寮に戻ると、関口は疲れたから、と言って自室に引っ込んだ。僕が一緒に関口の部屋に行こうとすると、本当に疲弊した様子で関口は線を引いてきたので、今回は諦めた。まあ、関口には疲れる一日だったのかもしれない。
食事を今すぐにする気になれない僕も、自分の部屋に引っ込んだ。上着を脱ぎ散らかして、暖房のスイッチをつけ、パソコンを起動させる。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、飲み口をひねった所で、電子音がけたたましく響いた。

上着のポケットに入れておいたままの携帯電話が鳴っているのだ。取り出して見ると着信 益田≠ニ表示されていた。

「益田か。なにか用か。金なら無いぞ」

「どうして俺が榎木津さんに金の無心しなきゃならないんすか! そうじゃなくてですね! なんか、奇妙な噂を聞いちゃったんで…それの真偽を確かめたくて電話したのですよ」

「噂の真偽? そんなの僕が分かる訳無いだろ。知らないよ。暇人め」

「いやねぇ、俺だってそんな暇じゃないし。でも内容が内容だからどうしても確認したかった、というか」
全く要領を得ていない。益田の阿呆に関われるほど、僕は暇じゃないのだ。

「そんなことはどうでも良いんだ。噂話ってなんだ、さっさと話せ」

「いや、ホントに馬鹿みたいなんですけどね! 皆こぞって噂してるもんだから! 嘘だってはっきりさせて皆の鼻をあかそうと! …榎木津先輩が、今日の昼にですね、学食で男と見詰め合って耳元で囁いたりして、それから手を取って胸に抱いてあつまさえ頬にキスまでしてそれから力一杯相手の男を抱き締めていた! な〜んていうのは、全くのガセでしょう?! 全く、噂を流すにしてももっと信憑性があるものを流せば良いのにねぇー!」

なるほど、噂とは今日の昼のことか。

「ああ、それ本当だ。大体あってる」

少し間があった。

「はい? あってるってどこら辺ですか? 学食に居たところですか?」

「だから全部だ全部。凄いな噂っていうのは。馬鹿に出来ないもんだ。かなり的確な表現だ。まあ、周りに人も沢山居たしな」

かなり長い沈黙が流れた。電波状況が悪いのだろう。

「益田、聞こえてるか? その噂話は真実だぞ」

「…し、真実って、正気ですか? 榎木津さん!!? っていうかあ――!! ホントかあ――!」

「うるさいぞ馬鹿!! 耳元で叫ぶな!!」

「榎木津さん、よりにもよって大学の学食で男とラブシーンですか?! とうとう最後までおかしくなったんですね?!」

「だからうるさいぞ、益田! それに益田には関係の無い話だろうが!」

「っていうかですね、本当にその噂で持ちきりなんですよ! 女なんて榎木津先輩とラブラブしてた男を探し出す、とか嫉妬でやばい事を言い出してるんですよ?! 大体女なんて腐るほど居て相手にも困っていないというのに、どうして男なんすか! まさか、真性ゲイ?!」

「本当に益田は馬鹿だな!? 益田なんて人権擁護団体からそのうち提訴されるぞ! 男が好きなんて気色悪い事いうな! 僕は関が好きなんだ! さっきはチャンスだったから告白してただけだ!」

「――はぁ?!」

「だ・か・らっ! 僕は関口巽が好きなんだ!!」

「せ、せ関口君が、学食での相手なんですか・・・ま、ままままじですか…」

「マジだ。僕達、付き合う事になったから」

「きゃぁ――!!!」

うるさい。僕は通話を切った。なにがきゃーだ。益田には関係ない。電源を落とした携帯電話をベッドの上に投げて、ペットボトルのお茶をグビリと飲んだ。


コンコンと弱弱しく、音がした。
僕はいつの間にかベッドでうたた寝していたようだ。起き上がる。電気も何もかもが付けっ放しだった。もう一度、ノックされた。大儀とばかりに立ち上がり、ドアを開けて驚いた。

「――関君。どうしたの? 中に入りなよ」

ドアをノックしていたのは関口だった。なんだか、下を向いていて元気が無い。蚊の鳴くような声で返事をして、僕が導くまま部屋に入って来た。クッションを勧める。

「遊びに来たの? それにしては元気ないね」

「――今日の昼の事で…榎木津先輩と話し合いたかったのですが…携帯電話に掛けても繋がらなくて…だから」
そういえば、益田と話すのが厭になって、携帯電話の電源をわざと落としておいたのをそのままにして、うたた寝してしまっていた。

「ああ、掛けてくれたのか! 益田の馬鹿が下らない事を電話してきて煩かったから、つい電源も切っちゃったんだ。すまなかったね。でも最初から僕の部屋を訪ねてくれれば良かったのに」

僕がそう云うと、関口はモジモジと下を向いたまま、何かを云った。

「本当にどうしたんだ? それで、話し合いたいことって?」

「いや、あの、」

「あの?」

関口の隣に腰を下ろした。すると関口は、ちょっとだけ動いて僕から距離を取った。

「昼間の返事、してなかったと、思って…」

「返事? 何の」

「だから…! 榎木津先輩が、僕に付き合ってと・・・云ったことです」

「え? 僕のこと好きなんでしょう? 僕も関君が好きだし。お互いの気持ちが通じ合ったら付き合うのは当然だろう」

「当然なんですか?! え、そんな」

僕は関口の言葉にむっとした。関口の額を突付く。

「い・や・な・の・か? 僕と付き合うのが?」

「そうじゃなくて…! 改めて返事をしようと、あの、何ていうか…考えてきた訳で…」

改めて、返事をしてくれるつもりだったのか。関口が僕の事を考えてああでもない、こうでも無いと言葉を用意してくれたなんて、ちょっと想像しただけで、ニヤニヤと笑ってしまう。

