四章(3)
「ようやく見つけたぞ。まったく、君は足が速い。まさかたった一ヶ月で、こんなところまで来ているとはな」
ジゼルに名前を呼ばれたからなのか。アッシュの声に、わずかに安堵が入り交じる。
見つけたと言った。探していたのだろうか。この広い世界のどこにいるか分からないジゼルを。確かに自分に流れる時間をも止める魔術師なら、可能なのかもしれない。
しかしアッシュがここに来るなど、あり得ないことだった。
「森から……出られないって……」
「出てはならない、と言った方が正しい」
「だって霧が」
「霧ならそのうち追いついてくるだろう。おそらく森からこの街までの間に存在するすべてのものを呑み込んでやってくる。私が帰らない限り、そこで太陽の姿を見ることはない」
アッシュは穏やかでないそれを、こともなげに言ってのける。
「だったらっ」
「ジゼル、話がしたい」
静かな声に言葉をさえぎられ、胸がさざなみ立った。
「君は今、何を考えているんだ?」
問いかけながらアッシュは、何かを確信しているような気がした。
言葉を返さなくてはいけない。しかし頭の中が真っ白だ。アッシュが現れるなど考えてもみなかった。淡い期待すら抱けないほどあり得ないことだ。
彼はあの森に縛られている。霧を森に封じる生活を、三百年も続けてきた。
しかしジゼルに会うだけのために、それを放棄した。
ジゼルは体を固くし、ただただ前方を見つめていた。瞬きを忘れた瞳が何を映しているか分からない。振り向いてはいけない。アッシュの顔を見れば、自分が何を言い出すか分からなかった。
背後から小さな溜め息が聞こえてくる。
「私が許せないのか? 記憶がなく、何も知らない君を私は好き勝手に扱っていた。君はそれを許せず、私の元を去った」
違う。
「……そう」
ジゼルは乾ききった喉から声を絞り出した。
平静を装ったつもりだが、その声はかすかに震えていた。気づかれなかっただろうか。背筋に汗が浮かんでいる。この異常に速い鼓動の音まで、聞こえているのではないか。
「はじめはそう考えた。すべて私の罪で罰なのだと……しかしどうしても納得できない。いくら記憶をなくしたとはいえ、まったくの別人になるものなのか? あの三ヶ月を私と過ごしたジゼルは、まだここにいるはずだ」
記憶が戻って屋敷を出てようとした時も、それを指摘されて息を呑んだ。
「確かに記憶がない君を、私は別人のようだと感じていた。記憶があった頃の君に会いたいと思っていた。しかし私の求めていたジゼルとその時、腕の中にいたジゼルは同じ人だった。違うのか? あれが君の本来の姿だった」
アッシュが言う通り、あれがジゼルの本来の姿だった。
飢える自分を忘れていたから、無邪気に本心をさらけ出せていた。
ジゼルはいつの間にか自分の両肩を抱いていた。何かを言おうと開いた唇から吐息が漏れる。それは白く、目に見える。震えているのもアッシュから見えているのだろうか。
「違う……」
「君は私を必要としていた。私が君を必要としていたように」
ようやく発せた言葉にアッシュは耳を貸してくれない。
「必要なんかじゃ」
「私は多くの誤解をしてきたようだ」
怒鳴られているわけではない。責められているわけでもない。ジゼルの胸に染み込ませるように、ゆっくりと語るアッシュの声は静かすぎた。
「君が信じるのは自分だけだ。支えてくれる誰の腕もいらない。そう思い込んでいたせいで、必要とされていても気づかなかったんだ。嫌われてしまうのではと、君の心に踏み込めなかった。少しでも長く側にいて欲しい、そんな自分の望みにばかり必死になっていた」
そこまで言うとアッシュは再び溜め息をつく。
「君は興味がなくて他人を拒んでいたんじゃない。自分が傷つかないように拒んでいたんだ。それなのに……」
自分を責めるように。
「私は君の表面しか見ていなかった」
アッシュと過ごした日々は終わったのだ。
ジゼルが終わらせた。しかしずっと望み続け、戻れないからこそ胸を痛めてきた。
そしてアッシュは迎えにきてくれた。
「違う」
唇が勝手に呟く同時に胸に熱いものを生まれる。それはこの一ヶ月の間、決して感じられなかったもの。望んでいても。
「違う……違う!」
抱いている両肩に爪を食い込ませながら、ジゼルは思わず叫んでいた。
しかし何が違うのか。彼の言葉はすべて正しい。心を覗いたのではないかと思うほど。
「怖いのか?」
何もかも見透かしているアッシュの言葉は残酷だった。
怖いのだ。
「私は君に捨てられることが怖い」
それはジゼルの方だ。
自分は愛されるはずがない。だからアッシュに捨てられるのが怖い。
確かに今は愛してくれるかもしれない。しかしいつかアッシュがジゼルを守ることに、ジゼルを愛することにすら罪を感じた時はどうすればいいのか。
愛情を与えられるのが怖い。溺れるのが怖い。失う時が必ずくるから。
アッシュの手がジゼルの両腕に触れた。そのわずかな接触だけで、苦しくてたまらない。伝わってくる彼の体温が熱くてたまらない。
「このまま君を連れて帰るつもりだ。強引にでも」
帰りたい。
ジゼルはこみ上げてくる嗚咽を噛み殺した。
手を差し伸べないで欲しい。この一ヶ月の間、どうにか胸の痛みに耐えようと必死になってきた。もしかすると、もう少しだけ時間が経てば諦められるかもしれないのに。
腕に添えられたアッシュの手に力がこめられる。振り払わなくてはいけない。しかしアッシュの動きの方が早かった。
次の瞬間、無理やり体の正面をアッシュの方へ向けさせられた。
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