外に出るのは久し振りだ――と私は呟いた。鳥口は隣で苦笑したようだ。
 本当に外出したのは久しい。この前外に出たのがいつだったか覚えていない位――。
 鳥口と連れ立って出掛けたことは何度か有っても、私から誘ったのは初めてのような気がした。明確には覚えていない。

 夏は疾うに通り過ぎていた。
 もう、広葉樹が葉を染め始めていた。
 私は大抵、春と秋に不安定に為りがちだが、今日は平穏そのものだった。耳鳴りも眩暈も幻覚も何も無い。

「本屋に行きたかったんだ。――君がいるのなら、持ち切れない程の本を買うチャンスだったけれど、先立つものが無い」

 私はそこで小さく苦笑いを漏らした。本屋――私がその言葉を云うのも久し振りだった。
 本、といえば彼を連想するから。
 彼は日がな一日中片時も書物を手放さず座敷にいて読書しているのだ。
 少し――とは建前で、私はかなり彼が懐かしく思えた。声が聞いてみたい。元気にやっているだろうが、姿を見たい。半年以上、会っていないのだから。鳥口に悪い気がしたが、何故私が鳥口にそういった気持ちを懐くのか、判らなかった。連れ立って神田で下車した。

 神田の古本屋街――そこでの鳥口はほんの少しだけ憂鬱そうに見えた。
 鳥口にしては控え目な笑みで、居並ぶ本どもを眺めていた。私は常態ではない鳥口に気をとられながらも、久々に嗅ぐ、本が発する独特の黴臭さに酔い痴れた。
 馬鹿みたいな内容の本を手にとって浮かれた事を口走ったりした。鳥口は浮き上がった私を見て多少困惑した風に微笑み、相槌を打ち、腹に何か一物でも秘めているかのように沈黙していた。

 可成遅い昼飯は古本屋街の直ぐ近くにあった蕎麦屋に入って摂った。
 私が狸蕎麦で鳥口が狐饂飩だった。
 鳥口は何でもガツガツ喰う。不思議なことに鳥口の食事している場面に遭遇すると「ガツガツ」と本気で音が聞こえる気がするから可笑しい。前は素麺もガツガツ食べていた。饂飩はどうだ、と思って鳥口が饂飩を食べるのを窺っていると、期待を裏切らずガツガツ食べていて、私は矢張りそうか、と目を丸くした。可笑しいやら呆れるやらで、私は、君は饂飩もガツガツ喰うのかいと感嘆の声を漏らした。鳥口はキョトンとした顔をして「そうですかぁ?」と云っただけだった。
 自分の食事姿がどれ程常識外れなのか判っていないのだろう。私は何だか――今よりは未だ平穏だった学生時代に戻った様な気分になった。昔は良く、些細な事で友人と笑い合ったものだ。
 
 鳥口は私の買った本を持って歩いている。私が持ってくれと頼んだ訳ではないのだけれど、何を思ったのか鳥口は真剣な顔をしながら私の腕に抱かれた三冊入った紙袋を黙って奪い、のらりくらりと私の視線を躱して歩き出した。
 
 夕刻――だった。西日が鳥口の顔を照らしている。私達は神田駅の差し向かいにある、往来を歩いていた。

 今日の鳥口は一向寡黙だった。得意の駄洒落を一回も聞いていない。鳥口の態度に違和を感じながらも、私の頭は一方で妻を想っていた。もう、彼女が帰宅する頃だ。雪絵の笑顔が少し恋しい。鳥口が私の住居に泊まるのは雪絵が帰って来る迄、と約束している。
 こんな都合の良い話はない、と私は自分の事ながら、身勝手さが可笑しかった。独り寝が厭で鳥口の願いを呑んだようなものと、客観的に見てそう取れなくも無い。正解なような、正解じゃないような――。
 私は独り寝が寂しいと思えるほど雪絵と常に性交してはいない。だが、何だか独りで薄暗い平屋に居るのが厭だと感じたのも一応の事実だった。そういう気分だったのだ。

