三章(5)
アッシュが部屋に入ると、彼はいつものようにベッドで眠っていた。
傍らに腰掛けるとベッドがゆるりと沈み、上を向いていた彼の顔が枕の上で横に倒れた。
月のように白い頬をしている。彼は月を嫌うが、その容姿からは月の美しさや妖しさと同じ印象を受ける。白い布団やシーツの中にいても彼の肌の白さは特別で、それ等に入り交じらない。アッシュは眩しさに目を細めた。
彼の瞼と唇は閉じられたままだった。今にも開きそうなのに、それは叶わない。
「ジゼル……」
名前を呼んでも反応がないことは、十分に知っていた。
ジゼルはあの日から一度も目覚めていない。
眠っているだけだ。生きている。しかしあれからいくつも季節が変わっている。このまま永遠に目を覚まさないのだろうか。
アッシュはジゼルに手を延ばしたが、触れる寸前で手を引いた。固形物は受けつけないので口移しで水を飲ませている。一日に一度、体を拭いてやる。そういった必要な時以外、できるだけ触れないようにしていた。
やるせなくなる。なぜこんなことになったのか。なんの力がジゼルに働いているのか。
「リザ、貴方ですか?」
アッシュは窓辺に顔を向けた。問いかけたのは森に漂う霧だ。
この霧はアッシュの兄、アッシュが殺した人狼の魂が姿を変えたもの。
人狼はきわめて月に近い存在。月に寵愛され、その愛情の証として瞳に月の力を授けられたとアッシュの生まれた時代に信じられていた。彼等は満ちた月から降り注ぐ多大な愛情を持て余し、狂気を引き起こすと。
彼等に潜む秘密を人は知らない。想像もつかないことをやってのけても不思議ではなかった。現にアッシュに殺された人狼の魂は、霧となってアッシュをこの森に閉じ込めた。
「これが罰なのか?」
最近、思いはじめた。これが兄を殺した自分への罰ではないのか。
同胞で同じ苦しみを知る兄が、ジゼルの傷ついた心を眠りに落として守っている。それと同時に自分を苦しめようとしているのではないか。
愛する人を失う。これ以上の苦しみはない。それも目の前から姿を消すのではない。すぐ側にいるのに、彼の瞳に自分の姿が映らないのだ。いつか目覚めてくれるという期待と同時に、諦めと絶望が胸に渦巻いている。まるでなぶり殺しにされているようだ。
はじめにジゼルを屋敷に招いたのは、同じ人狼である彼に何かしてあげたいという罪滅ぼしの気持ちからだった。殺した人狼の話をしたのは懺悔。それを聞いてもなお訪ねてきてくれる彼を、何が起きても守ろうと強く思った。
それがジゼルからもらった生きる喜び。長い間、孤独に気づかないようにしていた。何も考えず、何も感じないように日々を淡々と過ごしてきたが、彼と出会って忘れていた人の感情が蘇った。愛することを思い出せた。
飢える人狼の運命に翻弄されているジゼルを、浅ましいとは思わない。同情していた。支えてあげたい。たとえ彼が誰の救いも必要としていなくても。
しかし感情の行き場は閉ざされ、毎日、目を覚まさない彼を眺めていなくてはならない。
「私は君の声が聞きたい」
アッシュは少しだけだと自分に言い聞かせながらジゼルの手を握り、そこに額を当てた。
そして更に時間が流れた。
早朝だった。
いつものようにアッシュがジゼルの眠る部屋へ行くと、ベッドに彼の姿はなかった。
なぜ根拠もなく、彼がそこにいると思ったのか分からない。しかし屋敷の中を捜さず、すぐに外に飛び出して向かった先にジゼルは確かにいた。
湖だ。そこははじめてジゼルと出会った場所。兄を葬った場所でもあった。
ジゼルは湖畔に自分の足で立ち、霧の中に視線を泳がせていた。まるで霧の中にいる何かを感じているように。
ようやく目覚めてくれたと胸を撫で下ろしたのは一瞬だ。違和感を覚えた。
長い間、瞼に隠されていた赤い目には、以前の鋭さがない。今にも砕けて壊れてしまいそうなほど儚く見えるのはなぜなのか。その肩が、その腕が、硝子細工のように感じる。
「私が……分かるか?」
両肩を支え、恐る恐る尋ねてみても反応がない。焦点の定まらない目をゆらりと動かしただけだった。その赤は寒気がするほど澄んでいる。無垢な赤子のように。
おそらく長い間、眠っていたせいだ。徐々に回復していくだろうと思った。
その後、予想通りにジゼルの意識ははっきりしていった。
しかし彼が知っているのは自分の名前だけだ。
記憶がなかった。ジゼルは自分が人狼であることも、満月の夜に飢えて我を忘れることも知らない。そしてアッシュのことも何一つ覚えていない。
忘れられたことに寂しさを感じるよりも早く、喜びを感じた。
ジゼルは自分だけのものになったのだ。彼はもうどこにも行かない。
ある日、ジゼルの髪を撫でているうちに、もっと触れてみたくなった。抱きしめ、口付けをして、それでも足りなくて半ば強引に体を重ねた。
変態とののしられたが、ジゼルは本気で拒んでいない。必死に熱を受け止めようとする姿は快感が欲しいというより、抱かれることで安心したがっているように見えた。
記憶がないジゼルは、漠然とした不安を抱えている。それでいて失った記憶に血の臭いが染みついていることを察していて、誰かに支えて欲しいと思っていた。身を任せ、力強く抱きしめられることを切望していた。
無防備にすがりついてくる彼に、アッシュは日に日に溺れていった。彼に必要とされていることにこの上ない喜びを感じ、愛しくてたまらなくなっていく。
しかし夢を見ているのではないかと不安だった。
この子供のようなジゼルは、本当にあの『ジゼル』なのだろうか。
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