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 両側に白茶けた土塀が続く、長い坂を僕は見上げた。この坂の道幅は狭過ぎて車では登れない。
 ――通称、眩暈坂。
 この坂を上って右手に入り、金物屋を過ぎて貧相な竹藪を過ぎた所に、古書店京極堂はある。京極堂は関口宅から歩いて20分、車では5分と掛からない目と鼻の先にある。

 僕は関口の所に寄ったその足で、だんご屋に寄り、土産を買ってこの眩暈坂の下まで来ていた。この坂の下に立ったのは、いつ振りだろうか。
 関口と付き合い始めてから京極堂に行く事を止めてしまったのだ。僕は自分自身で、中禅寺と関口の親しさに嫉妬し敵意を持ったからだと分析していたのだが、それは間違いだった。
 僕は只単に――関口と関係していて、中禅寺に会うのが恐ろしかったのだ。それは多分、関口も同じだったのではないか。

 坂の中腹まで、一息に上る。
 足元だけを見て上れば眩暈を起こさないのだという。しかし、そんな理屈は疾うに判っている筈の関口は、この坂で何度も眩暈を起こしていた。その度に中禅寺に揶揄われて、ぐうの音も出なくなった関口が、今となっては酷く懐かしく思える。

 足元を見詰めながら気合を入れて、最後の半分を上ってしまう。
 中禅寺と顔を合わせる事は、恐いといえば恐いのだが、僕は妙に落ち着いていた。
 関口だけの世界が非現実だとすると、中禅寺と顔を合わせることの出来る世界が、日常とすることが出来るかもしれない、なんて他人事のように思えるほどだ。
 額に浮いた汗を拭いて僕は右手の脇道に入った。秋の日差しが強い。なんだか秋という気分ではないな。帽子をもってくるんだった。金物屋を過ぎた。よく考えれば、ここは中野というより隣町に地図上はなるのだろう。この脇道は隣町の商店街と続いていて賑やかな人通りが道の奥で見える。
 竹藪を過ぎると「京極堂」と書かれた看板の掛かった店――此処が中禅寺秋彦の自宅を改築して作られた古本屋「京極堂」である。
 店の戸には「骨休め」が掛かっていなかった。ということは帳場に主の中禅寺秋彦が居るということだ。僕は一気に緊張した。しかし、団子の袋を持っていない手で握り拳を作りぐっと力を入れると、多少肚が据わったような気がした。そして引き戸に手を掛けるが、そこで固まってしまった。

 ――目が合った瞬間、どなられたりして。

 僕はそこで急に自分の思考の単純さに可笑しくなった。
 怒鳴られる? 何て甘い事を考えているんだ。大体中禅寺が何を僕の為に怒鳴ってくれるというのだ。怒鳴られるのならまだましなのだ。最低は無視だろう。そうなってくると心底、侮蔑されているのと同義だ。しかも僕は中禅寺に無視される自信がある。中禅寺は僕と関口の関係を見抜いているかもしれないのだから。
 あの人の情報網や勘ははっきり言って常人の域を軽く超える。だが、僕には、関口と中禅寺が実際どういう関係だったのか、もしくは関係なのか、見えているものでしか判断できないのである。だから、僕は中禅寺から本当の事を、聴き出しに来たのだ。
 僕が勝手にそういう関係だったのではないかと勘繰っているだけだ。証拠なんて、どこにもありはしない。だが、何かしら、必ず、ぼくの知りえない二人がいる。僕から見えない二人が居るのだ。それが一体どういう形だったのか、明らかにするまでは、出来る限り食い下がるつもりだ。そうしないと、一生僕の道は開けやしない、そんな気がする――

 と、急に勢い良く戸が開いて、戸に手を掛けたまま体重を任せて物思いに耽っていた僕は、前に倒れそうになり、大きく右足を踏み込んで、前のめりになる形で何とか転倒を免れた。

「――戸の前に立ち塞がられては商売上がったりなんだ。僕の店に用があるのならさっさと這入り給え。鳥口君」

 戸を開いたのは中禅寺秋彦、その人だった。今日も和装で、相も変わらず町内会の人間が凡て死に絶えたかのような仏頂面だ。

「――し、師匠」

 いきなり、師匠と呼んでしまっていた。無意識だった。自分の愚かさに内心舌打ちした。

「師匠と呼ぶのは止めろと何度も云っているのだがね。僕は君みたいなお調子者を弟子に取った覚えは無いと何度云えば判るのだ。師匠と仰ぐなら、榎木津が適任じゃないか? 最近は益田君にも留まらず、志願奴隷が増幅しているらしいからな。鳥口君もその一団に入れてもらうと良いだろう」

 僕は極々自然に中に導かれてしまった。店の中は本屋だから当たり前なのだが、書籍だらけである。書架に納められたもの積まれているもの帳場に置かれ主人が版形を分類しているもの――京極堂には一般の古本屋が倦厭して扱わないような種類の書物が様々あり、本が並んで騒然とした店内は圧巻である。しかしながら、いつもの如く客の姿は見えない。

「はぁ――手厳しいッスねぇ、相変わらず」

「老婆心だと思ってくれれば良いさ。しかし、そこは、君お得意の『うへぇ』と云うべきではないか? 会わない内に口癖も変わったのかね。そうだ――関口君は元気にやっているかい」

「は、」

 僕は一瞬何を云われたのか理解できなかったが直ぐに呑み込んで、肌が粟立った。帳場の主の席に腰を下ろした中禅寺を見れない。僕は明らかに狼狽している。

「――どうして僕に関口さんの事を聞くんですか。中禅寺さんの方が関口先生と親しいでしょう」

「どうかねぇ――大体、僕は関口君と友人ではないからな。仕事上で顔を合わせる機会のある君の方が、良く、知っているんだろう?」

 僕は言葉を返せなかった。以前は誰よりも関口の事を理解しているというような顔をして、今はそんな事を云うのか。判っている――中禅寺は、僕を挑発しているのだ。中禅寺はわざとらしく、大きめに声を上げた。