 此処で別れようか、どうしようか――。神田駅南口が見えている。
 ぼうと、思案していると鳥口は私を呼んだ。
 ちらりと、隣に居る鳥口を見上げた。

「僕の社宅に――来ませんか」

「――え」

 鳥口の声は全く何気なくは無かった。
 緊迫している声色。
 私の足は知らず、歩みを止めていた。鳥口もそれに合わせて立ち止まった。

「社宅――」

「僕は社宅住まいなんですよ。知りませんでしたか? 僕は喋った覚えがあるけれどなあ、先生忘れっぽいから――記憶にありませんか?」

「――これから」

 鳥口は一体どういう心算なのだろう、彼は今迄、そういった類の誘いを――雪絵の存在を無視するような誘いをした事など無かったのだ。
 それとも、鳥口は今日雪絵が帰って来るのを忘れて仕舞ったのだろうか。否、鳥口が忘れたというのは考え辛い。きっと彼は覚えてるに決まっている。これは、鳥口が本気になっている――と思った方が良い。本気で私にこの関係は何なのか、突き付ける気なのだ。

 私は、何も云わなくても暗黙の了解の様に、私に雪絵を優先させ、配慮してくれる鳥口の心遣いが心地良かったのだ。こんな不条理な人間関係を抱えていても、人間らしく尊重すべき人間を当たり前の様に尊重出来るよう、配慮していた鳥口に安堵していた――云い換えれば甘えていた。それが当たり前だと思っていたのだ。
 鳥口が何故そんな配慮をしていたのか。そうしないと、きっと、私が離れてゆく――そんな危惧を懐いていたのかもしれない。鳥口がそう思っていたとしたら、素晴らしい洞察眼と云わざるを得ない。
 付き合い始めて最初の段階で、鳥口がそんな風に気を回さなかったなら、私達はとっくに作家と編集者の関係に戻っていただろう。鳥口に今程、気を許しもしなかった。

「これからです。其れとも、三時間後に僕の社宅に来てくれます?」

「いや――」

「否定ですか。その場繋ぎですか」

 そのばつなぎ――それ正解。否定したくても出来やしない。
 私は鳥口に心を完全に読まれているようで居た堪れなくなり、赤茶けた土タイルへ視線を落とした。赤黒く光るハイヒールが、往来で向かい合って立ち止まる私達の傍を通り抜けた。血液が筋を作ったみたいに赤い軌跡が流れ、高圧的な靴音が遠ざかる。
 嘸や、私達は彼女の目に奇異に映るだろう。私は何とかこの場を切り抜けたくて声を絞り出した。

「――えが」

 声がまともに出ない。酷く掠れて滑稽だ。

「聴こえません」

 鳥口が醒めた口調で私の言を問い詰めた。こんなに冷たい鳥口の声色は初めて聞く。私は俄かに強張って手の平にじっとりと汗が滲むのを感じた。雪絵の朗らかな顔を思い浮かべた。

「――ゆき――えが帰って来る」

「そうですか。良い事ですね、それは。奥さんが居なきゃ先生は飢え死にして仕舞う。で――それが、僕の処に来るのを断る理由ですか。僕に云わせれば、それがどうしたの、ですねぇ」

 多少、予期していた返答が帰って来て私は動揺した。対して雪絵の名を出しても、ぴくりともしなかった鳥口もまた予期していたのだろう。
 私は予期した事実に怯え、鳥口は腹を据えた――そこの違いは大きい。
 目頭が熱くなってきた。自ら招いた苦境から逃げ出したかったが一体、どうすれば良いのか――。
 鳥口の視線を痛い程に感じ、私はそのいつもとは違うだろう、私を射んとする視線が恐ろしくて鳥口の表情が見られない。鳥口の男らしい肩を見詰めるより他に視線の置き場が無い。私は自分の臆病さ加減を今更ながら思い知った。

 うなじから一筋の汗が背中に伝った。

 私は雪絵を愛している。それは間違いの無い事実だ。
 だが私には――雪絵では埋める事の出来ない虚が――ある。雪絵と出会う前から自覚していた。
 それを鳥口に埋めて貰おうとしていたのだ。
 昔は見詰めると寂しさと不条理で気が狂いそうになる虚を、私の友人が埋めてくれていた。それは恋とか――愛とか、判り易い言葉で表せる関係ではない。しかし只の友人とも違う。
 彼を友人と云い切るには、余りに濃い関係だった。生きてゆく為に、依存し依存される相互関係としか云い表すことは出来ない。私は、そんな不健全な――逼迫した関係に厭気が差し、自ら断ち切ろうとしたのだけれど。結局出来なくて――しかし、もう一度、空気を求める様に彼に会いに行くには、虫が良過ぎる気がして――私に近付いた鳥口に同じ事を求めたのだ、最初の頃は意識せず、今となっては悪意すら懐いて。
 鳥口は気が付いていないだろう。私の悪意に。
 しかし、うっすらと――見えて来てはいるのかもしれない。
 鳥口が完全にそれに気が付いた場合、私はどうすれば良いのか、どうするべきなのか、見当も付かないが――反面、鳥口は一生気が付かないだろう予感もした。
 彼が私に求めているものは、所詮恋愛感情なのだから――。そして私には、彼にその感情を与えてあげられる当ては無いのだ。

