三章(4)
大気は白み、月の気配が遠ざかっていく。晴れていた霧も、元に戻りはじめていた。
振り子時計の音がリビングに響く。
布にくるまるジゼルは、人の姿で裸だった。膝を抱えて座り、目は揃えた二つの白い膝をぼんやりと見つめ、耳はただただ時計の音を追っている。
何も考えられない。地下から一階へ上がってくると浴室に連れ込まれ、人の姿になるように言われた。そこで血で汚れた体を洗われている間も、ずっと呆然としていた。
ふと時計の音に戸の閉まる音が混ざる。顔を上げてみれば、薬と包帯を手にしたアッシュが部屋に入ってきたところだった。
アッシュは近づいてくると膝をつき、ジゼルの体をくるんでいる布をそっと奪う。
「ひどいな」
彼が眉をしかめて見ているのは、右の太腿にある銃痕だ。溢れ出るほどではないが、まだ血が滲んでいる。くるまっていた白い布をまだらに染めていた。
そういえば怪我をしていたのだ。痛みも忘れていた。
「他に見られた人間はいないな?」
何気ない声でアッシュが聞いてくる。
夢を見ていたのでは、と思いはじめていたところだ。しかしその言葉にさっきのことは現実だったのだと思い知らされた。飢える姿を見た人間が他にもいると言えば、この男はその人を抹殺するのだろうか。
ジゼルのために。
アッシュの手が伸びてきて脚に触れる。そこは怪我のせいで過敏になっていたようだ。ジゼルは無意識に体を大きく震わせてしまった。
「私が恐ろしいか?」
アッシュが自嘲気味に笑う。ジゼルが首を横に振ると彼は表情を緩め、消毒液を浸したガーゼで傷口を拭きはじめた。
あれが魔術というものなのか。一瞬で人を肉塊にしたあの力に、背筋が震えた。しかしアッシュを恐ろしいとは感じない。他でもなく、ジゼルを思っての行動だ。
「出血は多いが、思ったほど深くないな。大丈夫だ。すぐに走れるようになる」
怪我の程度を確かめながらアッシュは嬉しそうだ。
何を考えているのか。彼はジゼルが満月の夜に飢えることを、はっきり知ったはずだ。
あの時、アッシュに殺されると思った。しかし彼はジゼルを助けた。人を殺めてまで。
「俺が……やらせてしまった」
「君の負担にするつもりはなかった。私が、私の意志でしたことだ」
小さな声を漏らすと、アッシュは治療の手を止めずにさらりと返してくる。
罪のない人を抗う余地も与えずに殺した。それを彼は自分の意志でしたと言い切る。
何が正しいのか分からなくなってくる。ずっと自分の心を守るために、罪の意識から逃げてきた。それを続けるうちに頭がおかしくなってしまったのか。
人を殺めるのは恐ろしいことだ。
しかしアッシュが男達を殺めてまで助けてくれたことが、嬉しいと感じている。
「傷が癒えるまでここでゆっくりするといい。強要するつもりはないが望むなら、ずっと。知っていて欲しい。おそらく私は誰よりも君を守れる力を持っている。何が起きても……」
アッシュは傷口に視線を落としたまま、ためらいがちにそこまで言うと口をつぐむ。その後はもくもくと治療を続けた。
彼はここまで孤独だったのだ。ジゼルの罪を目の当たりにしても、まだ側にいて欲しいと思うほどに。
以前、アッシュは人狼を殺した自分の罪を告白した。あれは牽制ではなく、ただの昔話でもなく、試したのだろう。ジゼルがそれを知っても、ここを訪れてくれるかと。そしてジゼルはここへ来続けた。
しかしジゼルも同じだ。自分も孤独だったのだと、殺されると思ったあの時に気づいた。
この森を訪れるのは、アッシュに会いたかったからだ。ここに来れば撫でてもらえるし、やさしくしてもらえる。ずっと人を避けて生きてきたが、本当は寂しかった。
気づいてしまった望みが胸を締めつける。
(愛して……欲しい)
肌の下でざわざわと、虫が這いずり回るような悪寒がした。言い知れない喜びと安心、そして恐怖が胸に押し寄せる。
「痛かったか? あとは包帯を巻くだけだ。すぐ終わる」
思わず身震いして絨毯に爪を立てると、アッシュが労るように患部の周りを撫でさする。
「ジゼル?」
それでもまだ唇を噛み締めるジゼルの顔を、彼は覗き込もうとしてくる。
しかし何かに気づき、アッシュは戸の方に顔を向けた。
さっきから血臭がジゼルの鼻を掠めている。それは地下室から漂ってくるものだった。
じわじわと建物全体に染みついていくそれは、獣の発達した嗅覚だけが感じているものではなかったようだ。アッシュは包帯を巻き終えると無言で立ち上がり、戸へ足を向ける。ジゼルがうつむいたのはその臭いのせいだと思ったのかもしれない。
片付けに行くのだろうか。
行かないで欲しい。
その願いを口の中で噛み殺した。
アッシュが部屋を出ていく。足音が遠ざかっていくと、ジゼルは寝転がって目を閉じた。
居場所と愛情。ジゼルの心がずっと密かに欲していたものを、アッシュは与えてくれる。
しかし素直に身を委ねられない。なぜだろう。愛して欲しいと思うのと同時に、愛されることに恐怖を感じた。
ジゼルはゆっくりと唾液を飲み込んだ。その中には、まだ血の味がほのかに残っている。
(そうだ……俺は血で汚れてるから)
答えは簡単だった。
孤独に気づかないようにしてきたのも、自分を守るためだ。気づけば、誰かに孤独を埋めて欲しいと望んでしまう。しかしどんなに望んでも愛されるわけがない。
アッシュもいつか、こんな浅ましい生き物に愛情を向けるのをやめる。
ジゼルは閉じた瞼を更にきつくつぶった。
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