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僕と関口が雑談に花を咲かせていると、ノックもせずに扉が開かれた。寮ではノックをする律義者の方が少ない。寮では勝手に入ってきて、不味い場面を見られたとしても、鍵を掛けていない奴が悪い、という事になる。ノックもせずに入ってきたのは木場だった。
「礼二郎! と、関口も居るのか。お前、変な噂が流れてるぞ」
「おや木場修。変な噂って、どうせ益田が流しているんだろ。あいつ歩くスピーカーだからな」
木場は椅子に座った。これは結構長居するということか。
「いや、あいつは何か変だったぞ。飯時でも葬式のように押し黙ってよ、何も喋んねぇんだよ。何かあったのかもなぁ」
顔も青ざめてたなぁ、と木場は付け加えた。
「益田さんが? 風邪でも引いたのかもしれませんね。大丈夫かな」
関口が心配そうに云った。関口に心配されるなんて、ちょっと益田がムカつく。
「で、どんな噂だ? 誰から聞いた?」
「おう、女どもがピーチクパーチク噂してたよ。まあ、ガセだとは思うが、一応こうして来た訳だが。噂では、今日、お前が学生食堂で男を抱き締めたり、キスしたりといったラブシーンを繰り広げただとかいう…」
木場の言葉の途中で関口が急に立ち上がった。そうか、関口は噂になっている事を知らなかったのだ。まあ、名指しで噂になっているのは僕だけみたいだから、それも当然なのかもしれない。
「おい、関口? どうした?」
「いや、ちょっと驚いただけだよ。関君、大丈夫だよ。座ってなよ。逃げるのは許さない」
「でも…」
「いいから」
関口は僕がそう云うと、座っていた場所に座り直した。また顔を赤くして、不安そうに目に涙を溜めている。木場は疑問顔だ。
「何が何だか分からんが、話を続けるぞ。で、俺も女どもから聞いた時はガセだろうと思ったんだが、どうもな。随分広まっている。色んな奴から同じ内容の噂話を聞かされた」
「当たり前だ。本当だもん。沢山ギャラリーが居たのは知っていたが大概、皆も暇なんだな」
「――本当ってどういうこった」
木場は驚いた顔をしながらも、取り乱しはしなかった。益田とは違う。格の違いの所為かもしれないな。
「僕も益田から噂話は聞いた。大体あっている。僕が学食でしていたって言う内容も合っている」
「――どういうことだ?」
「どうもこうも。好きな人にキスをして何が悪い? 男女がいちゃついても大して気にも留めないのに、同性同士だと矢鱈と騒ぐ。それが何故なのか、僕には良く分からないから応えようも無いがね」
木場は頭が良いので、直ぐに飲み込んだらしい。
「そうか、礼二郎の好きな野郎っていうのは誰だ?」
「それを今答えなきゃいけない義務はあるの? 木場修にはちゃんと紹介するつもりだけど、もうちょっと落ち着いてからの方が良いと思っているんだが」
「付き合っているのか?」
「付き合っている。付き合いだした。数時間前から」
「は? どういうことだ」
「皆が見たのは、僕が告白した場面だったのさ」
「ははぁ〜…。なるほどな。そういうことか…。じゃあ、今日両想いになったということか。めでてぇな」
本気で言っているのか、冗談なのか、木場の言葉は判別し辛い。しかし、僕は単純に祝いの言葉だと受け取った。
「うん。そうなんだ。非常にめでたい。今日は嬉しい事が沢山あった」
関口をチラリと見る。顔を赤くしながらも、僕の言葉をじっと聞いている風だった。
「その、めでてぇ気分に水を注すようで悪いがな。俺がさっき相手を聞きだそうとしたのには理由がある。不味い動きがある。礼二郎の相手の男を探し出して、どうこうしようっていう気分の悪いフザケタ馬鹿女どもが、固まって動こうとしているみたいだ。気をつけたほうが良い。カリスマ性が強いってのも問題だな」
「そういえば、益田の馬鹿もそんなような事を言っていたな」
「お前ね、少しは益田を信用しても良いんじゃねぇの? あいつもあれで結構使える奴だぜ」
「僕が信用しているのはあいつの音楽の腕だけだ。他はお調子者過ぎる」
「礼二郎に言われたんじゃぁ、益田もうかばれないな。しかし、お前の相手が俺の知っている奴だったら、ある程度は気を配れると思ったんだがな。無理矢理名前を聞きだす訳にもいかんか」
「大丈夫だ。そんな馬鹿女には絶対手出しはさせないし、絶対負けない。僕も、僕の恋人もだ。だから木場修の気配りは杞憂で終わるんだ」
関口の顔を見詰める。一瞬、関口の黒い瞳と視線がかち合った。そりゃあ逞しいこった、と木場も関口の顔をじっと見詰めながら云った。
「なあ――関口? こいつは怖いもの無しだからな。ケンカも強いし。しかし心配なのは――間違っても女は殴るなよ」
木場は椅子から立ち上がっていった。
「分かってるよ。女を殴るなんて、何でそんな後味の悪い事をしなきゃならないんだ」
「よぉし。じゃあ、俺は忠告したからな。これからどう動くのかはお前達次第だ。まあ出来る限り気をつけろ。俺は退散するとするぜ。もうそろそろ、あいつらが風呂から上がってきて騒ぎ出す頃だからな。――邪魔したな。それじゃあ、ごゆっくり」
木場はそう云いながら、関口の肩をポンと叩いて、部屋を出て行った。
「どういう意味…なんだ?」
関口は呟いた。