「だって――京極堂さん、中禅寺秋彦さんが、家に来いって云ったら先生は行くでしょう? 雪絵さんには電話の一本で済ませて仕舞うでしょう? 僕だってそれで良いじゃないですか。それとも中禅寺さんが来いって云ったら行くけれど、僕が云って、来られない理由でも或るんですかね」

 僕らは一応付き合っているんでしょう――。鳥口にしては小さい押し殺した声だった。

「――判った。先生は中禅寺さんと付き合っていたんだ、それが正解ですか」

 違う、それは違う。私は呟いていた。中禅寺とは断じてそんな関係ではなかった。
 何度――いっその事そう為って仕舞った方が、気が楽だろうと思ったか知れない。しかし現実はそうならなかったのだ。それが事実だ。鳥口は口振りから、雪絵には敵わないと最初から諦めて、中禅寺には嫉妬している――明け透けな気持ちが見えた。私はもう、云い返す言葉を持たない。

「それで、自分は妻帯者で中禅寺さんもそうだから、辛くなってきた所に馬鹿そうな編集者がふらふらと云い寄って来て、渡りに船とばかりに乗り換えたんでしょう。まあ――僕は結婚してませんから」

 茶化す口振りで大仰に鳥口は云い放った。――所詮、鳥口に私の気持ちなど判りはしない。
 私を詰った鳥口を呪いたい気持ちになった。
 ――顔が熱い。
 下を向き、両手で頬に触れると、瞳の辺りが濡れてきていた。
 涙か――私は泣いているのだった。これでは、暫く顔を上げれない。
 涙は次から次へと溢れて私の指先へと伝った。泣き声を精一杯押し殺した。
 鳥口の私を痛めつける言葉は未だ続いている。鳥口は私を抉り続ける。

「乗り換えてみたは良いけれど、思いの外、僕は嫉妬深い男だし何より、中禅寺さんを忘れなれないとか――ああ、それとも、先生の片思いですか」

 だからあの店へ足繁く通っていたんでしょう――。
 鳥口が――私にトドメを刺した。事実ではないのに否定出来ないのは何故なのか――。
 こうやって本心、私が中禅寺に恋愛感情を懐いていたかの様に、言葉を叩き付けられると本当は鳥口が正しいのではないかと思えてくる。どうしようもなく劣情に爛れた男。それが私なのか――。
 
 いや、そうじゃないよ。だけどそれも真実なのか、知れないよ。思い込めば、何だって本当になるし。

 嗚咽を不本意ながらしゃくりあげると私の体は大きく震えた。鳥口に泣いているのを悟られたくない。
 悔しい――そう、悔しかった。体を通りすがりの男に犯された、丸々過去を否定され嬲られた気分。
 痴女に性感帯をニヤリと突付かれた気持ち。涙は止め処ない。
 私を苛む声は不自然に止んでいた。私は息を整えるのに必死だった。ああ――流石に気が付いたか。
 三十男が往来で泣かされるなんて――良い笑い話だ。自分でもオゾマシサに嗤って仕舞う。
 そう思いながら、溢れる涙をどうにかしようと拭っていたら――突然、私の上腕は大きな手の平に掴まれた。
 鳥口の手の平である。足掻らう事も出来ず、私は狭くて闇の巣食う路地裏に押し込まれた。

 私は路地の壁となる建物の壁面に体重を任せる。
 鳥口が力強く私を抱き締めた。
 私は泣き顔を見られたくなくて、出来る限りに顔を背ける。
 本当は、今は他人の体温が厭わしい。
 私は誰も容認することが出来ない。
 体が鳥口の腕の中で強張った。
 私に触れてこなかった中禅寺を想う。
 鳥口の声が私の体に響いてくる。

「せんせい――何か、云って下さいよ。――僕が、悪かったですから」
(やめてくれ――何を指して悪いと、君は云うのか。悪いのは凡て私。君は何も悪くない)
 果てしの無い自己嫌悪。誰にも理解されはしないのを前提に、自分の首を真綿で絞める。