「おや、手に持っているのは何だね?」

「――これ、お土産です。雅屋の草団子です。皆さんで食べて下さい」

「じゃあそれを有り難く受け取って茶請けにでもするとしよう。今日は生憎と妻が不在で、出涸らしの茶しかないのだが、上がって行くと良い。積もる話もあるだろう――お互いにね」

 中禅寺は僕に何かを手渡して表に掛けて来てくれと云った。
 見ると、「骨休め」と書かれた例の木札だった。
 ――中禅寺は何もかも見抜いていると云った表情で――柔和な口振りとは違い、眼光は鋭く僕を射抜いて、帳場の背後にある母屋に繋がる襖の奥に消えた。


 益田龍一が関口巽を見掛けたのは、本当に偶然だった。といっても、浮気調査の合間を縫って、中禅寺秋彦が商っている京極堂に足を運ぶ道行きだった――つまりは中野の関口宅が至極近い位置だったので、関口巽に出会っても何ら不思議は無いのだが。
 ――見かけた途端、声を掛けない訳にはいかないと思った。益田から見る関口は所謂、普通の状態というのからは遥かに遠く思えたからだ。
 何しろ、具合が悪いのか道端に屈み込んでいる。視野狭窄を起こしているのか近くに寄っても、益田だと気がつく様子もない。汗も沢山掻いているようだった。大量に汗を掻くような陽気でもないのだが。それに酷く荒い息使いである。
 ここで関口を介抱しなかった場合のもしもの事を考えると、恐ろしい事態になり兼ねないような気がするのは、今までの出来事を考えると当然か。

 例えば、事件体質の関口が案の定事件に巻き込まれるとか、野垂れ死ぬとか、誰かに関口を見捨てた事により人でなしだと糾弾される――それはないか。せいぜい榎木津のおじさんに首を絞められる――だけ――ってそれが一番厭なのである。やっぱり助けよう。

 コンマ0・2秒でそこまで思考した益田は、こちらに背を向けて屈み込んでいる関口の脇に立って、関口の肩に手を置いた。

「関口さん? あの、関口さん? ちょっと――大丈夫ですか。益田ですけど」

 手を置いてみて判った。関口の身体は小刻みに痙攣しているようだった。――こりゃあいけない。どこかで休ませるべきだ。

「聴こえてますか。一体なんでこんな状態になってるんだ…関口さん、どこかで休みましょう。ここじゃいけない。声が出ませんか――。関口さんの家に行きましょう。僕の肩を貸しますから」

 関口が喋れなくなるのはいつもの事である。
 布団にでも寝かせた方が良いと判断した益田は、関口の腕を取ると自分の肩に回させる形で、寄り掛からせようとしたが、関口が素直に腕を取らせてくれない。まさか、僕の事まで忘れてしまったかと一瞬心配した所に関口が口を開いた。

「――い、や――だ――ひ、とり―…―いたく――な――…」

「――はい?」

 一人だから家に帰るのは厭だと云いたいのか? そんなに寂しがりの人だっただろうか。大体にして一人とはどういう意味だ。奥さんが出掛けているのだろうか。
 益田が疑念に囚われている内に益田の腕を払った関口は、身体をぐらつかせて、そのまま崩れ落ちる様に片膝を付いた。

「関口さんッ! 全く、そんな状態で何処に行きたいってんですかっ。本当に世話の焼ける人だ――」

 力を籠めて関口の腕を掴むと今度こそ、自分の肩に腕をしっかり回させて関口を立たせた。
 家が厭だって云うなら近く公園にでも寝かすか――いや、じきに陽も落ちるし、それに関口の状態が直ぐに回復するとも思えない。ずっと関口について居られる程暇でもないし、公園に関口一人を置き去りにする程、人で無しでもない。さてどうするか――。そこで益田は京極堂の事を思い出した。
 そうだ彼処なら関口と旧知の間柄の中禅寺秋彦がいる。関口も安心出来るだろうし、元々は中禅寺の助言を仰ぎたくて彼の元に向かっていたのだから、こちらの仕事も片が付く――関口がむずがる様に小さく呻いている。しかし。益田は厄介なものを思い出した。京極堂に行くには避けて通れないもの――坂である。

 あの長い坂をこの関口を担いで上がるのは一苦労である。

 関口は小柄で男にしては軽い方なのだけれど、やたら長いし、関口はあの坂で良く眩暈を起こすし、上っている最中に関口の状態が悪くなろうものなら、益田の手には負えなくなってしまう。はっきり云うなら面倒なのだ。
 ――もう良い。関口を連れて事務所に帰ろう。
 少し此処から遠いが事務所なら世話好きな和寅がいる。仕事の整理をしながら関口の様子も見れる。旧制高等学校時代に後輩だったという関口にとっては、腐れ縁の榎木津礼次郎も当然、居るから――榎木津は煩いだけの存在で邪魔になりこそすれ、役には立たないが――居ないよりはマシだろう、多分。…そう思いたい。
 少し寝かせたら奥さんに連絡を取ればいいのだ。良し、神田に帰るぞ。
 益田は今度こそ、そう心に決めると関口に声を掛けて歩き出した。

「神田に向かいますよ。薔薇十字探偵社に。駅前まで歩いてそこからタクシーを拾います。関口さん、駅前まで頑張って歩いて下さいね」

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