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   チアニ

ルーゼンは、チアニがいさめるような咳をするのを聞き、微苦笑を噛み殺した。
この主人思いの執事は、まだ若いくせに古風なので、ルーゼンの愛人が邸に
出入りするのを、嘆かわしく思っているのだ。
まして、愛人がまともな入り口を使わず、しかも約束も招待もなく来邸することに、
迎える側の執事として、誇りが傷つけられているらしい。
そのうえ、今も彼女は裸のまま、ルーゼンのベッドで、ルーゼンの隣にいるのだから、
大事な主人を堕落させる悪の権化とでも見なしているかもしれない。

「何だ?」
体を起こして、頼んだ書類を受け取り、非難の意見は聞かなかったことにした。
「いえ、何でもありません。何か他にありますか?」
「ないので、今日は下がってもいい」
「そちらのご婦人も、ご用はありませんか?」
チアニが言い、ルーゼンも思わず愛人――つまり、シーアの方へ振り返った。
「いいえ、ありません。でも、ありがとう」
ヘッドボードに立てかけた枕に寄りかかり、上掛けで覆って胸まで隠したシーアが、
チアニに感じのいい笑顔を見せた。

「人の噂になるから、顔も隠した方がいいのではないのか」
チアニが部屋を出た後、ルーゼンはシーアを咎めた。
本当は、シーアがチアニにさえ笑顔を見せるのが嫌なのだと、自分の我がままを
後ろめたく思う。
「ここの使用人たちの口が堅いのは知っていますから」
シーアは笑顔をそのままに、ルーゼンの方へ体を向けた。
「でも、殿下が軽率なので、報われないですね。……ふふ、殿下の新しい愛人の
瞳の色について、宮廷で賭けになっていますよ」

「瞳の色?」
二人の不名誉で世間をはばかる関係が、早くも暇をもてあます宮廷人たちの
賭けの対象になっていることに、ルーゼンは憮然とした。
「もちろん、ルーゼン殿下が求められた、高価な女物のエメラルドの首飾り……」
ルーゼンは枕の下に忍ばせた彼女への贈り物のことを考えて、どきりとした。
「……それが噂の的だからです。愛人の瞳に映える色だからか、それとも別の――
例えば、愛人の誕生石のような理由からか、愛人が殿下にねだったからか。
わたくし、緑に一口賭けようかと思っております」

ルーゼンの愛人は、いたずらっぽく緑の目を光らせ、同時に、それとなく警告するような
口調に変えて続けた。
「賭けの決着が付くには、殿下の愛人が公の場でそれをつける必要がありますけれど」
「……そうだな。俺が何を贈っても、人に知られてしまうな」
彼女の物言いに、ルーゼンは溜め息をついた。
――俺が浮かれすぎているとでも言いたいのか。

シーアは、彼女の言う「都合のある日」と「危ない日」を避けて、ニ、三日に一度、
大抵は彼より早く、ルーゼン邸に通って来るようになっていた。
王宮で過ごす日中の関係は以前と変わらない。
だが、自邸の書斎で本を読んだり、居間で絵画を見ながら、彼を待っている彼女を
思うと、どんなに困難な仕事でも、疲れを覚えない気がした。

シーアは情熱的な恋人を演じてくれていた。
二人で戯れて、肌を合わせ、夜を過ごす。
彼女にいろいろ教え込むのは楽しくて、彼女も応えてくれている。
それだけでなく、夕食を一緒に取ったり、楽器を爪弾いたり、お気に入りの画家の
作品を語ったり、仕事のことで彼女の意見を聞くのは、とても満ち足りた時間だった。
今夜のように、シーアと一緒なら、ベッドの中であれこれと、厄介な問題についての
書類とにらめっこするのも悪くない。

