それから森には近づかなかった。
しかし不思議でならない。殺すつもりなら、なぜ一年も放っておいたのか。
こっそり様子を見に行くと、すぐに見つかってしまった。それでもアッシュは何事もなかったように迎え入れてくれる。開き直ってジゼルも何事もなかったように屋敷に滞在してみたが、彼は相変わらず研究室にこもっていた。
危害を加えてくる気配はない。再び人狼の話をすることもなかった。
さっぱり何を考えているのか分からない。しばらく様子を見ようとまた森に通うようになったが、様子など見ていないでただ近づかなければいい。
分かっているのにどうしても月が見えない生活が恋しくなり、森へ足を向けてしまう。
そんなことを繰り返すうちに、気づけばアッシュと出会ってから五年も経っていた。
リビングの戸が開き、アッシュが入ってくる。ジゼルは少し前に屋敷へ来たが、彼に顔を見せずにここで勝手に寝そべっていた。いつものことだ。
アッシュは窓辺で横たわっている狼に驚いたようだが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
「久しぶりだな」
そんなこともない。ここを前に出たのは、そんなに昔のことではなかった。
床に顎をつけたままアッシュを見ていると、彼は側に寄ってきて腰を下ろす。そしてジゼルの背中を撫ではじめた。
今ではこうされるのが普通になっている。訪れる回数を重ねるたびに、アッシュはよく近づいてくるようになった。狼の姿で寝転がっていると、必ずと言っていいほど撫でてくる。
しかし嫌ではない。アッシュに背中を撫でられるとやはり気持ちがいい。あまりの心地よさに、つい尾を振ってしまいそうになるくらいだ。
慣れ合うつもりはないし、警戒を解いているつもりもない。
彼は人狼がどういうものかを知っているし、かつて彼は人狼を殺した。
それでも五年経っても行動を起こそうとしないので、いけないと思いつつも彼に害はないと高をくくってしまっている。
「ちょうど今朝、ミルクが届いたところだ」
背中を撫でながらアッシュが言う。
自分は飲まないのに彼は数ヶ月に一度、近隣の村から他の食料と一緒にジゼルの好物のミルクを運ばせている。ジゼルがいつ来るか分からないのに。
ジゼルはアッシュの手を交わして立ち上がり、戸へ向かって歩きはじめた。
「どうした。もう行くのか?」
戸の前で立ち止まると、首だけを振り向かせてみた。
出ていくつもりはない。しかしアッシュは出ていくと思い込み「そうか」と呟く。なんでもないように装っているが、一瞬、瞳によぎった悲しげな色をジゼルは見逃さなかった。
最近、ようやくアッシュが何を考えているのか分かってきた。
彼はここへ来るのを強要しないし、なかなか来なくても文句を言わない。ジゼルが屋敷を出て行く時に引き止めたこともない。
しかし本当はジゼルが来ると嬉しいと感じているし、もっと頻繁に来て欲しいと思っている。出ていく時も引き止めたいと思っている。
口には出さないが、アッシュは孤独を感じている。当然かもしれない。三百年もの間、彼は一人で生きている。いつ訪れるか分からない、霧が完全に晴れる時を待ちながら。
しかし自分の気持ちがジゼルの負担になるのが怖い。しつこくすれば嫌われ、二度と屋敷に来なくなるのではないかと恐れている。だから本心を出せないのだろう。
孤独な彼は、時々しか訪れないジゼルのような存在でも手放したくない。一人での日々を延々と送るよりはましなのだ。
それが満月の夜に飢える人狼であってもかまわない。目をつぶる。殺した人狼の話をしたのはおそらく牽制。知らないふりをしているのだから、自分にそれを見せるなという。
彼が求めているのは、ジゼルが側にいること。ジゼルは月が見えない生活を送りたい。
利害は一致していた。
ジゼルはアッシュの側には戻らず、暖炉の前でうつ伏せになった。しばらくするとアッシュが何気なく近づいてきて、また背中を撫ではじめる。ジゼルが今すぐ出ていかないと知って、心の底から安心したようだ。眼差しにひどく穏やかであたたかいものを感じる。
月は見えない。背中は気持ちいい。そういえばミルクもあると言われた。
ここは本当に居心地がいい。今までどこで寝ていても、かすかな物音がしただけで目覚めてしまっていた。しかしここではよく眠れる。唯一、安心できる場所だった。
満足して息をつくと、ジゼルは無意識に尾を振っていた。
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