺も……、その、短気なのを直して、何か出来ればと、力になれればと思って。
知識を身につけたり、国政の責任を引き受けたり、そういったことを」

ルーゼンの真剣な表情に打たれて、シーアはわずかにうなずいた。
武芸大会を通じて何がしかを学び、その結論に達したのだろうと、暖かな気持ちをいだく。
それは王族の一員として遅い自覚ではあったが、まだ遅すぎるわけではない。

「それに、もう一つ、分かった。……お前は本当に嘘つきだ、と」
「…………?」
シーアは一瞬どきりとして、ルーゼンに無言で問い掛けた。
彼にはたくさんの嘘をついたから、密かに心構えをして、しかし、表情は変えずに、
ルーゼンの次の言葉を待つ。
「お前はいつか、内治部に話せる人間がいるのは助かるなどと、俺の利用価値を
匂わせたが、いくら第二王子とはいえ、政務についたばかりの若造にどれだけの
権限があると…………笑ったな、シーア」
「……殿下、も、申し訳ありません。でも……」
シーアは、彼に咎められた後も、こみ上げる笑みをとめられなかった。

「だいたい、国政三府のうち、王統府も護国府もおさえてあって、内治部の
何を利用すると言うのだ。それら二つの府に比べれば、内治部などは所詮、
内宰府の管轄している内宰十二部の一つにしか過ぎない。
武芸大会でも、内治部の関与出来るところは、ほんの一部だった。
俺を利用するといっても、せいぜい、あの貴賓牢好きの近衛騎士の釈放書に
サインさせるくらいが関の山だろう?」
ルーゼンの不満げな顔がおかしくて、シーアはくっくっくっと腹筋を小刻みに震わせる。

「それを誰にも言われずに理解することが出来るなら、次の次か、その次くらいの
武芸大会には、内宰府の重鎮としてルーゼン殿下が仕切れるようになりますよ」
「ん、なる……かな」
「もちろん、なりますとも」
少し機嫌を直したルーゼンに、シーアは微笑みながら、なかば予見めいたものを
感じて断言する。
「次の次……十年後か。十年後、内宰府の重鎮なら……、シーア」
「殿下……」
その先をさえぎるため、シーアは自分の唇で彼の口を塞いだ。
「その書類は今、決裁しないといけませんか?」

二人はキスをしながら、お互いの服を脱がせる。
彼の服を脱がせるのも、自分の服を脱がせられるのも、すっかり手馴れて、
もう以前のようなぎこちなさは無い。
途中、ルーゼンの手がメダルに触れ、止まった。
「……優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
彼がメダルから手を離し、それ以上何も言わなかったので、シーアは安堵する。
と同時に、彼が努力してそれを諦めたのを思いやり、胸がちくりと痛んだ。

「シーア……、……」
「ん、…はい」
ルーゼンの手が、シーアのズボンと下穿きを、するりと脱がせた。
ベッド脇に服を投げ落とし、全裸になったシーアは、両手をルーゼンの胸に当て、
肋骨をさりげにさわって痩せ具合を確かめる。
それは、シーアが初めてこの邸に来て、国王陛下や王太子殿下が心配するほどの
痩せ方に衝撃を受けて以来、習慣になった動作だった。
皮膚が骨に張り付いているのを見てとって、シーアは、彼と一緒に夕食を取る時に、
できるだけ食べさせるようにすることを、忘れずに心に刻む。

「競技の間、お前を見ていた」
ルーゼンの低いささやきを受けて、シーアはまた笑った。
何回も目が合ったと思ったのは、やはり気のせいではなかったらしい。
「殿下は興奮していらした」
「ああ。抱きたくてたまらなかった。お前も、そうだったろう?」
彼女は肯定してうなずく。
思い出して体が火照り、その時と同じように興奮した目を見交わした。

シーアの唇と戯れていたルーゼンの唇が、首筋を通って胸まで下りる。
すでに赤くとがっている乳房の先を、上下のやわらかな唇に挟まれて、舐められる。
唾液でたっぷり濡れた舌先で、その形に沿ってなぞられ、すくわれるように包まれ、
時には丸く転がされる。
ちりちりとしたうずきがシーアの全身を駆け巡り、彼女をせきたてる。