そんな毎日が、幸せだと思う。
けれど、シーアの何気ない手の動き、ふっとそらす視線に、その幸せが独りよがりで
あることを認識し、忘れないよう意識させられる。

「免税の嘆願書? これは内治部の管轄ではないでしょう?」
シーアが彼の後ろから抱きつき、肋骨をふわふわと撫でながら、チアニの持ってきた
書類を覗き込んだ。背中に当たる乳房が、やわらかくてあたたかい。
「あ……、ああ。内宰府の……叔父上から受け継いだ仕事だ。
その、たぶん俺は、叔父上の後を継ぐかたちになるのだと思う」
叔父上のことを俎上に載せると、いつも気まずい沈黙が落ちる。
「え、あ、……そうですね。ええと、メッシエ・スールエ鉄山、採掘量の減少により免税」
首をかしげて頬を寄せた彼女の声が、彼の皮膚に伝わって響く。

「書類はこれだけですか? 一ヶ月前にメッシエ・スールエを通りかかった時は、
別にさびれた感じではなかったのですが。
あの地方は昔から鉱脈筋が多くて、……ああ、そう言えば、鉱山師らしき男が、
遠いだの新しいだの喋っているのを耳にしました」
「従来の鉄山は掘りつくしても、どこか別の場所で掘っている可能性があるのか」
「ええ、ありますね。あそこの領主は小利口だとの評判ですし」
「では、調査の者を派遣して、新しく調べてみよう。
ないとは思うが、一ヶ月前と状況が変わっているかもしれな……一ヶ月前?」
一ヶ月前と言えば、アリスン監獄の後、シーアが熱を出して、十日間休んでいた頃だ。
そして、メッシエ・スールエは王国の東の端。首都からどんなに急いでも三日はかかる。
「……あら?」
口を滑らせたのに気づいたらしい。
誤魔化そうとしたのか、彼女はルーゼンの右肩に顎を乗せ、首の辺りに軽く口づけをする。

「で? メッシエ・スールエへ何をしに行ったんだ?」
振り向いて押し倒し、体の下に組み敷く。シーアは悪びれもせずに、彼を仰ぎ見た。
「メッシエ・スールエではなく、国境を越えて、その先の国の女王陛下と内密の要件で
お目にかかるため行ったのです」
「女王?」
「と、今年十六歳になる王女殿下の顔を確かめに。王太子殿下のお相手として」
「兄の相手? 結婚相手か!?」
「はい、女は女同士と言うこともありますので、国王陛下と王太子殿下のご依頼で」
ルーゼンは肩を落として、枕に顔を埋め、うなり声を上げた。

「それで、お前は……」
――お前の、"大事な王太子殿下"の婚約をととのえたのか?
言いかけて、飲み込む。
――自分の好きな男の。
そっと彼女の顔をうかがうが、伏せたまつげの下の表情は読めなかった。

「北方の国境がまたきな臭くなっていますから、東を安定させたいとの陛下のご意向です」
やはり、兄は政略結婚をするのだ、と半ば納得しながらも、しかし、理不尽とも思う。
「東を安定させるといっても、あちらは小国で、俺の家と比べ、格が低い。
第一、兄と十六歳の姫では年の差がありすぎるのではないのか?」
「そうですね。年齢や国力から見れば、第二王子殿下が娶られる方が、釣り合いの
取れる組み合わせかもしれません。……ルーゼン殿下、そうされますか?」
彼女は、まるで馬や犬の繁殖話でもしているように提案する。
「お前は……」
――俺の気持ちを知っていて……。
「残酷な女だ」

シーアは、かすかに笑って、乳房の上で両手を合わせるように指を組み、その爪先に
目をやった。
「……あちらの王女殿下は、わたくしと違って、なかなか可愛らしい方でしたよ。
でも、あの傑物の女王陛下の血を受け継いでいらっしゃるなら、立派な妃殿下に
なられるでしょう」
彼女が可愛らしいと言った時、声に嫉妬が混ざっていたのを、彼は聞き逃さなかった。
「うらやましいのか?」
――兄と婚約する姫が。

「ええ、まあ」
シーアは、ルーゼンの怒気を含んだ目色を見て、少し困ったような顔をした。
「……今の自分を後悔しているわけではないのですが、時々、あんな風に育つことも
出来たのかと思うことはあります。花や刺繍や女らしいことで、頭をいっぱいにして……」
シーアは手のひらを掲げて、蝋燭の明かりにさらした。皮膚が変色するほど固くなり、
所々ひび割れている。刺繍などしたら糸が引っかかってもつれてしまうだろう。
「閨閥のために父の薦める貴族の男性と見合いをして、……顔も知らずにすませる
場合もありますが」
話をそらされたのに気づいたが、ルーゼンは、"貴族の男性と見合い"の部分にむっとした。
「それで、顔も知らない男と結婚して、好きでもないのに寝るのか?」
「そういう風に育ちましたので」
彼女は皮肉げにくすりと笑い、彼は何を皮肉られているのか悟って、唇を噛んだ。

