四章(2)
茶色い紙袋を抱えながら、ジゼルは商店がひしめく通りを歩いていた。
人ごみは苦手だが、食料を調達するためだ。さっきから目の色が目立たないように、石畳の道に視線を落として足早に歩いていた。
ここはあまりに騒がしい。人が溢れ、馬車が行き交い、頭上ではからくり仕掛けの時計が正午を告げて軽快な音楽を鳴らす。
冬は寒く、景色は色褪せる。しかしここでは商店の明かりが煌々としていて、冬の暗い印象が薄い。雪が降りしきるのに道行く人達の表情は明るい。
この世では、魔術はとっくに廃れた過去の遺物だ。文明は石炭を焚き、蒸気で動く。地方では魔術への信仰がまだ残っているが、発展した都では存在すら信じられていない。
それは街の雰囲気を見ていると納得する。ここでは自然の脅威や自然への畏怖は遠い話だ。目に見えない力は身近ではない。
ジゼルは雑踏から離れ、裏路地へ入った。しばらく進むと質素なアパートが見えてくる。そこの最上階の一室は、あの白髪の男の住居だった。
部屋にジゼルが入ってきても、ベッドで眠る住人に目覚める気配はない。
今朝、孤児院からアパートに戻ると男は少し疲れたと言ってベッドに横になり、今もまだ青白い顔で眠っている。
はじめ、あの場所へはジゼルが一人で行くつもりだった。しかし男がついて行くと言ってきかなかったのだ。そのくせに情けない。異常にやせ細った彼には体力がなかった。
ジゼルは窓辺に行き、抱えていた紙袋からリンゴを取り出して街を見下ろした。
視界の果てまで、黒や赤茶の屋根瓦が静かに広がっている。屋根から突き出た暖炉の煙突はどれも煙を吐き出していて、それと降雪でぼやけた景色だった。
見ていると意識が遠のきそうになる。
体がふらつく。疲れのせいだ。
この一ヶ月、できるだけ遠くへ行こうと北上し続けてきたが、最近になってようやく走る感覚を取り戻した。記憶をなくしていた間、眠ってばかりいたので体が鈍っていた。
あの時、四六時中眠気に襲われていたのは、外に出してもらえなかったからだろう。目覚めている時間を少なくすることで、記憶から無意識に自分を守っていたのかもしれない。
しかし結局、思い出してしまった。
「それは何?」
不意に声が上がった方向に振り向くと、白髪の男が目を覚ましていた。
上半身を起こした彼の視線の先にあるのは、ジゼルが抱えているリンゴの入った紙袋だ。放り投げると彼は足元に落ちたそれを不思議そうに覗き込む。
「こういうのも好きなの?」
何を言いたいのかよく分からない。特に好きというわけではなく、草木の実でも新芽でも、空腹であればなんでも食べる。ただ満月の夜以外、肉は食べない。
ジゼルが手にしていたリンゴに齧りつくと、男は眉間にシワを寄せて困惑した。
「じゃあ、僕のことはいつ食べてくれる?」
やはりこの男は何かを知っている。
身構えて睨んだが、男はうっとりとした眼差しを返してきた。
「覚えてない? 前に一度会っただろう? 君はあの時、僕の喉に噛みつこうとしていたよね。あと少しってところで人が来て逃げちゃったけど、食べたかったんだろ?」
覚えがない。男の顔も、そんなことがあったということすら。
飢えて我を忘れた時の記憶は曖昧になる。覚えていなくても不思議はなかった。
「その目……危険だって分かってても、欲しくてたまらなかった。君のことを思うと食事も喉を通らない。何かをする気力も沸かない。君以外に価値を見出せないんだよ」
ジゼルの赤い目は獲物を虜にすると、アッシュは言った。それが本当ならこの男は虜にされ、ずっとジゼルの目に精神を蝕まれ続けていたのだろうか。
「あまり俺の目を見るな」
ジゼルは男から顔を背けた。それでも彼は視線を微動だにさせない。
彼がこの目から解放されることはないのだろうか。髪は白くなり、体は異常にやせ細っている。衰弱したその姿はジゼルのせいなのか。
しかしジゼルができるのは、彼の視界から消えることくらいだ。
「また行ってしまうのかい? 駄目だ。行かせないっ」
出て行こうとすると、男はベッドから崩れるように降りて駆け寄ってくる。腰にしがみついてきた彼を振り払おうとしたが、ジゼルは無意識に動きを止めてしまった。