「そうなのか〜…! じゃあ、早く聞かせておくれよ!」

「でも、榎木津先輩が返事を貰ったと思っているのなら、それで良いです」

「良くない! 期待させたんだ、今すぐ、聞きたい! 関からそんな言葉なんてこの先多分聞けない」

関口はそっぽを向いた。

「なあ、関。関君」

僕が呼びかけても黙ったままだ。そんなにダンマリするのなら、抱き締めてやろうかと思ったけど、我慢して関口の言葉を待つ。一分ぐらい待っていると、関口が小さくため息を洩らした。

「…榎木津先輩」

「なんだね?」

「僕は、大学に入学して――入寮して、その日に榎木津先輩の事を知りました。先輩は背が高くて、綺麗な顔で日本人じゃないみたいで、しかも頭も良くて――底なしに明るいし、楽しい人だって、少し見ていただけで、直ぐに分かった。僕とは正反対で、でも嫉む気持ちとかは無くて、純粋に楽しくて良い人だなって思ったんです。寮でも榎木津先輩の事を知らない人は居ないし、常に噂になっていた。それで榎木津先輩が、洋楽研究会で副部長をしていて、バンドも組んでいる事を知った。僕も音楽をずっとやっている。…仲良くしたいな、って、そう思ったんです」

「…抱き締めて良いか?」

関口ににじり寄って、囁いた。
関口からこんな告白をずっと聞き続けているだけなんて、色々堪えられない。そんなに前から、僕を知っていただなんて、そんな事、知らなかった。僕はやっと三週間前に関口を知ったというのに。
悔しくて嬉しいなんて、僕にしては複雑な気分だ。関口をもっと早くに知っていたなら、今頃は同棲でもしていたかもしれない。

「だ、駄目ですよ! まだ、あるんですから…それで、でも、なかなか、入部する勇気が無くて、ずっと躊躇っていたんです。でも、丁度良く、中禅寺とサークルに入るか入らないかという話しになって…一人じゃ尻込みするから、一緒に見て回るという約束をして…でも本当は、洋楽研究会に入ると決めていたんです。あの、確かに、僕は、最初から榎木津先輩の事が好きだったんでしょう。興味程度だったにしろ…。だから、僕の部屋に榎木津先輩が来てくれた時は、嬉しかった…んです。サークルに入ってから、もう、どんどん魅かれていくのが分かった。僕は他人に愛情表現をするのが苦手だから、どうすれば良いのか、本当に悩んだけど、榎木津先輩と遊んでいるだけで楽しくて…それでだけで良いかと、思うようになっていた」

「そんなの駄目だ」

関口が小さく笑ったような気がした。

「だから、二講が終わったあと、本当にびっくりしたんです。僕が誤解するって云ってるのに、誤解じゃないかもって榎木津先輩が云った時。――見抜かれたかと思った」

「アレはね、見抜いたんじゃなくて鎌を掛けたんだ」

また関口は、本当に驚いたんだ、と呟いた。

「だから、今日は、本当に、夢みたいだと思った――。でも嘘だとも思った。揶揄われているだけだと思った。僕の気持ちを榎木津先輩が気づいて、同情されているだけなのかもしれないとも思った。でも――そんな不安を全て無視したところで、僕は榎木津先輩が好きだとまた思った――」

僕は、もう、何もせずに関口の言葉を聞いているなんて無理だった。確認も取らずに、関口を抱き締めた。関口の手は冷たいが体は暖かい。幸せな気分になる。関口も抱き返してくれる。

「榎木津先輩。本当に僕の事が好きですか? ――僕は、先輩が僕の事を嫌いになったとしても、本当は冗談で揶揄っているだけだとしても…多分ずっと…好きです。僕は――しつこいんだ、本当は。もう…どうすれば…この気持ちが伝わるのか…」

二の腕の辺りが、生暖かく湿る。関口は泣いていた。僕は関口の背中をさする。可愛い愛しい離したくない僕のもの。充分、伝わっているのに、伝え方が分からない、どうすれば良いのか分からないと泣く。僕の方こそ、こんなに僕の事を想ってくれているなんて知らなかったから、湧き上がるいやらしい気持ちをどうすれば良いのか分からない。僕は溜息を一つ吐いた。

「もう、充分だ。いや、足りないけど、今は充分だ。関が僕を本当に好きなのが良く分かった。だから、泣く必要は無い。僕達は付き合うんだから、これから幾らでも気持ちを通わせあえる。色んな場所に遊びに行くぞ。バンドだってある。急ぐ必要はない」

後半は自分に向かっていった言葉だ。関口が顔を上げた。目が赤くなっている。これは雪ウサギだな。僕は関口の頬にキスをした。関口は僕の口にキスをした。嬉しくなってにやける。

「ついでだから、もっとしておくれ。関君」

「…イヤです」

「強情っぱり」

「榎木津先輩は欲張りです」

そう云って関口は笑った。笑顔に欲情できるなんて、僕の精神はどこまでも健康にできてるらしい。僕はまた溜息を吐いた。

「何か飲むか? コーヒーあるぞ。缶だけど」

「じゃあ、喉も渇いたし、頂きます」
僕は関口から離れて冷蔵庫に手を伸ばした。

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