「申し訳ありません、殿下。そんなつもりでは……」
シーアは取り繕った笑顔を作り、唇に人差し指を当てた。
「あの、王太子殿下の婚約は、来週正式な使者が立って、水面下で話が進んで
いるとの噂が出回る手はずになっていますから、それまで内緒にして下さい」

「ああ、教えてくれてありがとう。もし、噂好きの連中から最初に聞かされたら、
もっとショックだったかもしれないな」
――父上は俺に話して下さるつもりがなかったんだろうか。
父王は特に、兄に目を掛けて可愛がっていた。
その一方でルーゼンのことは、幼い頃の病弱ゆえに見放していた気がしていた。
――それが、こんな形で証明されるとは。
ルーゼンの心臓は、ちくりと痛んだ。

「それを今、俺に喋って良かったのか? 父上は内密にしろと仰せられただろうに」
シーアは自分の唇に当てていた指を、今度はルーゼンの口元に持っていった。
「ルーゼン殿下が心無い方法で聞いてしまうのは不憫だ、と陛下がおっしゃいましたので。
ですので、もし近いうちに、実は……、と誰かが持ちかけたら、驚いた顔をして下さい」
「ん、分かった」
――では、父上は俺を忘れてないのだな。
ルーゼンは舌をちろりと出して、彼女の指を舐めた。彼女の瞳孔が開いた。
引っ込めようとするのをつかみ、ざらざらとした手のひらをむさぼる。
指を一本づつ口に含み、粘液で湿らせた皮膚の感触が、彼女の隅々に行き届くまで、
しゃぶりついて味わう。

「近衛がそんな仕事もするとは知らなかった。国王の護衛に、毎日の訓練、密使。
再来月に武芸大会もあるから、また忙しくなるな」
五年に一度開かれる武芸大会は、五日間にわたって首都で開かれる一大イベントで、
軍を統括する護国府や近衛、それに内治部も駆り出される今一番の大仕事である。

「……あ、はい」
シーアは返事の代わりに、欲望の混ざった溜め息を返す。
「ああ、武芸大会の弓術部門の控え室の件な、やはり、前回の場所は破損が酷くて
使えないから、北の離宮を開けさせようと思う」

北の離宮を使うと決めたのは、そういう要望があるとシーアに教えてもらったからだ。
「良い判断をなされましたね。北の離宮は会場に近いので、皆が喜びます」
シーアが、濡れてやわらかくなった指先を彼の胸に這わせ、口元に会心の笑みを
浮かべた。
それにつられて、ルーゼンも顔をほころばす。

「詳細を詰めたいのだが、誰に聞けば詳しいかな」
シーアは護国府の古参兵士の名前を二、三挙げた。
「前回の現場で仕切っていた責任者です。明後日なら空いているはずです」
「では、彼らを呼んで、検討しよう」

近衛は本来、国王を補佐する王統府の直轄で、護国府とは別組織だ。
しかし、その構成の過半数が、護国府からの選抜で占められ、交流も多いので、
近衛と護国府とは、一部と言っていいくらい密接に繋がっている。
それに、彼女の父親が護国府の長官である護国将軍だからというのもあってか、
武芸大会の情報を手に入れやすく、おかげで、準備段階の調整が予想以上に楽だった。

――考えてみれば、シーアは第二王子たる自分よりも国王に近いのだ。
ルーゼンが王宮の暗い寝室で病魔に苦しんでいた頃、シーアは父王や兄のそばにいて、
父王の言葉を聞き、行動をともにしていた。
そして生粋の近衛は、時には執務中の国王から意見を聞かれたり、国王の目や耳と
なって随所を回ることもあるがゆえに、内外の国事に精通する者も少なくない。