体が動こうとしない。腰を引き寄せられ、ジゼルは男と一緒に力なく床に座り込んだ。
食べかけのリンゴが手の平から転がり落ちる。
男が頬に触っている。ジゼルの目を真っ直ぐに見据え、目尻にシワを寄せて笑いながら。
(もう……一人でいたくない)
ぼんやりと考えながら、目眩がした。
疲れていた。体だけではない。心も疲れきっていた。
望んではいけないと自分に言い聞かせているのに、望みは強くなるばかり。この一ヶ月、どれだけ走って想いを振り切ろうとしても、胸の奥底からじわりじわりと涌き出てくる。
一人でいると寒くて、苦しくて、流れ行く時間がひどく遅い。こんな日々がこの先も果てなく続くと思うと不安よりも、悲しみよりも、絶望が胸を押しつぶす。
「なんでもあげるよ。僕の血でも肉でも。だから一度だけ……」
男がジゼルの唇を指でなぞりながら欲情した声を漏らす。
途端に背筋に悪寒が走った。自分は何を考えていたのか。男に何をさせるつもりだったのか。男の手を力任せに振り払うと、ジゼルはアパートを飛び出した。
街中をふらりと歩いているうちに、夜が訪れる。
橋の上に建ち並ぶガス灯の明かりが、下を流れる河に落ちて黒い水面を輝かせる。ジゼルは橋の欄干にもたれかかってそれを見ていた。
雪はやんだが空は厚い雲に覆われている。この雲の中にある月は今まだ半分ほど欠けているが、一週間後には満ちる。街を離れなくてはいけない。
しかしこれ以上、どこへ行けばいいのか。どこに行ってもひと月に一度、月は必ず満ちる。汚れた自分は変わらない。人のぬくもりに飢えている。気づいてしまったその望みは消えるどころか、強くなる一方だ。
そして望みを満たしてくれるのは、あの白髪の男ではない。
誰でもいいわけではない。欲しいのはアッシュの深すぎる愛情と包容力だった。
記憶をなくしていた時の『ジゼル』はアッシュが好きだった。このジゼルも同じだ。やさしく撫でて欲しい、抱きしめて口付けをして欲しいと思っている。
あの『ジゼル』が三ヶ月という時間で、アッシュへの想いを育ててしまったのだ。なんのしがらみにも囚われず、無防備にアッシュの愛情を全身で受け止め、その心地よさを真髄に根づかせてしまった。
忘れることなどできない。アッシュは口付け一つで不安を鎮めてくれる。抱きしめて、何も考えられなるほど幸せを感じさせてくれる。その彼に必要だと言われた。
ジゼルは外套の胸元を握り締めた。痛い。アッシュへの想いが胸を刻々とえぐっている。いっそ喰い尽くされて心が何も感じなくなればいいのに、それは生傷を作り続けるだけ。
その時、いきなり後ろから肩に手を置かれた。
夜の橋の上に人通りは少ないが、まったくないわけではない。さっきから人が後ろを行き交っているのは知っていたが、背後に立たれたのは知らなかった。
触れられるまで気づかなかったのは、他のことに気を取られていたからだろう。胸を押さえるジゼルの姿を見て、気分が悪いのかと心配したのかもしれない。
ジゼルは肩に置かれた手を振り払った。しかし背後に立った人物は立ち去ろうとしない。
横目で橋の上を見ると、ガス灯の明かりに作られた影の大きさで大柄な男だと分かった。
湿った風の匂いに混じって彼から独特な匂いがしてくる。ジゼルがよく知っている、薬草のような――
そんなわけがない。馬鹿な考えが浮かびそうになり、ジゼルは思考を断って口を開いた。
「俺に関わらない方がいい」
「そういうわけにはいかない」
即座に帰ってきた声に呼吸を忘れた。
その声を知っている。望むあまり、幻聴を聞いたのか。鼻をくすぐるこの匂いも幻なのか。
彼がここにいるはずがない。しかし視界の端ではためいたのは、見覚えのある外套。
「顔も見せてくれないのか?」
深い静かな声。ためらいと不安を隠しきれないその声。再び聞こえてきたそれを、幻聴だと無視することはできなかった。
無意識に開いたジゼルの唇から震える白い息が漏れていく。
「ア……シュ……?」
その声は自分のものではないと思うほど掠れていた。
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