四章(4)
どれだけ時間が経ったのか――分からない。
枝葉がこすれ合う密かな音が耳を撫で、濡れた緑の濃厚な匂いが漂いはじめる。渦を巻いていた風が去っていくと、ジゼルは瞼を開けた。
目に映ったのは、橋の上の光景ではなかった。人工的な建造物や明かりはいっさいない。鬱蒼とした針葉樹の森の中に、ジゼルはアッシュと抱き合って立っていた。
木々の間から古い屋敷が見える。静けさに包まれたここは、北の街からはるか遠い。時代に忘れ去られた魔術師が住む森。
どう考えても目立ち過ぎだ。
「これでも気を払った方だぞ?」
「どこがだ」
呆れるジゼルに、アッシュは涼しい顔を返してくる。
相変わらず、森には霧が立ちこめていた。いや、記憶にあるより霧が薄い。空は覆われ、月は見えない。森の視界も鮮明ではなかったが、いつも以上には見通せる。
アッシュを追って森の外へ散っているのだろうか。だとしたら、こうして素早く帰ってくる必要があったのかもしれないが。
「まさか叱られるとはな。早く二人きりになりたかっただけだが」
確かにあの場所では落ち着かないが、ここなら周りを気にする必要はない。頭を撫でてもらうのも、顎の下をやさしくくすぐってもらうのも自由だ。
そう思うと、急に触って欲しい部分が疼いてきた。
(撫でてって、言おうかな……)
発言を迷いながら察してくれるのを期待していると、アッシュは口元をほころばせる。
「考えは同じようだな。ジゼル、私の寝室に」
その色気を帯びた声は、一瞬にして頭の中を真っ白にした。
撫でてもらうなら、リビングの暖炉の側がいい。アッシュは人と狼のどちらの姿の方が撫でやすいだろう。そんなことを考えていた。
しかし寝室と言われた。それは他でもなく、そういう意味。
ジゼルはアッシュの腕を振りほどき、屋敷へ足を向けた。
「ジゼル?」
後ろから呼ばれたが、止まれるはずがない。玄関の扉をくぐり、階段を昇り、そのままアッシュの寝室に行った。
「積極的だな」
外套と靴を脱いでベッドに上がると、追ってきたアッシュがからかう。その声はひどく嬉しそうだ。
「違う。寝てないんだろ?」
ジゼルは素っ気なく答え、彼に背を向けて寝転がった。
確かアッシュは、ジゼルが出ていってからほとんど眠れなかったと言った。その上、あれほど豪快な魔術を使い、疲れていないはずがない。
「なるほど。体調が万全の私に、激しく抱かれたいというわけか」
そんなことは言っていない。
肩越しに睨みつけたがアッシュは気にせず外套を脱いでベッドに上ってきた。
ジゼルの体をまたいで正面に回りこみ、横になると腰に腕を回してくる。息がかかる距離まで引き寄せると満足したのか。目を細めて髪に指を絡めてきた。
細めても閉じる気配のない目に見つめられている。
眼差しがくすぐったい。幸せと愛おしさが滲み出ているそれは、記憶を失っていた時に向けられていたものと同じだ。あの時も向けられただけで赤面してしまった。
森へ帰り、二人きりになった途端、なぜ声も眼差しもここまで甘くなるのだろう。
うつむいたジゼルの顎をアッシュがやさしく掴み、顔を近づけてくる。
唇を重ねられた。ぬるりと舌を差し込まれる。
離れとようとしても、追ってくる。さっき交わした重ねるだけの口付けとは違う。唇と唇を隙間もないほど密着させ、舌に舌を絡みつかせ、吐息も唾液も残さず舐めとられる。
「ん……んう……」
鼻に抜けた甘えるような声に、自分が驚いた。
このまま流されれば、体は勝手についていくかもしれない。それでも体に覆いかぶさってきたアッシュに服のボタンを外されると、思わず彼の腕に爪を立てた。
「寝て……ないんだろっ」
「眠るのはいつでもできる今は君を……」
言葉を紡ぐのも半ばに、アッシュは濃厚な口付けを再開させる。口腔を貪りながらあっという間にジゼルの上半身を裸にし、休む間もなくズボンと下着に手をかける。
慌ててジゼルはアッシュの手を振り払い、ベッドに突っ伏した。
「ジゼル……?」
背後で訝しげな声が上がる。顔を覗き込もうとしてくるので、シーツに額を押しつけて隠した。
鼓動が速い。顔も熱い。
「体を重ねるのに抵抗があるようだな。私を必要としてくれているのは分かったが……君が欲しいものの中に、こういった行為は含まないのか?」
拒まれるとは思ってもみなかったのだろう。ジゼルの反応にアッシュは戸惑っている。しかし戸惑っているのはジゼルの方だ。
体を重ねるのが嫌なわけではない。ただひどく恥ずかしい。
記憶がなかった時、何度もアッシュに抱かれていた。アッシュの愛撫を覚えている。耳元で名前を呼ぶいつもより色気が増した声も知っている。
それなのに恥ずかしい。まるではじめて体を重ねるようで。
「記憶がない時の君は、私に抱かれることで不安をなくそうとしていたが……確かに今の君も同じだとは限らないな。抱き締めて、口付けをして、それだけでいいのか?」
横目で盗み見たアッシュは、明らかに落ち込んでいる。
彼に触ってもらえるのなら、なんでもいいのだ。しかし体を重ねるのはやはり恥ずかしくて、それでも触るのをやめないで欲しいとも思っている。
「なんか……なんか変なんだ。したこと……あるのに、俺……」
意を決して口にしたが、そのせいで更に羞恥が襲う。
シーツに額をすりつけてやり過ごそうとしていると、いきなり背中を撫でられた。
体を震わせたのは、はじめだけだ。アッシュの手の動きは、狼の時の毛並みを撫でる時のもの。落ち着かせようとしてくれているのだろうか。
「君は私がはじめてだったのか?」
聞こえてきたそれは、からかうような声ではない。しごく真面目だ。
確かに記憶がない時、アッシュに抱かれたのがはじめてだ。長い間、不思議なほど興味がなかった。飢えに怯えて生きてきて、そういうことに頭を回す余裕がなかったのだろう。
からかっていなくても、その質問は不躾だ。肩越しに睨んだが、あの甘い眼差しを返された。
アッシュが安堵に顔を緩ませている。それを見ているとジゼルの視線も自然と緩んだ。
肩の力を抜くと、背中を撫でていたアッシュの手がシーツと体の間に忍び込んでくる。
「大丈夫だ。身を任せていればいい」
胸にある小さな突起を探り当てられ、指先でそっと刺戟される。触り方は狼の時にされるものではなくなったが、さっきの荒々しさはない。逃げる気は起きなかった。
「一度でも、私が君の嫌がる抱き方をしたことがあるか?」
涼しい声で何を言い出すのか。一度どころの話ではない。
「薬とか」
「あれは素直になるまじないのようなものだ」
「縛ったり」
「それもまじないだ」
アッシュは苦笑しながら、ジゼルのズボンと下着を一緒くたに脱がす。冗談なのか、なんなのか。ただ緊張をほぐそうとしてくれているのは分かる。
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