「……ゼル……ジゼルっ」
目を開くと、汗で額に張りついた髪をアッシュが払いのけてくれたところだった。
徐々に目の焦点が定まってくる。顔を覗き込んでいるアッシュが、心配そうに眉を寄せているのが分かった。
ここはリビングではない。ジゼルはベッドの上にいた。
辺りはほのかに明るい。窓の外では、霧がいつも通りに居座っているのが見える。
聞けばもう夕方に近い時間らしい。昨夜はあのままリビングで眠ってしまい、半日以上も目を覚まさなかったようだ。
「さっきまでひどい熱があったんだ。だいぶ下がったようだが、まだ安心できない」
全身にじっとりと汗をかいていた。それは熱のせいなのか、夢を見ていたせいなのか。
夢を見ていた。誰もいなくなった孤児院――物心ついた時から生活してきたそこでジゼルは一人で呆然と立ち尽くしていた。
昨日まで人として生きてきたのに、自分の体のどこを見ても狼だった。黒い全身は血に塗られ、口の中にまでその臭いと味が広がっている。辺りに転がっていたのは無残に食い散らかされた死体。孤児院で共に生活をしてきた人達だった。
なぜ姿が狼になってしまったのだろう。自分に何が起こったのか分からない。
しかし記憶がかすかに残っていて、この惨状を作ったのは確かに自分だと分かっていた。
悲しいよりも怖かった。今まで生活を共にしてきた人達の恐怖を刻んだ目が、瞼の裏に焼きついて離れてくれなかった。
あれがはじめて飢えて我を忘れた時。アッシュと出会ったのが五年前、それから更に十年ほど前のことだ。背中にのしかかる恐怖に押しつぶされそうになりながらも、あれからのうのうと生きてきた。
横になったままぼんやり窓の外を見ていると、ふとアッシュの視線に気がついた。
彼はジゼルの全身をやけに楽しそうに眺めている。ジゼルは上半身にだけ服を着ていた。下着こそつけていたが、怪我をしているのでズボンを履いていない。
「改めて見ると卑猥な恰好だな」
ジゼルが気づくのを待っていたようにからかってくる。睨むとアッシュは唇を歪めた。
何事もなかったように、彼は振る舞っている。
ジゼルは窓の外へ視線を泳がせた。
「昨日の夜、はじめて生き物を襲っている途中に我に返って……」
唇から言葉が勝手にこぼれていく。
「朝になって我に返った時の自分の姿より、ずっと、ずっと……おぞましくて」
「ジゼル」
ジゼルのたどたどしい言葉の語尾を、アッシュが怪訝な声ですくい取る。
自分は何を話そうとしているのか。なんのために。
「でもはじめは普通の人と変わりなく生きてた。俺は自分が人だと疑わないで。でも……」
「話さなくていい」
今度は強い口調でさえぎられた。ジゼルは口をつぐみ、自分の服の端を小さく握った。
罪の告白をしようとしたのは、告白を聞いてもまだアッシュが愛情を向けてくれるか、確かめたかったからだと気がついた。
しかしそれこそなんのためか。分かっている。今のアッシュは、たとえジゼルがどんな残虐な行為をしてきたと告白しても愛情を注ぐ。
「君を咎める気はない。君が辛いなら、昨夜見たことを私は忘れる。過去を追求するような真似もしたくない。君はただ、今までのように森へ来ればいい。霧で月が隠れたここに」
アッシュは静かに語りかけてくる。
しかし彼がやさしいのも守ってくれたのも、ひとえに孤独だからだ。孤独な彼は、側にいてくれるなら誰でもいい。ジゼルのような面倒な存在でも手放したくない。
その感情が長く続くとは思えない。危険と負担が大きすぎる。
この先、満月が浮かんだ夜、アッシュはどんな思いでジゼルを屋敷から送り出すつもりなのか。昨夜のようなことがまた起こったら、彼は同じことを繰り返すのか。そしていつかアッシュが自分に罪を感じた時、ジゼルをどう思うだろう。
ずっと愛されていたい。アッシュに冷たい目で見られる日が来るのが嫌なのだ。
人でいたい。いや、狼でもかまわない。飢えて我を失わなければどんな姿でもいい。たとえ人狼として生まれてきても、月に狂わされない心を持っていたかった。
ジゼルは枕を抱きかかえ、そこに顔を埋めた。
ここを出ていき、早く愛されたいという望みもアッシュのことも忘れた方がいい。
(そんなの嫌だ……)
一度、気づいてしまった人のぬくもりの心地よさを、手放すのは難しかった。気づいたのはほんの少し前なのに、気づく前の自分がひどく遠い。
もう生き物を殺したくない。愛されることに不安を持たず、無邪気に幸せに溺れたい。
そんなものは遠い幻想だ。
「霧が入ってきたな」
その声に視線を上げると、アッシュがわずかに開いている窓を閉めようとしていた。
言われてみれば空気が湿っている。視界は仄白くぼやけている。うっすらと霧が室内に漂っていた。
本当に何事もなかったように、森はいつも通りの姿を見せている。
なぜあの時、悪戯に晴れたのだろう。恨めしいが憎みきれない。肌にまとわりつく霧は冷たいがひどくやさしく、穏やかだった。
これはかつて飢えて人を襲い、アッシュが殺した人狼の魂。ジゼルと同じ存在。
そのせいなのか。霧は全身にのしかかるこの苦しみを、知っているような気がする。錯覚なのかもしれない。なぜか懐かしい。なぜか慰められているような気がした。
声など聞こえてくるはずがない。それなのにすっと頭を通り抜けた言葉があった。
何も心配しなくてもいい。アッシュなら――
(そんなこと、分からない……)
これは自分の望みが聞かせた、浅はかな幻聴。
悲観すると、更に霧を肌に感じた。まるで無数の手が全身を撫でているようだ。表皮を貫通して真皮に触れるそれに一瞬、肌が粟立ったが、くすぶる熱を持つ傷口が気持ちいい。
急に眠くなってくる。瞼がひどく重い。抗うことなくジゼルは目を閉じた。
眠りから覚めたら、すべて忘れていればいいのにと願いながら。
|