獣が眠る

 

 

 どれだけの距離と時間を走っただろう。怪我を負った脚はほとんど感覚がなかった。他の脚も痺れてもう走れない。ふらつきながらなんとか前へ前へと進むうちに、やがて木々の間に廃虚のような屋敷が覗いた。
 後ろを振り向くと、脚から流れた血が点々と地面に落ちていた。もう銃声は聞こえてこない。追ってくる男達の足音も遠かったが、血の痕が道標になっているようだ。確実にこちらへ近づいてきている。
 扉を開けて屋敷に入ると、ジゼルは呼吸を整えた。
 余力を振り絞って一階を見て回ったが、研究室にもリビングにもいない。二階にある寝室に向かおうとした時、地下から物音が聞こえてきた。
 地下へ降りていくと、捜していた人はそこにいた。仄暗い光を放つランプを足元に置き、薬の瓶を棚へ並べている。
「早いな。戻るのは朝だと思っていたが」
 ジゼルの気配に気づいたアッシュが、背中を向けたまま話しかけてくる。
 ふと不思議に思った。なぜさっきから何も考えず、アッシュの姿をひたすら捜していたのか。彼の姿を見ただけで、張り詰めていた糸がすっかり緩んでいるのもなぜだろう。
 ジゼルはぺたりとその場で伏せをした。もう大丈夫だ。脚の怪我もアッシュが治してくれる。きっとひどく心配そうな顔をしながら、丁寧にやさしく。
 そう思うと丸まっていた尾の力が無意識に抜けていく。瞼も重くなってきた。もうすぐ男達が血痕をたどって屋敷まで来てしまう。まだ眠るわけにはいかないが、一度安心しきってしまった体が言うことを聞かない。
(大丈夫。アッシュがあいつ等からかくまって……)
 そんなはずはない。

 ぼやけていた頭がすっと澄み渡った。
 体から白い床に鮮血が広がっていく。怪我から流れる自分の血だ。しかし口と胸、前脚や腹部にかけての広範囲にこびりついている血は、明らかにジゼルのものには見えない。
 地下室は暗い。しかしアッシュの足元に置かれたランプのわずかな光が、ジゼルの本性を隠してくれなかった。
 なぜアッシュの屋敷に逃げ込んでしまったのか。男達の目から逃れたい一心でいるうちに、なぜかアッシュが助けてくれると信じて疑わなかった。
 絶対にしてはならないことだった。自ら明るみに出してしまった。せっかく飢える人狼であることに、目をつぶってくれていたのに。
 棚に薬瓶を並べ終えたアッシュが振り向く。ジゼルは微動だにできず、ただただ彼を凝視していた。
 顔を強張らせたアッシュは気づいたはずだ。この血にまみれた姿の理由に。
 アッシュは驚きのあまり声も出せず、ジゼルを見つめている。彼の目がさっきの男達のように嫌悪を刻むのは、おそらく時間の問題。
「いたぞ!」
 その時、地下室に男達が入ってきた。銃を向けられたが、もう逃げる気力は残っていない。
「あんた大丈夫か? こいつは人に化けるんだっ。今も鹿を襲って……!」
 男達が吐き捨てる。ジゼルがアッシュを襲おうとしているように見えたのだろうか。彼等はアッシュをかばうようにジゼルの前に立ちふさがった。
 その間もアッシュは彼等を一瞥もせず、ジゼルをひたすら見つめていた。
 アッシュの唇が徐々に開いていく。
「今日は満月だったな」
 その声はひどく悲しげ。同情を含んだ声だった。
「この目で見ない限り、君のそれに触れる気はなかったんだが」
 やはり明るみに出るまで、見過ごしてくれていたのだ。
 しかし今、はっきりと知ってしまった。もう飢える人狼を放っておくわけにはいかない。
「なに言ってんだ? まあ、いいや。おい、頭を狙え。他は傷つけるなよ。化け物でもそれだけ立派な毛並みだからな。高く売れるぞ」
 男の一人が下卑た笑いを浮かべる。

 次の瞬間、アッシュはすっと目を細めた。
 即座に地下室の淀んだ空気が凍りつく。アッシュの顔に浮かんだのは、ひどく冷たい表情だった。凪いだ瞳の漆黒はいつも以上に深く、威圧感を放つ。そこに静かすぎる怒りと決意を感じる。同情はもう微塵も残っていない。
「ジゼル、目を閉じて耳をふさいでいるんだ」
 すぐに終わる、と続けたそれは、苦しませずに命を奪ってやろうという情けだろうか。
 殺される。
 瞬きもできない目の奥が熱く痛い。
 アッシュに本性を隠してきたのは、殺されたくなかったからではない。蔑まれるのが嫌だった。彼の眼差しが、今のように冷たく変わるのが怖かった。
 たった今、気づいた。アッシュがジゼルのすべてだった。
 しかし気づくのと同時に、そのすべてを失った。
 月が見えないのはジゼルにとって都合がいいが、それだけではこの森にここまで執着しなかった。何度も繰り返し森に来てしまったのは、アッシュがいるからだ。
 ずっとあらゆるものを警戒しながら一人で生きてきた。人も獣も怖いのだ。自分は浅ましい獣で近づけば怯えられる。嫌悪され、冷たい目で見られるのなら一人でいた方がいい。
 しかし本当は寂しかった。ぬくもりを求めていた。
 だからここに来て、アッシュに撫でてもらうのが嬉しかった。

 アッシュが右手をゆるりと動かす。途端にそよ風がジゼルの体を通り過ぎた。
 明かり取りの窓もない地下室に、風が忍び込んでくるはずはない。しかし気のせいではなかった。どこからともなく吹いてくる風が、アッシュの気迫に息を呑んでいる男達の服をはためかせ、次いでアッシュの足元にあるランプの火を揺らす。
「不運にも君達は森で迷った……そして二度と帰らなかった」
 アッシュの言葉はジゼルに向けられたものではなかった。
 誰に、何を言ったのか。
 考えている時間はない。アッシュが地を這うような低い声でその言葉をつむぎ終えたのと同時に、青白い風が宙を駆け抜けた。
 細く鋭いそれは凶暴な刃。容赦なく有形のものを打ち据えるムチのようにも見えた。
 棚を破壊し、整然と並べられていた薬瓶が次々と床に落ちる。硝子が粉々に砕ける音すら鋭い風音にかき消されていく。
 ランプの火が消され、辺りに闇が広がる。それでもジゼルの暗所に適した目は、地下室で起こっている出来事を一つたりとも逃さずに映していた。
 ひどく長く感じた。しかし実際は一瞬だったのかもしれない。
 風が治まっていく。残ったのは、耳が痛いほどの静寂。かすかに漂い残る凶暴さを失った風が、やさしくジゼルの頬を撫でる。
 その風の中に血臭がしていた。それは自分の体から臭うものより真新しく、濃い。
 天井、床、壁、辺り一面に鮮血が飛び散っている。
 あの風が男達の体を、一瞬にして引き裂いた。悲鳴を上げることもできずに切り刻まれた肉は、たちまち白い床を赤く染めた。誰一人として人の形を保っていなかった。
 しかしジゼルは無傷だ。
「目を閉じているように、言っただろう?」
 声が上がった方向に顔を向け、ジゼルは見開いた目でこの光景を作った男を凝視した。
 血飛沫がかかったアッシュの顔に浮かぶのは、この場に不似合な穏やかな笑み。向けられているのは慈しむような眼差し。
 彼の漆黒の瞳には、ジゼルしか映っていなかった。
 

 

 

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