僕は特ダネになりそうな噂話を追い掛けていた。
或る、新興宗教団体が詐欺紛いの行いをしているという噂。
僕は去年の秋に、世間を騒がせた連続婦女バラバラ殺人事件に絡んだ宗教事件が切掛けで、宗教絡みの事件担当という印象が付いたのか、その手の事件ばかり追いかけらされていたし又、自ら進んで追いかけるようになった。関口には例によって胡散臭い噂話を記事にしてもらっている。その関口の〆切は未だ先だ。
――関口は、どうしているだろうか――。
あの日からもう一週間は経っていた。僕ら、あの日から、一度も顔を合わせてはいない。何であんな事を咄嗟にしてしまったのか――理由があるのなら誰か教えて欲しい。しかし、後悔は無かった。
只、素直に自分の事が分からないと思っただけだ。もう、どうせ別れる。きっと、あの時、僕だけじゃなく関口もそういう気持ちだったのではないか。そんな気がした。
あの日、関口が買った袋に入ったままの本が、僕の部屋の引き出しに仕舞われている。
一体どうすれば良いのか決心が付き兼ねて、奥に仕舞いこんで放置してあるのだ。関口に返したいが、彼に会う自信が僕にはなかった。別に、別れを切り出された訳でもなく、僕が別れを切り出した訳でもなく――しかし、僕は確実に別れを悟っている。恋人同士の関係が解消したって、何が変わるという事も無いのだろうと予感も、するのだが。
――逆に云えばそれが哀しいといえば哀しかった。
作家と編集者の関係だ。僕が恋人同士だと思っていた期間、関口にとっては多分。仕事上での延長――か、それに似た何か。結局、それだけだ。
疑惑が記事に姿を変えるには、結構の時間が掛かる。赤井ビルの三階、「實録犯罪」のオフィスにあるディスクに向かって、僕は追いかけている件とは別の編集作業をしていた。
今月も休刊にする訳にはいかない。僕は實録犯罪の存続に必死なのだ。電話が鳴る。原稿を睨んだまま、取ろうとしたら先に上司が取った。訊き返したり、ええ、はい、を繰り返しながら対応している。直ぐに電話は切れた。眼鏡を押上げて、困ったといわんばかりに腕組みをした。
「どうかしたんですか」
「どうかしたんですか、じゃないよ。鳥口君、君ね、関口先生を怒らせたんでしょう。一体あの気弱な先生をどうやれば怒らせることが出来るのか、知りたいねぇ。全く君ときたら」
「――関口先生からだったんですか? 先生は何だって?」
「担当を替えて欲しいとのことです。要は、君じゃ駄目だということでしょう。いつもにも増して覇気の無い細声で電話越しなもんだから聞き取るのに苦労したよ」
関口はもう、僕とは顔をあわせたくないのか。しかしそういう手でくるのか。せんせい。
「――僕の代わりは居るんスかね」
ねえ、関口せんせい、もう僕の代わりはいるんですか。
「居ないのは入社してからずっと承知してますよねぇ。社員三名なのに何処に余力が残っているの。猫の手だって借りたいし。判ってるでしょ。まあ、今日の所は必要な取材も終わっているし――関口先生を何とか宥め梳かして来て下さい」
ああ――やっぱりな、そう来るだろうな。
素直に代わりの人間を立ててくれはしないものだろうか。僕は関口に拒否されている間は彼に会いたくは無い。否、会いたい気持ちだってあるのだけれど――。
「今日、なんですか? 何とか関口先生の要望に応えられる――訳無いですよね」
「判ってるなら、さっさと行って来て」
ああ、愛社精神、糞喰らえ。
僕はそれから、一時間後には中野の関口宅の門前にいた。
呼び鈴を押すのに軽く躊躇したのだが――関口が居なくても居ても、どうにでもなれ、という気分で、呼び鈴を押した。ついでに景気付けとして御免下さい、と大声も張り上げる。
――関口の性格を考えると、居留守を使うかも。
いつもならその可能性を考慮して鍵が掛かっていないなら、ずかずかと入り込むのだが、今日の所はそうしなかった。どうにでもなれ、と思いながらも、割り切れていない。
はい、どなた――ああ…奥さんが居るのか――鳥口です、實録犯罪の。ああ鳥口さん――玄関戸が開いた。白い顔で悲しそうな感じの美人が顔を覗かせる。
「こんにちは、いきなりすみません。先生はご在宅ですか」
「ええ――それが…居るには居るんですが、アレは人に会えるような状態ではないんです。先週からずっと臥せっていて――」