「ぁ……ん」
シーアは、ルーゼンの金髪に指を差し入れて、胸を突き出すように体を反らした。
ルーゼンの快感を作り出す口唇が、もう片方の乳首に移り、今度は熱い息を
吹きかけられて煽られ、シーアはその快感に、歓喜の悲鳴を漏らした。
「やっ……んん、ぁふ、……っくっく」
彼と一緒に低く笑い、抱きかかえられて転がされる。

ルーゼンが、先ほど放り出した羽ペンを取り上げた。
シーアの目の前で振ってみせ、おどけたような表情を作り、彼女の頬を撫でる。
それから、顎からのどにかけて、そっとたどって滑り下ろした。
「殿下……、くすぐったいですよ」
「そうか? でも、じっとしていろ。……いいな」
その芯にまで響くかすれ声は、魅力的で逆らいがたかった。

やわらかいような、固いような羽毛の、奇妙な感触の愛撫。
ルーゼンの唾液で濡れた乳首は、空気を送るとひんやりして感じた。
シーアは、両手を上げて枕をつかみ、触れるか触れないかの触れ方に神経を集中させる。
胸から脇腹を通って、腹、へそ、さらにその下へ。
「あっ…」
それが太腿を回って敏感な突起に到達すると、むずがゆいような粘液がにじみ出て、
シーアは両足をこすり合わせた。

ルーゼンが手を止めて、シーアを見詰めた。下半身が戸惑い、うずく。
「殿下?」
「お前がそうやって動くなら……」
シーアはたまらず両足を緩め、ルーゼンを見上げた。
「……殿下」

「もっと、だ。もっと開け」
両足の間に手を差し入れられて、恥ずかしいほどに開けられた股のつけねを、
そよ風のような愛撫が通り抜ける。
「……はぁ、あ、…やっ……ん」
押さえきれない声が漏れ、触れられた場所がしびれ、足腰が深く沈みこむように重たい。

「んっ…、ぁ…、…ぁふ」
体をピクリとすくませて震えるたび、手を握り締めるたびに、ルーゼンが得意げで
楽しそうにするので、シーアの顔が一層熱くなる。
「ルーゼン殿下……」
シーアは下を見て、期待に胸を膨らませて、ルーゼンの目を直視する。
彼の瞳に映ったのは、欲情をあらわにして渇望する淫らな女。

ルーゼンが、シーアの手首をつかんで、手のひらに唇をつけた。
欲望に濃くなった目が、彼女の指の間から覗き込んだ。
「シーア、この前の続きがしたくはないか?」
彼がこうやって彼女に欲しがらせる理由は分かっている。
だから、いいなりになるのは良くない、と自分をいましめるも、いったん火のついた
欲望は、果てまで行き着かなければ、消しようが無い。

「……はい、……」
シーアは、こくりとうなずいて、与えられた快楽で麻痺したような肢体を、のろのろと
動かし、四つん這いになる。
あふれる液がつつっと内腿を垂れ、愛撫のように伝わってシーツにまで染みる。
後ろから覆い被さるルーゼンの重みを受け止め、彼の骨ばった胸板に、ぴったりと
こすり合わせるように背中をくねらせる。

首筋にかかる暖かい呼気、それに続けて、ぴちゃぴちゃと濡れた舌と歯が、
シーアのうなじを襲った。
肘を曲げてつっぷして這いつくばると、唾液が襟元から首のくぼみに流れて溜まり、
鎖骨から糸を引いて、したたり落ちた。
「あ、……殿下」
揺れ動く乳房を覆われてもみしだかれ、彼のものがあてがわれる。

「……あ、はあぁ、…ぁん」
ぐっと分け入るものを迎えて、シーアはそれに夢中になる。
なめらかに一番奥まで進められ、二人の繋がっている場所を前後に揺らされて、
肺から空気を吐き出した。

「シーア……、シーア、……シーア、……」
ルーゼンが彼女の名を繰り返し、合わせるように何度も動いた。
「あ、…ぁあ、はん、ぁ、ぁん」
いつもより性急に叩きつけられ、激しくかきまわされる。
勢いに圧迫され、短い息を次々に送り出して、衝動を受け止める。

シーアは、彼にどれだけ求められているかを実感し、それに応えるため、
そして前に得られなかったもののために、腰を突き上げ、貪欲に求める。
次々と燃え上がるような快楽が生まれ、乱れて、飛び散った。

「あっ、んっ、あぁ、ぁん、っふ、ぁ、……ぁあ、あ、あ、あ」
シーアは、ついに欲しかったものを手に入れて、自分がぎゅっと収縮するのを感じた。
時を同じくして、ルーゼンが静止してあえぎ、ぬめる液体が中に注がれたのを、
内側のどろりとしていく感触から知った。

