三章(3)
その光景に色はなかった。音もない。
草影から人の形をした獣が鹿に飛びかかり、喉を噛みちぎる。やわらかな肉にむしゃぶりつき、溢れる血を舐め取る姿はひどく嬉しそうで、慣れていた。
別の生き物が近くにいる。ふとそのことに気づいた獣は、顔を上げた。
すぐさま目に映ったのは、銃を手にした人間の姿。
逃げろと本能が叫ぶ。しかし別の思考が獣の頭に流れ込み、動きを鈍らせた。
満月の夜の記憶はあやふやになる。進んで思い出そうともしない。そうやって自分の罪から目を背けてきた。
しかしなぜ今、見ているこの光景はやけに鮮明なのか。
音のなかった世界に銃声が轟く。一瞬にして、視界が深紅に染まった。
時々、霧は晴れた。
ジゼルがはじめて森へ来た頃から、たまに晴れるようになったとアッシュは言う。霧となった人狼の怒りが鎮まりつつあるのだろうか。
晴れるのは数時間程度だ。霧が晴れて月が見えても、ジゼルが森にいるとは限らない。その日が満月と重なる確率も低い。森に通うこの五年間、そんな事態には遭遇しなかった。
今夜がはじめてだ。
何かが爆発した音が鼓膜を震わせていたが、音は徐々に遠ざかっていく。
辺りは血の海。気づけば人の姿をしたジゼルはそこに手をついていた。
ジゼルの下には全身をひくひくと痙攣させている鹿がいる。鹿の喉は無残に噛みちぎられ、赤い液体がとめどなく涌き出ていた。
体はまだほのかにあたたかいが、呼吸はほとんどしていない。目は淀み、まるで生気が感じられない。ただただ死の訪れを待っている。
ジゼルの唇から溢れ、顎から喉を伝い、服をじっとりと濡らしている生あたたかい液体も赤色をしていた。口の中の中に充満する臭いと味は、生々しい血と肉のもの。
ジゼルは怯えを浮かべた目を大きく見開いた。
(俺が……)
覚えがなくても襲ったのは自分だ。
はじめてだった。自分が獲物を襲っている場面を見るのは。まだかすかにあたたかい獲物が、死にいく姿を見るのは。
飢えが途切れたことはない。曖昧な記憶は残っているが、こんなにも残酷なものとは知らない。朝になり、我に返ってから覚えるおぞましさとは比べものにならなかった。
ジゼルは夜の森にいた。森には霧がなかった。枝葉の間から覗く空には満月が浮かび、ジゼルを嘲笑うように白い光を煌々と放つ。
夕食後に眠気が覚め、霧の森を駆け回ろうと屋敷を出た。その後の記憶がない。霧がいつ晴れたのかも分からない。
この鹿が今日、最初の獲物だろうか。どこかで別の獣か人を襲ったのではないか。
夜が明ける前に我に返ったのは、脚に走った激痛のせいだ。
右の太腿の皮膚が、ぱっくりと割れている。そこが焼けるように熱い。だくだくと溢れて足元に湖を作っている液体は、鹿の血ではなく自分のものだった。
ふと視線を上げると、少し離れたところに青ざめた男が立ち尽くしている。
彼は硝煙の立ち上る猟銃を手にしていた。
「さっきの鹿を仕留めたのか? ホント、逃げ足の速いヤツだっ……」
男の後方から、新たに複数の男が現れる。彼等も直ちに言葉を失った。顔を青ざめさせ、口を半開きにしたままジゼルを凝視した。
彼等もこの鹿を捕まえれば、食料にするつもりだったのだろう。しかし生きたままのそれの血肉を貪るジゼルの姿に恐怖し、全員が自分の目を疑っている。
この隙に逃げなくてはいけない。
それなのに動けない。怪我のせいではない。心が自分自身におののいている。
「ばっ……化け物!」
ジゼルを撃った男が震えた声で叫ぶ。その一言に正気づいた他の男達の目に浮かぶ恐怖が、みるみる憎悪に変わっていく。
凍えるような眼差しだった。
もし今のジゼルが狼の姿だったら、自然界で起きるごく普通の出来事として見てくれたかもしれない。自分達の安全のために銃を向けるかもしれないが、こんな目では見られなかった。
男達が猟銃をかまえる。銃口を目にしてようやく体が動き、ジゼルは走り出した。
背後で狂ったような怒声が上がる。静まる森に銃声が轟いた。
走りながら両手を地面につくと、次の瞬間、ジゼルはたちまち黒い毛皮に覆われた狼の姿になった。それでもいつもの速さでは走れない。地面を蹴るたびに膝の関節が抜け落ちそうになる。傷口がどくどくと脈打ち、血が溢れる。
ジゼルは歯を食いしばり、こみ上げてくる嗚咽を堪えた。繰り返し後ろから放たれる弾は掠めもしない。しかし追ってくる足音と銃声に急き立てられ、頭が真っ白になっていく。
姿を変えた時に血に染まった服は脱げたが、口元の血、全身の毛にこびりついた血は残っている。どれだけ走っても、鼻に臭いがまとわりつく。
男達の視界に入らないところまで早く逃げたい。それは殺されないためというよりも、彼等の目から逃れたい一心だった。
ジゼルの脳裏を占めるのは、さっきの男達の目の残像。汚らしいものを見る眼差し。憎悪と蔑みを刻み、ジゼルを排除することしか考えてない彼等の目が怖かった。
その感情を向けられるのは当然だ。それだけのことをした。
今更だ。今夜だけではなく、長年、こういうことを繰り返してきた。
普段から飢える自分を浅ましいと思っている。朝になって我に返ると、辺りに無残な獣の死骸が散らばっている。血で全身が赤く染まり、異様な臭いに目眩と吐き気を覚える。
しかしどこかでそれを仕方がないことだと諦めていた。飢えている時の自分は自分ではないと、言い訳しながら心を守ってきた。
しかし現実を見てしまった。たった今まで生きていた生き物が抗うこともできず、死の訪れを待つその姿。口の中に充満する真新しい血と肉の味。そして向けられた眼差し。
無我夢中に走りながら、助けを求めて繰り返し胸の中で一人の男の名前を呼んでいた。
助けて欲しいのは、この心の痛み。足を向けているのも彼のいるそこだった。
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