持病――鬱病が悪化しているのか。前後関係を考えると、自惚れるなら原因は多分僕だろう。――いや、云い直すべきだ。僕が原因ではあるが、関口は自家中毒を起こしているのだ。きっと僕のことなんて、毛ほども思い煩ってはいない。
「――酷いんですか? 先生の顔を見る事は出来ませんかね」
以前にもがこんなことがあった。その時も関口はずっと寝込んでいたらしかったのだが、奥さんに招き入れられて会った関口は、そんなに酷い状態ではなかった。
少し話せば直ぐに憎まれ口を叩ける程だったのだ。しかし、今日は会えない程酷いのか。――それとも、僕には会いたくないから奥さんに断らせているのか。まあ、当たり前かもしれない。あんな気違いじみた行動を取ってしまえば、誰だって僕に会いたいとは思わないだろう。
「ええ、ちょっと――今日はお仕事のお話でいらっしゃったの?」
「いえ――、この本を関口先生に渡してくれませんか。頼まれていた資料です」
僕は細君にこの前、出掛けた時に関口が買った本が入っている紙袋を渡した。
「それから、先生の要望が通る様に何とかしてみる、と先生に伝えてくれませんか」
判りました、と云って細君は頷いた。
「僕の用件はそれだけですから。――それでは失礼します」
僕は云いたい言葉を沢山飲み込んで、玄関先から退いた。お大事にとか、今度飲みに行きましょうと伝えて下さいとか、何だかんだ――そういう言葉を飲み込んだ。
白々しくて我慢が為らず、言葉に出来なかった。いつもならすらすら出てくるオベンチャラが。
ダットサンそっくりに改造した本郷製品に乗り込んで、関口宅の玄関を窺うと、もう既に雪絵は居なかった。
キィを回してエンジンが掛かる。
僕は道具だったのだ。
急にそんな感慨が沸き上った。それは随分前に承知のことだったのだが、今は無性に悲しい。
ああ、あんなに真面目に体を交叉させた時でさえもね。
僕は役立っただろうか。僕はいつでも精一杯、関口と向き合ってきたつもりだった。
しかし、結果は――僕は関口にとって何でもない、薬でも毒でもないモノだったのだ。
飲み込んで排泄される水分だ。そう考えてしまうと、苦い涙が頬を伝った。
誰かが頭の隅で囁いている。関口との事は夢だったのだと。悪い夢だ。起きなければ。
しかし。僕は、上の空の関口も、戸惑った関口も、沈んだ関口も、好きだったのだ。
僕の事が好きではない関口を。僕は、ぐいと涙を拭った。
「タツさん。起きてるのでしょう? ――入るわよ」
襖が開いたなと思うと雪絵だった。随分疲れた顔をしている。ああ、そうか私の所為か。
こんな人間の屑の面倒を看ているのは物凄い疲労を伴うに違いない。
雪絵に返事をしなくても、彼女は慣れている。一人淡々と喋っている。
「聴こえていたと思うけれど、鳥口さんがいらっしゃったわよ。――これ、鳥口さんからの預かりもの」
そう云って雪絵は私の文机に見覚えのある袋をおいた。鳥口君? ――彼が来たのか。
急に噛まれた腕の存在を思い出す。――痛みが蘇えった。――何だか思い出してしまうと、酷く痛い。
どこか、なにか、硬いものを爪が剥がれるほど掻き毟りたい。
私の腕を咬んだ時の鳥口君の眼、舌、温度――忘れることが出来ない。
咬みながら私を見据え続けた温かみの有る瞳に、咬んでいる間中腕に触れていた湿ったヌルイ舌に、腕に掛かる熱い息――傷の存在感が増してくる。汗が――額にじわりと浮きだす。雪絵が巻いてくれた左腕の白い包帯を締め付けるように押さえつけた。
「お昼ご飯は食べれるかしら。それとも、もう少し眠る? でもあんまり眠ると目玉が腐ってしまうわよ」
雪絵は微笑んでいた。無理に微笑んでいる。口角が歪んでいる。
無理する必要がどこにあるんだ――怒鳴りつければ良いじゃないか汚い蟲めここから出て行くんだ糞っ垂れお前なんかと同じ部屋にいるのも吐き気がしてどうしようもない勝手に野垂れ死ぬが良い、と。
雪絵が幾ら汚い事を罵ろうとも誰も咎めはしない。だって凡て本当のことだからね。私の不貞に気が付いているのだろう? 薄汚く男と寝て自我を保ってるって、最近は女を抱く勇気もないって、子供嫌いの情けない男だって。私は畳みの上で体を芋虫の様に丸める。暗がりの視界なのに、ぐにゃぐにゃと極彩色で踊っている。