「……それで?」
「それで、国王陛下の命令で、虐げられた人々を救う、名も無き流浪の女騎士の
物語に憧れて、わたくしも騎士になろうと思ったのです」
ことが終わった後、それでもまだ足りなくて、二人は揺れる蝋燭の影の下、
弛緩した肢体をからめ、混ざった体液の匂いをかぎながら、ぽつりぽつりと
耳元でささやきあっていた。
それは、お互いの心臓の音を聞くような近しい、親密な時間だった。

シーアは、自分の胴体に巻きついているルーゼンの腕に、優しく触れた。
「ルーゼン殿下も、全く鍛えてないというわけではないのですね」
「ま、まあな、…そ、その、その少しはな」
ルーゼンは、なぜか少しあせったような口調で、どもりつつ答えた。
彼の慌てた理由は、はっきりとは分からなかったけれど、シーアは、彼の狼狽ぶりに
顔をほころばせ、血が昇って熱くなった彼の耳たぶに唇をつけた。

「剣術ですか?」
「剣と馬を、少し……」
王族の方は出られませんけれど、と前置きして、シーアは彼の顔を覗き込んだ。
「武芸大会に出てみたかったですか?」
「そのような理由で、剣を始めたわけではない」
「では、どのような理由で?」
「別に、どんな理由で始めたっていいだろう。あまり、そんなに、上達しなかったし」
ぷいと横を向いたルーゼンの顔は、真っ赤になっていた。

「わたくしと五本勝負で何本勝てますか?」
なんとなく聞いた質問が呼び水だった。
「お前と? お前とだったら、当然……」
ルーゼンは、にやっと笑い、照れ隠しのようなやや乱暴な動きで、彼女の両足を
つかんで開かせ、のしかかった。
「えっ…、あっ……殿下!」
先ほどのまじわりで、中はまだやわらかくどろどろに濡れていて、突然の侵入にも
たやすく対応して、彼を包み込んだ。
「全部、勝てるな。お前は俺しか知らない」
「い、あっ…、……そういう勝負では、ありま、せ、…んんっ…っぁあ、っん」

言葉は続かず、嬌声に変わった。
入ってくるものに対し、シーアは力を抜いて主導権を明け渡した。
実際、ベッドの中で、もしくは外でも、それで彼に勝てたためしはないのだから。
彼に触れられた肌は感覚が鋭くなって、こすられて息が乱れた。
「んっ、殿下、…どうか、…あ、もう……、……」
シーアは二度目を欲して、ルーゼンにしがみついて視線で請う。

「ぁん、……、……ぁ、あ…あ…、……」
こすり付けるようにしごかれ、こねまわされる。
二人の粘液の溜まったものが波立ち揺れる水音と、肉のぶつかる卑猥な音とが、
喘ぎ声に混ざった。
与えられる快楽に溺れ、その快楽のその繋がっている場所のように、シーアは
身も心も、ぐちゃぐちゃにとろけさる。

「っく、…シー、ア、……は…、…っ」
「やっ、ん、あっ…んっ、んっ、…っんんぅ」
ルーゼンがうめいて深奥で跳ね、シーアは彼の欲望を受け止めて、ぎゅっと
収縮を繰り返す。
また二人は同時に果て、崩れ落ちるように折り重なって倒れ込んだ。



シーアは、自身に乗せられたルーゼンの手を、避けるようにどけて、ベッドから
静かに滑り出た。
床に投げ捨てた服をかき集め、身支度をととのえる。

ゆらりと、足元にのびる明かりのきわが揺れ、彼女は、ふと顔を上げた。
ベッド脇のテーブルの上に置かれた燭台に近づき、顔をしかめる。
上質の蜜蝋で出来た太い蝋燭は、いつもつけっぱなしで、おそらく一晩中
そのままになっているのが、突然、ひどく気になった。

「……シーア」
不意打ちのような呼びかけに、シーアの心臓が飛び上がった。
なかば眠たげなルーゼンの瞳が、明かりを受けて金色に光る。
「それは、消さないでくれ」
「でも、……まぶしくて、…眠れないでしょう?」

