獣が眠る

 

終章

 
 ジゼルが帰ってこない。
 アッシュは液体が入ったフラスコを見つめながら、溜め息をついた。
 薬の調合の途中だ。毎日、研究室で机の前に座っているが、手は止まっている。脚を組んで天井を仰ぐと、また溜め息が出た。
 霧が消えた後、ジゼルはすぐに森を出ていった。飢えた姿を見せないためだ。
 もう飢えないかもしれない。それでも飢えた時のことを考え、彼は満月の夜の前に出ていった。
 そんなことは気にしない。だからどんなことが起きても守れるように、ここにいて欲しい。前に銃で撃たれた時のことを思うと、心配でたまらなかった。
 しかし不安なのは、ジゼルの無事だけではない。本当に帰ってきてくれるだろうか。その不安も胸に渦巻いている。

 ジゼルの気持ちを疑っているのではない。お互い隠していた想いをすべてさらけ出して体を重ねたあの日、彼は確かに心を許してくれた。
 それでも不安が拭いきれない。霧が消え、この森に興味がなくなってしまったのではないかと。
「私にも魅力がなくなったのか?」
 ジゼルが飢えなくなったのなら、支える腕も、抱きとめる胸も、必要なくなったのではないか。
 こぼれた独り言は、嫌になるほど情けない声だった。
 落ち着かない。溜め息をつくのは今日だけで何度目だろう。アッシュは腰を上げると研究室から出て、玄関の扉の前に立った。
 扉を開いてすぐに視界に広がったのは、見慣れた景色ではない。
 冬が去り、春が訪れたせいではなかった。眩しさに目が眩む。眩しいのは日の光だ。
 霧が消え、森は変わった。空には太陽が浮かび、陽気が森に降り注ぐ。陰鬱な雰囲気は去り、太陽の元で新芽を出しはじめた草木が生命に満ち溢れていた。
 霧はなぜ消えたのか。しかし思い起こしてみれば、突然のことではない。
 森へ迷い込んだジゼルを霧は空を覆って迎え入れ、アッシュに出会わせた。ジゼルを眠らせたままにしたのは、彼を森に引き止めたかったからなのか。
 それは前兆。同胞を思い、常にアッシュを思う。かつて殺した人狼はやさしい人だったのだ。常にやさしい自慢の兄でいて欲しくて、殺したほどに。
 殺されたことを恨むどころか、むしろそのことで自分を責めるアッシュを心配していたのかもしれない。霧として森に漂いながら、何かが弟の悲しみを拭い、幸せになってくれる日が来るのを強く望んでいた。
 そしてジゼルが森に来た。
 真実を知ることはできないが、あの日、確かに感じた。霧に見守られていた。そしてあの日、ジゼルにアッシュをたくしていった。
 しかしその愛しい存在は今、ここにいない。
 興味がなくなったのか、忘れてしまったのか。
(それともすべて夢だったのか? 私が三百年も生きていたというのも、ジゼルと出会ったことさえも)
 馬鹿なことばかり考えてしまう。それほど何事もなかったように森には日が降り注いでいる。土には日の匂いが染みつき、やわらかな緑の匂いと混ざり合い、鼻をくすぐる――

 一瞬、呼吸を忘れた。
 アッシュは一点を見据え、体を硬直させた。
 森の中から黒い影が近づいてくる。小柄なそれは、狼だった。
 まだ遠いところにいるが、見間違いではない。美しい黒い毛並みをした彼が全身をしなやかに躍動させ、木々の間を縫って駆けてくる。赤い瞳にアッシュの姿を映しながら。
 近づいてくると徐々に速度を緩め、アッシュの前で立ち止まる。あれだけの勢いで走ってきたのに、少しも息を切らしていない。
 アッシュは地面に膝をつき、彼の頬にそっと触れた。
「ジゼル……」
 言葉が続かない。胸から熱いものがこみ上げてきて喉を圧迫している。
 ジゼルの姿を見て、ジゼルに触れた途端、今までの憂いは跡形もなく吹き飛んだ。
 存在を確かめるように頬を撫でていると、ジゼルの尾がためらいがちに揺れた。すぐに尾の動きは止まったが、数秒と経たずにまた揺れはじめる。今度は激しく、再会の喜びを隠しきれないとばかりに。
 あまりに愛くるしい仕草に目眩がする。
「ジゼル、おかえり」
 アッシュが吐息と言葉を漏らすと、ジゼルは手の平に頬をすりつけてくる。次の瞬間、彼は全身の毛をさざ波のように震わせた。
 あっという間だ。どんなに間近で見ても、何度見ても、どのように姿を変えるか分からないのはこの早さのため。確かめようという意識を働かせる暇も与えず、黒い肢体は眩しい白々とした肌に変わっている。
 華奢ではないがほっそりとした手足は、土を蹴って疾走するものではない。アッシュの胸に飛び込むためのもの。
 黒髪は狼の毛並みよりも細くやわらかく、ふわりと風に揺れて日の匂いが漂ってきた。
「……ただいま」
 ジゼルが小さな唇を動かす。
 照れているのか。少し憮然としている。それでも赤い瞳は、真っ直ぐにアッシュを見つめていた。
 向けられている眼差しに、幸せが滲み出ていた。
 おそらく再会の喜びとは他に、わけがある。記憶を失っていた頃の無邪気さに通じるものを感じた。たたえているのは憂いや悲しみが払拭された純粋な光。
 そこで察した。ここを出て迎えた満月の夜を、穏やかに過ごせたのだと。
 しかし帰ってきてくれたのだ。月も飢えも関係なく、彼は自分を必要としてくれている。
 アッシュは満面に笑みを浮かべ、ジゼルを抱き締めた。
 はじめて聞く「ただいま」という言葉に、これから二人で生きていくのだと実感する。
 新たな世界を。

 

了  

 

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