獣が眠る

 

四章(5)

 
 アッシュの手が髪を撫でている。もうどれだけ彼の腕枕、まどろんでいるだろう。
 二人で絶頂に昇り詰め、穏やかな疲労が全身にのしかかっていた。動くのが億劫だが、動く必要もない。半分以上閉じた目で、静かに上下するアッシュの胸を見つめていた。
 これほど心が落ち着いているのは、記憶をなくしていた時以来。アッシュの腕の中に居場所を見出し、身も心も彼に委ねていたあの時以来。
 記憶をなくしたのは、森に漂う霧のせいだった。
 霧の中には、確かに意志を持つ何かがいる。それはアッシュが殺した人狼だろうが、森の外までアッシュを追うほどの意志を持つところを目の当たりにして確信した。
 同じ飢える人狼としてジゼルを理解し、癒そうとしてくれたのか。心配せずにアッシュの側にいればいいと、森に引き止めてくれたのか。
 それは結果的にジゼルだけではなく、アッシュにとっても喜ばしいこの現状を招いた。
 霧がこの世に留まり続けているのは、本当にアッシュを恨んでいるからなのか。悪意を感じない。むしろやさしさを感じる。
 ジゼルへのやさしさを、アッシュへのやさしさを――いや、森の虫や獣、草木と土、そして大気に、触れているすべてのものに対するやさしさを感じる。
 眠いはずなのに、考え出すと止まらない。それでも思考の途中で時々、意識が途切れ、だんだん何を考えていたのか分からなくなってきた。気づけば瞼も閉じている。
「なぜ……」
 不意に耳を掠めたその呟きは、ひどく小さい。しかし静かすぎるここでは鮮明に聞こえてきた。
 髪を撫でる手が止まる。見れば、アッシュは窓の方へ向けた双眸に驚愕を刻んでいた。
 彼の視線の先へ振り向き、即座に目に飛び込んできたのは、窓辺に溜まる白光。
 夜が明けたわけではない。
 月が出ている。

 さっきまで月を隠していた霧が、今は薄い。アッシュが帰ってくれば、森の外へ散った霧は元に戻るはずではなかったのか。
 月が手にしたばかりの幸せを咎めている。休まずあがき続けろと。
 血液が凍りついて流れを止めたのか、手足の先がひどく冷たい。瞬きを忘れた目の奥に月光が染み込んでくる。視線を反らしたいのに、反らせない。
(でも、何かが……違う)
 なぜだろう。ジゼルは今、怯えていなかった。
 不思議なほど落ち着いている。体は強張り、ざわめきが胸を占めている。しかし満月ではなくても、これほど月が明るい夜は狼の姿になってひたすら疾走する。何も考えられなくなるほどの勢いで、朝が来るまで。
 そうしてなんとか正気を保っているのに、今夜はアッシュの側でじっとしていられる。
「消えていく」
 アッシュの放心した呟きが聞こえてくる。
 彼は強張った顔を窓辺に向けたまま、ジゼルの肩を抱き寄せた。
「森の外へ散っているんじゃない。霧が……魂が、この世から完全に消えていく」
 声は静かだが、戸惑いを隠せないでいる。肩に回された手は、かすかに震えていた。
 アッシュが自らの時を止め、三百年もの歳月を生きてきたのは罪滅ぼしのためだ。アッシュが殺した人狼の、アッシュの兄として育った人狼の怒りが鎮まり、月へ還る時を見届けるためだった。その時が今だというのか。
 贖罪の日々が終わる。それでも突然すぎる訪れに、アッシュは戸惑っている。
 そんな時でも彼は、気遣うようにジゼルの頭をひと撫でしてからベッドを降りた。窓を開け放つと、澄み渡った外気とともに霧がゆらりと室内に流れ込んでくる。
 その中にふと、生き物の濃厚な気配を感じた。
 匂いもない。息遣いも聞こえてこない。しかし確かにいる。
 ジゼルは恐る恐る窓辺に近寄り、アッシュ抱きついた。
 月が見える。滴り落ちる白光は静寂の森を覆い包み、草木の輪郭を浮かび上がらせる。
 その中で霧は上昇していた。水の底で発生した泡が、水面に昇っていくように。そして月が浮かぶ辺りで次々と消えていく。
 目を閉じると、上昇していく霧の中にやはり生き物の気配がした。
 肌を撫でるそれは、人の手。幾千の手がジゼルを撫でている。肌が粟立ったが気持ちが、悪いわけではない。その感触はひどく冷たいが、ひどくやさしく、どこか懐かしい。
 途端にふわりと浮かび上がるような感覚に襲われ、ジゼルは目を閉じたまま顔を空に向けた。上昇していく霧に足元をさらわれて、自分の体まで月に昇っていくような気がする。
 しかし連れて行ってはくれない。
 ただジゼルの頑な一部を溶かして奪っていく。
 何か、一部を。

 人狼の気配が遠ざかっていくと、ジゼルは瞼を開けた。すぐに瞳に映ったのは白い月だ。霧はもうほとんど残っていなかった。月の姿をさえぎるものは、いよいよ何もない。
 見つめていると、すっと頭が澄み渡っていく。しかし飢えて我を失う時の感覚とは違う。体の強張りは溶け、震えは止まり、胸を占めていた不安も跡形なく消えている。
 感じているのは、今まで知り得なかった月の光のやさしさ、さやけさ。
 ひたすら清浄なその姿が胸を打つ。
「月が、怖くない」
 今まで怯えていたか不思議なほど。
「こんなにも綺麗だ」
 自分が恐怖を感じている間、人は、獣は、月をこんなにも美しく見ていたのだろうか。
「月が……」
 見守ってくれている。ジゼルは声を震わせた。
 森が晴れたように、ジゼルの心からも霧が消えた。まっさらになったそこで見る月は、涙が出そうなほど綺麗だ。
 地上で罪を犯した人狼は月へ還り、同化し、地上であがく同胞の罪を見守っている。
 人狼は月から生まれ、月へ還る。月に集う同胞の魂の存在を知った今、その意味を心から理解した。いつか自分もそこへ還り、一つになる。
 なぜ畏れる必要があるだろう。あれは母であり、父であり、兄弟であり、自分でもある。
「君はもう、飢えないかもしれない」
 胸に淡い期待が生まれるのと、アッシュがそれを口にするのと、どちらが早かっただろう。
「月はもう君を支配できない」

 月はジゼルを嘲笑うことも、怯えさせることもできない。ただ美しさと懐かしさを覚えさせる。
「人狼はきわめて月に近い存在だ。月に寵愛され、その愛情の証として瞳に月の力を授けられたと、私の生まれた時代に信じられていた。彼等は満ちた月から降り注ぐ多大な愛情を持て余し、狂気を引き起こすと……」
 心がその愛情を素直に受け入れれば、狂気を引き起こすこともない。
 霧の中に感じた手が、ジゼルの一部を奪っていった。霧が月への恐怖を断ち切った。
「君が森に来たのは偶然でなく、人狼の魂が引き寄せたのだと思っていた。記憶をなくしたのも、あの人が介入していたと。私を苦しめるために……」
 月から反らせない目の端に、アッシュが片手で喉元を抑える姿がちらついた。
「あの人は……やさしい人だった」
 ジゼルの肩を力強く抱き、掠れた独白を絞り出す。
 自分の意志を確かに持っていたあの霧が、突然消えた理由はなんなのか。
 真実を知ることはできない。孤独だったアッシュがジゼルを手に入れたこの時に、見守る役目を終えたように消えたそれの心は、想像することしかできない。
 

 

 

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