ルーゼンは何か考えている風にまぶたを閉じた。
「…………昔、王宮に住んでいた頃、夜眠るのが怖かった。
夕方から夜中にかけて、よく熱が上がって苦しくて、このまま、目を閉じれば、
朝まで生きていられないかもしれない、暗闇の中、一人きりで死んでしまうかも
しれない、と思って。……だから、せめて明かりは」
胸が少し、きりっと鳴った。
「ルーゼン殿下、でも……、今は、健康になって……」
「今は……、朝起きて、お前がいないと知るのが寂しい」

ルーゼンが上掛けから片手を出して、シーアに差し出した。
「もう少しだけいてくれないか? もう少しだけでいいから……」
目を開けて、一心にこちらを見るルーゼンの訴えに、感情の弱い部分がぐらつき、
それを自覚して、シーアはうろたえた。
拒否すべきだとの内なる声はあまりにも小さく、その手をどうすることも出来ずに握り返す。

「…………はい、……」
「ありがとう。……シーア、今夜は来てくれて嬉しかった」
シーアはベッドに腰掛け、上掛けを引き上げて彼の肩をくるみ、つややかな金髪を
優しく撫でる。
「それに他のことも、いろいろありが、と…う」
「…………」

ルーゼンの次第に穏やかになっていく呼吸を聞きながら、それとは反対に、
シーアの表情は我知らずに険しくなる。
この邸に来るのは良い、一緒に夕食を取ったり、何かについて語ったり、
国政に関して意見して手助けをするのだって良い。
他のことも――共に夜を過ごすのも、彼と寝るのを楽しむのも。
でも、これが時間稼ぎであること、時々突き放したり、釘をさしたりすることを、
忘れてはいけなかった。

もうあまり時間が無いことは分かっていた。
王太子殿下がルーゼン殿下の執務室まで呼びに来た時から、遺恨を残さないで
彼から手を引く方法を考えていたけれども、いまだにどうやっていいか思いつかず、
ずっと頭を悩ませていた。
そのうえ今日も、彼が十年後の希望をいだくような言動をとってしまい、扱いかねて
誤魔化したことに、今さらながら、突き刺さるような後悔を覚えた。

――いずれ時が来て、悲しむのは、ルーゼン殿下なのに。

シーアは、そっと手を抜いて、そろそろと後退した。
ルーゼン殿下は王族として学ぶべきものを学ばずに成長した。
だから彼は、第二王子という立場に比して、その行動は危うい。

脅迫と言う手段を使って、女をものにするような直情さ。
愛人の言動に一喜一憂し、言われるがまま書類にサインするような軽率さ。
本心はどうあれ、皆で祝っていなければならない祝宴を、中座と取られかねない時間に
退出することが、うがった見方をする人々から、兄殿下への叛意と勘ぐられることも
あるのを、配慮しなければならなかった。

シーアには、ルーゼンの寝顔が無防備すぎるように見えた。
――殿下は、生来病弱で、体力がなくて、よく眠っているから、そんな風に見えるだけ。
彼女は、ルーゼンから視線を引き離し、首を振って、扉に手をかける。
――それ以外の理由はないもの。

「……っ」
わずかに開けた扉から、冷たい隙間風が彼女の脇を通って、忍び込むように侵入し、
ルーゼンを照らすはずの明かりを吹き消した。
一瞬にして、空間が暗闇に閉ざされ、シーアは思わず振り返った。

耳が痛いほどの静寂と、ほの蒼い闇の中で、彼女は立ちつくす。

もし今、彼が暗闇の中で目を覚まし、彼女の離したうつろな手を、やみくもに振り回せば、
誰がその手を握り返すだろう。
或いは、あたたかい確かな何かを求めて、彼は、手に触れるものならどんなものでも、
たとえ獣の手でさえも、救いと信じてすがりついてしまうかもしれない。

シーアは衝動的に、足音を立てないようゆるゆると、ベッドの方へ戻った。
動悸が激しくて、他のことは何も考えられなかった。
「ルーゼン、……殿下」
痛みとともに、顔をゆがめて小さくつぶやき、彼の寝息をよく確かめる。
それから、自分の胸からメダルを外し、彼のやわらかく丸まった手の内に、それを
押し込んだ。



翌朝、シーアは馬場にいた。
遠乗りが趣味という王太子殿下の婚約者のために、彼女用の何頭かを片鞍に
調整する仕事は、自ら進んで引き受けたものだったが、今日ばかりはどうしても
集中できないでいた。