「御免なさい――もう二度と、あんな事は云いません」
(あんなことってどんなこと? 君が中禅寺との関係を詰ったこと?)
 重要な事実を否定された。そこで出現した穴を誰がどのようにして埋めてくれるのか。埋める者など居ない。否定した者が可能性を提示してくれる訳ではない。

「僕は先生の言葉を待っていたんです――否定してくれると、勝手ながら期待していました」
(私も君が凡てを容認してくれると期待していたよ)
 お互いに理想を押し付けあう。自己の世界に他者は存在しない。だからこそ狂おしく他人を求める。只の無いものねだりなのか?

「雪絵さんと先生に――中禅寺さんと先生に――嫉妬していたようです」
(ならば私も嫉妬しよう。君の健全な世界観に)
 私とは違う世界を生きている君。同じ世界は無い。同じものを見る事は出来ない。それが当たり前のように身に滲みているのに、違う世界を生きてる他人が羨ましくなる。馬鹿らしさに溜息が出る。

「今日は僕があんなことを云い出さなければ、最高でしたね。楽しかったです」
(私は猫になりたい。あの幸せな生き物に)
 猫のように体を丸めて惰眠を貪る。そうすればいつか猫になれると信じてる。きっと誰も撫ではしないだろうけれど。

「もう――帰してあげますよ。――雪絵さんが――気掛かりなんでしょうから」
(雪絵? 雪絵は私の飼い主です。彼女は私に居場所をくれます)
 なんなら窒息するぐらい、骨が折れるぐらい抱き締めて。私を飼って。そうしてくれたら私は君の為に鳴くよ。一声にゃおうと。

 鳥口に抱き締められている間、妄想の渦。吐き気がした。
 鳥口は私と一つに為りたいのか更に両腕に力を籠めた。苦しいね、気が狂いそう。

「今度又――僕と出掛けたくなったら呼んでやって下さい――鳥口なだけに飛んで来ますから」

 鳥口は私を抱き締めた侭、息を吐いた。
 もう駄目だよ。
 もう私は私という輪郭を保てない。
 こうやって抱き締められている傍から、曖昧になった体線から、理不尽で不可解なものが溢れて周囲のもの凡てを呑み込んでしまう勢いだ。何もかもがドロドロに溶けて。
 でも実際はそうならない。そうなれたら幸せなのに、そうなれないから苦しい。其処が私の限界だ。
 現実の私は鳥口の体温に埋もれてじっとしている小さな男である。
 厭わしいものに埋もれて気持ち良さそうにしている被虐体質者である。

「――先生」

 それではまた、と呟きながら、鳥口は腕の力を緩めた。
 鳥口の声が哀しそうに聞こえた。
 鳥口君さようなら。もう君とは最後だよ。
 私はきっと君と居ると正気じゃいられない。世界の違いを見せ付けられて圧倒的な差に押し潰されそうになるの。
 君もこんな男に掛か煩っていられる程暇な人生を送っていない筈。
 君は元の正道に戻り、私は雪絵の元で丸くなって眠るんだ。だから、もう終わりだ。
 多分二度と君には会わない。君の事は嫌いじゃなかったんだ。
 それは本当のことだ。涙が頬を伝った。
 鳥口が私を放した。

 私は――ひゅう、と息を吸い込んでいた。
 私の呼気が風を呼び込んだかのように、私の体と鳥口の体の隙間を、薄汚い路地に吹いた突風が通り抜けた。

 髪を軽く吹き乱された。
 盗み見た鳥口は腹を空かせた子供のような、泣きそうな顔をしている。
 今は純粋に年下の男が可愛く思えた。
 そんな表情をする男を見るのは、もうこの先ないのかな、多分無いだろう。
 鳥口は私を見詰めて立ち尽くしている。私に負けず劣らず放心している風だった。
 体から鳥口君の体に私の汚いものが流れてしまったのかしら。それでは、申し訳ないけれど、少し嬉しい。
 本当にごめんなさい鳥口君。
 
 立ち去ろう――もうこれ以上一秒とて鳥口の近くには居られない。
 鳥口との関係を勝手に清算した身勝手さと申し訳なさと開き直り、それに――鳥口が抉った過去の傷が疼いて正気じゃない。私は夕闇の空を建物と建物の隙間から仰ぎ見た。私の色だった。

 その瞬間――手を背後から掴まれた。

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