「ねえどうしたの――タツさん――調子が悪いのかしら――何処か痛いの? …――」
最後の方、雪絵がなんて云ったのか聞き取れなかった。
いや、雪絵の喋り方が悪いのではないんだ。
きっと私の役立たずな脳味噌が音を認識出来なくなっているんだ。
いや、脳細胞が鉄鎚で一個一個丁寧に叩き潰されているんだ。
私は愈々もって汚らしい容れ物と為り果てる。
雪絵の細い足、私から遠ざかる。
部屋を出て行こうとした、雪絵の足首。
傍にいて欲しくて掴んで制止した。
手の平が熱で溶けかけている。
――おいていくな。
見上げると、雪絵の顔は強張っていた。狂人を見る目付きだ。私は雪絵を恐がらせているのか。
雪絵は泣き出しそうにも見えた。
雪絵は私の手から足を抜くと廊下に逃れた。私からの緊急避難だ。
そして直ぐに玄関に向かう振動。――雪絵は出て行った。
雪絵が遠ざかる。その内、私が口をだらしなく開いて息を吸っているという耐え難い事実だけが残った。
ああ――とうとう、捨てられたな。――捨てられたんだ。
一秒後、喉から嗤い声が噴き出した。聞こえない耳で音を拾って出鱈目に嗤い続けた。
あはははは。
肚が攀じれる。勘弁してくれ。こんなにおかしい事はない。
いいさ、元から独りだったんだ。誰も私の領域に踏み込めやしなかった。
ひゃはははは。
猿じゃないよ、と否定し続けながら、私は猿である事実を見詰め続けていた。
否定していたのは自分の為ではない。独りになった私はもう、猿なのだ。
人間である必要性が何処に有る?
だって私を人間として扱う人間はいないもの。
それならば、人間だろうと猿だろうと虫けらだろうと芥だろうと塵だろうと同じこと。
人間としての矜持を持ち続ける能力に欠けている私は、そのようになるのだ。
せめて人間である事を意識しろ。
いつだったか、京極堂が云った言葉だ。しかし――人間って何だ? ――君みたいなヤツの事だ――そうか、中禅寺みたいなヤツのことか。――僕が最低、人間であれば君が傍にいてくれるというなら、それでも良い。
――京極堂は、何て応えたのだったかな。
もう覚えちゃいない。
そしてもう、私には土台無理だと実感している。気を抜くと(普段は愚かしく惚けているようだろうが、それは私にとっての精一杯の人間らしさの現われだ。一番人間らしさを意識して気を張っている瞬間だ。日常の薄膜を纏うことに躍起になっているのだ)、混乱を来たして瓦解しそうになる。
それに――中禅寺は、京極堂は、私の傍に居ないではないか。私が自ら、離れた。何の為に? そんな事はどうでも良い、忘れてしまった。しかし、事実に似たものは存在している。今の私の有様が全てだ――。
げへげへと無様に咳き込んだ。
涎が口から顎に伝って垂れた。
ああ畜生、畳を汚してしまった。
――だけど、そうなんだ、昔から、そうだ、昔からそうだった。
母親が私に母乳を飲ませてくれた時代、つまらない教師の言う事を真剣に聞かなければ生きてゆけないと思っていた時代、自分のあり方を模索する事に心血を注いでいた時代、世間に上手く溶け込めていると勘違いしていた時代――全編を通して私は私しかいない世界に住んでいたのだ。
当たり前のことだ。誰も私の世界の住人にはなり得ない。
しかしそれは厭なのだ、無様にも本心は誰かが欲しくて堪らないのだ、このままだと凍えてしまうんだ。
それを意識するとまともを保てない。まともでいるとは、どんなに難しいことなのだろう。
長年まともの皮を被って怯えながら私は生きている。剥がされそうになったら必死に守って縋り付いた。
私の傍にいる誰かの手を借りて都合良く目隠しをしながら歩いてきた。
しかもその手は体から切り取って奪い取ったものだ。
自分の手で目隠しをしないのがコツだ。
自分の手で目隠しすると独りなのだと悟ってしまうもの。
誰かの手が目隠しをしてくれているという安心感に酔うのだ。
そんなもので、安堵しながらそれでも時折隙間から見える世界に怯えていた。
真実を知るくらいなら、暗闇の中にずっと居た方がまだマシだ。
――薄々感づいている。しかし、どうしても真実を突き付けられる訳にはいかない。
再度堂々巡り。
過敏過ぎる目玉。
刳り抜かんばかりの再認識。
・・・本当は全て知っている上での悪足掻き。 |