馬が乗り手の不安定さを感じていななき、彼女はついに諦めて、ちょうど馬場に
やってきた王太子に視線を移した。
昨夜か今朝に捧げられたメダルが三つ、彼の胸で朝日を受けてきらめいていた。
「殿下……、また……」
そばによって馬を降りたシーアは、一礼後、また護衛をつけずにいたレネアに
咎める顔を見せる。
彼は、よく分かっているとでもいう風に、手をあげて彼女の言葉をとどめた。

「そういえば、先ほどルーゼンに会った。どこか上の空で、落ち着かない様子だったが」
レネアは先制して、シーアの何もつけられていない胸元を見ながら言った。
「そうですか? 何かあったのでしょうか」
シーアが素知らぬ顔でしれっと答えたので、王太子は笑った。

「あれは隠し事に向かないかもしれないな」
「内治部では、きちんとやっていらっしゃいますよ」
むっとして反論した言葉に、レネアは意外そうに眉を上げた。
「そうか。まあ、それはそういうことにしておくが……。しかし、お前がそれほど
情に流される人間だとは知らなかったな。俺とはキス一つさえも、勘違いするなと、
あんなにうるさかったのに」
「当たり前です。情に流されては、殿下もわたくしも困る結果になるだけでしょう?
お互いの立場というものもありますし」
シーアは、自分の心がそんなに痛まなかったこと、いずれ痛みは消えていく予感が
したことに、ひそかに胸を撫で下ろした。

「ルーゼンはいいのか?」
レネアが聞いた意味は違うと分かっていたが、シーアは無意識に、昨夜の痴態を
思い出して、ぼっと顔が熱くなった。
「ほおぉ」
からかうような口調に、シーアは答えに詰まる。
「ええ。……え、と、少なくとも、ルーゼン殿下は騎士の理想の一つです」
「騎士の理想?」
「"戦友と背中合わせに戦い、恋人を背中にかばって戦う"」

その冗談に、王太子は再度吹き出して哄笑した。
「それで、お前はルーゼンを背中にかばって戦うのか?」
「レネア殿下も、婚約者の王女殿下を背中にかばって戦いたいでしょう?」
「それはそうだが、それにしても……ルーゼンを……くっくっく」
「……殿下!」
腹を抱えて笑うレネアに、シーアはまなじりを上げる。

「お、そうか、分かったぞ。お前は過保護だから、ルーゼンを甘やかして、甘やかして……」
「あっ、甘やかすだなんて、人聞きの悪いことを」
「あれのために情報を集めてやって、根回ししてやって……」
「ルーゼン殿下には、それが必要なのですよ」
「甘やかすことが?」
「違います! ルーゼン殿下は、レネア殿下やわたくしのような近衛育ちでないの
ですから、誰かが連絡役を務めるべきなのです。そうしないと、知り合いのいない
王統府や護国府とは、事前の折衝が出来ないですから……」

「しかし……、シーア、メダルをやって……」
「それも、誤解です!」
何が誤解なのかも分からぬまま、シーアは抗弁し、レネアは笑い続ける。
「一緒に寝てやって、…くくっ、……内治部の、執務室で、……」
「レネア殿下!」
いまや、シーアはうなじまで深紅色に染まっていた。
「分かった、分かった。すまない。これ以上はやめておく」
レネアは、にやにやしながら、手のひらをシ−アに見せるように上げて、話をきった。

「それで、……戦友」
レネアが急に声をひそめ、シーアは体の筋肉を緊張させ、唇を引き結んだ。
「先を越された。……例の叔父上の従僕が謀反側に捕まったと報告があった。
署名入りのものの有り場所は、向こうに知られたと見ていい。
ここ何日かが勝負どころになるだろう」
「……わかりました。では、他の者にも声をかけて、すぐにでも見張りにつきます」
「ああ。十分に気をつけてくれ」
「はい。レネア殿下も、身辺の用心はおこたりなくなさって下さい」
シーアは微笑んで返し、レネアが苦笑してうなずく。

「シーア、……」
馬を引いて厩舎に向かったシーアを、レネアが呼び止めた。
「……ルーゼンを頼む」
彼女は、その表情を見て、兄弟が和解できることを確信する。

兄弟の不仲の原因を聞いた時、彼は話さなかった。
ずっと後になって、話しても話さなくても結果は変わらなかったですね、と彼女は笑った。
これも自分の責任ですから、やるべきことをやるだけです、とも。

だから、シーアは剣を掲げ、いつまでも変わらぬ忠誠を誓い、レネアに対して
主君に対する騎士の礼をとった。

 

 

 

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