「シーアに教えてもらっているから、支障なく仕事が運ぶ」
武芸大会だけではない。シーアは他の仕事も良く知っていて、折に触れて父王の考えを
話してくれるから、王統府や内宰府から駄目出しされる案件が減ってきている。
「感謝している」
彼女の体に腕を回し、ふざけてわざと音を立てるように口づける。

「……ええ、……」
シーアが、すっと目をそむけた。
なごやかさが瞬時に消え、二人の間に冷たい空気が流れる。

「……内治部に直接話せる人物がいるのは、こちらとしても助かりますから」
その低い声は、幾分か曖昧な色を帯びていた。

――それが第二王子なら……、
シーアを愛撫する手が止まった。
――護国将軍にとって、娘を差し出してでも得たいほどの価値がある。

――そうだ、第二王子だ。
父王は護国将軍の戦友で、護国将軍を頼りに思っている。
叔父上は自分と同じく、近衛にも護国府にも関係なく育ち、護国将軍の政敵となった。
その叔父上を始末すれば、残る王家の主な男子は、国王の三人の息子だけ。
王太子は近衛だ。近衛であれば、護国将軍と護国府の支持を受けていると言っていい。
兄の婚約の密使にシーアが出たくらいだから、これも護国将軍の後押しがあるのだろう。
十一歳の末王子も近衛志望で、来年から近衛近習になることが決まっている。
病弱だった第二王子は、成人まで持たないと言われ、後見人がいない。
だから、健康になった今、それを押さえれば、王家は、ほとんど護国将軍の手の内では
ないか。

――最初にきっかけを作ったのは俺だ。
「お前や護国将軍が腹黒いと言われる理由が、分かったような気がする」
シーアは、はっきりと苦笑し、自分の手を彼女の太腿に乗せた彼の手に重ねた。
「腹黒いのは、お嫌いですか?」
「少なくとも、好きではない」

――でも、後悔はしてない。
「"智の王子"の名が泣きますよ」
「俺は画家や音楽家の後援をしているから、"智の王子"と呼ばれるのであって、
お前たちのように陰謀を振り回したことはないんだ」

彼女は体を寄せて、あでやかに誘った。
「それは残念ですね。腹黒いのは、時々、役に立ちますのに」
太腿を割り、足を絡ませて、彼の欲情を煽る。
「時々、なのか?」
シーアに撫でられる皮膚がピリピリと熱い。
甘い餌をちらつかせ、唇を濡らすシーア、それに抵抗できない自分が恨めしい。

「ええ、人の心は複雑で、よく分からないことも多いので、上手くいくことは少な……ん」
「俺のように、か?」
ルーゼンはシーアの首筋に吸いつき、彼の印を焼き付ける。
彼女は手を滑らせ、彼の背中をさすり、流れる極細の金髪をすいて、もてあそぶ。

そうやって利用されるのは愚かなのだろうと思う。
でも同時に、自分に利用価値があるのなら、それを使いつくしても構わないと思うほど、
ルーゼンは愚かで、幸せだった。
「俺の心は簡単だ。お前を手放すつもりはない。それだけだ」

彼女はその淫らな場所に、彼を優しく受け入れる。
こんな風に彼女の心に入り込めたら、と彼は夢想する。
「シーア……、お前は……」
ルーゼンは、それを聞かない。
聞けば、彼女は臆面もなく嘘をつく。
その嘘には耐えられない。

シーアが両足を巻きつけて、彼に合わせて腰を揺らす。
唇の間から舌を入れ、口中をまさぐり、唾液を流し込む。
彼女の息が乱れる場所を慎重に刺激し、真珠色の肌を輝かせる。
瞳をうるませ、せがむように高く悲鳴を上げるまで、念入りに責めたてる。

どこまで快楽を教え込んだら、自分から離れられなくなるのか。
どれだけ快楽を覚えさせたら、そばに引き止めておけるのか。

くちゅくちゅと淫靡な音を立てる水路がうねった。
さざなみが背中をつたって昇り、脳髄を極彩色に染めて、彼を狂わせる。
ルーゼンは、彼を魅了する彼女の全てに陶酔し、そして願う。



けれども、シーアはいつも、朝が来るのを待たず、振り返りもせずに帰っていく。

 

 

 

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