「どうもこうも。木場修は関君が僕の恋人だって途中から気付いたんだろう。関君が可愛い反応をするから。木場にもばれちゃった」
関口はびっくりしてそれから項垂れて、でも何だか嬉しそうな表情を浮かべながら、足の甲をさすった。その動作は、とても可愛い。
「むう。関君。君、僕の肩を揉みなさい」
「え、今日もですか? 殆ど毎日ですよ? 榎木津先輩全然凝ってないのに…」
「いいのだ! 関に揉んでもらいたいのっ! だから黙って云う事を訊きなさい」
「…たまには、僕の肩も揉んで下さいよ」
「――いいけど。酷い事になるよ」
「揉み返しですか?」
「いや、エロい事になると思うけど、それで良いのなら存分に揉んであげる…」
僕はベッドから降りて関口ににじり寄った。関口は慌てて後退する。
「そ、そんな事より、これからどうするのか考えた方が良いですよ…!」
「考える必要は無い。邪魔するものは全て粉砕あるのみ。変な女よりも関君のほうが可愛いんだから、それを皆に見せ付ければ、僕等は公認だっ!」
「公認って、そんな必要がどこに…榎木津先輩…!」
僕は関口の首筋をぺろりと舐めた。小さく声を上げて、関口が首を竦める。
「榎さん。今度から、先輩ってつける度に首筋舐めるからな」
「そんなの滅茶苦茶だっ…!」
僕は聞き分けの無い関口の首筋をもう一度舐めようと、関口に覆い被さる。関口は首を竦めたり、首の肌が露出している部分を手の平で隠そうと抵抗しているのを、ふざけながら抑え付けていると、また、勢いよくドアが開いた。靴が見える。視線を上方に向けて顔をみると、中禅寺の顔だった。僕は関口を抑え付けたまま中禅寺に挨拶する。
「やぁ、中禅寺。何か用? 今、僕はとても忙しいんだ」
「――榎木津先輩。取り敢えず、その下になっている奴を解放して下さい。関口君、浴室の鍵がかかるぞ。早く行った方が良い。後、君の母君から寮の方に電話が入っていたらしい。連絡が欲しいとの事だそうだ」
「ちゅう、ぜんじ」
「――君、凄い体勢だぜ。先輩に襲われているのか?」
「愛し合っているんだ」
僕が即座に答えた。襲われているだなんて人聞きの悪い。
「――噂は聞きましたよ。やはり相手は関口君でしたか」
「早耳だなあ。その通りだけど。関口の名前は出てたか?」
「噂話にですか? 大学の誰かだろうとはなっていましたけどね。関口の名前は無かった」
「それは良かった。報告の内容は理解したから、さっさと立ち去ってくれない? 僕等今、良いところなの」
「榎木津せ…榎、さん。俺、母に連絡を入れにいかないと…」
おずおずと関口君は申し出た。僕はまだまだ彼を存分に抱き締めて組み敷きたいと思っていたが、しつこいのは嫌われるかと、関口を捕らえている腕の力を緩めた。関口は一瞬意外そうな顔をしたが、僕が体を起こすと、できた隙間から体を逃れさせた。僕は床に座り込んだまま頬を少し膨らませた。
「…榎木津先輩…また来ますから…鍵、開けといてくださいね…」
関口は耳元でそう囁いてくれた。はっと顔を上げると関口は困ったような表情で微笑んで、僕の部屋から出て行った。その後に中禅寺が続いていく。鋭い眼光で僕を睨みつけながら「それでは、失礼します」と言って僕の部屋の扉を閉ざした。
「――幸せそうだな」
中禅寺は淡々とした口調で、先を歩いている関口に聴こえるように呟いた。関口はその声に振り返る。
「誰が」
「さあ、誰だろうね」
皮肉そうに口元をゆがめて中禅寺は哂った。
「僕の事を揶揄っているのか」
「分かるのか」
業と驚いた風に中禅寺は声を張り上げる。先を歩いていた関口は足を止めて、背後の中禅寺を見た。厭そうな表情で。
「分かるさ。でも君には関係ない。僕のことだからね」
「君のことには変わりないが関係ないとは言い切れない」
「何故」
「それを僕に訊くのかい」
「判らないことは訊くに限るのさ」
「…判ってるじゃないか。しかし、君は変わったな。榎木津の前では以前のままの君だが、僕に対しては冷たい。寂しいよ」
「冗談だろ」
関口は呟くとまた歩き出した。夕食時も過ぎ、廊下には中禅寺と関口の二人しかいない。中禅寺は関口の後をゆっくり追う。
「榎木津よりも、僕のほうが君を知っているよ」
「――だからなに? そんな・・・事僕自身が望んでそうなった訳じゃない、偶然の産物だ。僕が僕の事を理解して欲しいと心から願うのは先輩だけだ」
それに、と関口は前を向いたまま付け足した。
「君の態度が最近変だから、僕も気を張るのさ。あんまり僕に干渉しないでくれ」
そうすれば多分、元通りだよ。
関口は言葉を捨て置いて、自室に入った。
「気紛れが」
――判った風な口を利く。
じゃあ、何故僕をあんなにも頼ったのだ。
行き過ぎた惰性の友情のなんと始末に悪いことか。愛情友情憎悪区別なく。僕は目の前に有る事実を消化していく。偶然の産物だって? 冗談じゃない。偶然の産物と否定する前に、どうして「君は僕を何も理解していない」と否定してくれないのだ。――気を持たせるな。このような位置関係は望んではいないというのに、何故こうなってしまったのか。
偶然の産物と言い切るあの子に思い知らせてやりたい。偶然じゃないと。
しかし――どうすればそんな事ができるのかと、途方に暮れた。
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