獣が眠る

 

 

 アッシュの目にやさしい光が浮かぶ。彼の前にあらわになったジゼルは、噛み締めた唇を震わせている。赤い瞳にたまった涙は、今にもこぼれてそうだった。
「本当の君は、人に頼れないほど弱くて脆い。私も大概、弱い男だがこの腕で君を支えたい」
 真摯に囁く彼の目には、ジゼルしか映っていない。
 平静を装えなかった。アッシュから顔を背け、手を振りほどこうとしたが放してくれない。必死に彼の体を押しのけようとすると、両腕を押さ込むように抱きすくめられた。
 それでももがくと更に強く抱き締められる。息もできないほど強く。
「私は決して君を見捨てない!」
 アッシュが喉から叫びを絞り出す。
 逃れるのはもう無理だった。ジゼルが望んでいることも、怖がっていることもアッシュは知っている。この腕が抗う気持ちを根こそぎ奪う。
 アッシュの胸から聞こえてくる鼓動もひどく速い。
「寂し、かった……っ」
 震える唇から想いが溢れていく。
「やさしく撫で、て欲しく、て……愛されたくって……でもっ」
 目の奥が熱い。鼻腔が痛みを訴える。
「はじめから気づいていれば、もっと早くに安心させられたのに。すまなかった」
 アッシュはジゼルの髪に唇を埋める。ジゼルは抱き締めてくれる彼の腕に爪を立てた。
「でも俺はっ……誰かに、愛されるような……アッシュもいつかきっと!」
「ジゼル、まだ私の気持ちを確かめたいのか?」
 アッシュの声が心に降り積もる。重く、あたたかく、どこまでも深く。
「愛してる。この先、何があっても、君だけを愛し続けることを誓う」
 唇からは吐息が、瞳からは涙がこぼれた。

 本当は分かっていた。諦めるなど無理だ。
 この一ヶ月間、いくら望みを忘れろと言い聞かせても、アッシュを疑えない自分がいた。
 記憶がなかった時、アッシュはずっと隠していた本心をジゼルにさらけ出していた。あの時、アッシュの悲しげな顔、すがりつく姿、そして激しい感情を見た。彼は傲慢な独占欲でジゼルを縛り、我を失うほどの嫉妬も隠そうとしなかった。
 どれだけ想われているのか、知ってしまったのだ。
 だから大丈夫。アッシュの想いは、いつか消えるようなものではない。彼はありのままのジゼルを抱きとめてくれる。そんな根拠のない幻想が、ずっと頭を占めていた。
 その幻想が本当に幻想なのか、事実なのか、今でも分からない。
 しかしどうでもいい。今だけでも一緒にいたい。
 アッシュが好きだ。
「泣かないで欲しい」
 しゃくり上げながらアッシュの服を握り締めていると、頭上からあやすように囁かれた。
 アッシュが腕の力を緩め、ジゼルの頬から指で涙をすくい取る。それでも今まで堪えていたすべてを吐き出さなければ気がすまないとばかりに、涙は溢れ続ける。顔を上げると今度は外套の袖で拭われた。
 ぼやけた視界の中で、アッシはどこか照れたように穏やかな笑みを浮かべている。
「気づいていたか? さっきからずっと、今の今まで震えていた」
「……俺が?」
「私が」
 気づくわけがない。
「君に言いながら、やはりこれは私に都合のいい解釈かもしれないと震えていた」
 あれほど確信しているように話していたのに。
「私だって不安だ。君が私の元を去ってから眠れなかった。今はこうして腕の中に収まってくれたが、今度はいつか私に飽きてどこかへ行ってしまうのではないかと気が気でない」
 お互い別れの時が来るのを恐れている。それならはじめから寄り添わなければいい。そう割り切るには、お互いの存在がお互いの心に浸食しすぎていた。
「行かない……から」
「ああ。私も離さない」
 頬に手を添えられ、アッシュの顔が近づいてくる。目を閉じると、冷えきった唇を唇で包み込まれた。

 あたたかいアッシュの感触と体温が、あるべき場所に戻ってきたのだと教えてくれる。アッシュも同じことを考えているのか。ゆっくりと重ねる角度を変えながら、安堵が滲む吐息を漏らす。
 ずっとこうしていたい。離れていた時間の分も、すれ違っていた時間の分も。
 ざわめく周囲も気にならない。
 いや、気にならないわけがない。
「どうした?」
 胸を押して飛び退くように唇を離したジゼルに、アッシュは首をかしげる。
 ようやく気がついた。
「街の中だろ」
 涙も止まる。なぜこの状況に気づかなかったのだろう。
 橋の上に人は少ないが、まったくいないわけではない。行き交う人々がちらりちらりと盗み見ている。足を止めてひそひそ話をしている者もいた。
「そうだな。さすがに三百年も経てば、世の風潮が変わったな。夜とはいえ、往来で抱き合っていても誰も目もくれない」
 アッシュはジゼルの腰に腕を回したまま、涼しい顔で周囲を見回す。
 感慨深く呟くが、もちろん突き刺さるこの好奇の視線に気づいていないはずがない。
「冗談言ってないで放っ……」
 しかし放せとは言えなかった。
 口を開いたまま言葉を飲み込んだジゼルを見つめながら、アッシュは目を細める。
「帰ろう」
 やさしい声が顔をくすぐる。
 まるで春風のようにあたたかいそれが次いで頬を撫で、ふわりと髪を揺らす。
 はじめはアッシュの息だと思った。しかしジゼルとアッシュの外套が大きくはためく。遠巻きにこちらを見ていた橋の上の人々のそれも同じだ。
 誰かの帽子が宙を舞う。呆然と見ているといきなり頭を抱かれ、胸に埋めさせられた。
 周りが見えない。何が起きたのか。
「え? アッシュ?」
「空間を歪める。しっかり歯を食いしばっているんだ。舌を噛むぞ」
 ジゼルの声とアッシュの嬉々とした声、周囲のざわめきをかき消して轟音が耳を襲う。
 風の音だ。覚えのある突然の強風に一瞬、体が強張ったが、風は前に見たような凶暴なものではない。勢いはあるがやはり春風のよう。
 一つに重なったジゼル達を、外界から隔離するために渦を巻き、足元を攫う。
 ジゼルは言われた通り歯を食いしばり、目を固く閉じた。アッシュにしがみつくのと同時に、いっさいの音が聞こえなくなった。
 

 

 

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