三章(2)
アッシュと出会ってから、一年が経つ。数えてみれば、森に来るのは三回目になっていた。
森に来ると夜は外を駆け、日中は屋敷のリビングでごろごろとする。今もジゼルは狼の姿でリビングの絨毯の上で眠っていた。
ここはいい。絨毯はやわらかいし、暖炉もある。その上、今は背中がひどく気持ちいい。
何かが背中を撫でている。首のつけ根からはじまって腰までいくと、一度離れてまた首のつけ根から撫でていく。毛を逆立てないように、ジゼルの呼吸に合わせてゆっくりと。
あまりの心地よさに、思わず絨毯に顎をこすりつけた。
「可愛らしいな」
何が可愛いのだろう。
まだ背中を撫でられている。さっきから室内には時計の音が響いている。
ふとその音に混じって、紙がこすれる音が聞こえてきた。本のページをめくる音だ。
誰かが側にいる。たった今、可愛いと言ったのは人の声。ようやく近くにいる生き物の気配に気づき、ジゼルは慌てて目を開けた。
今日もアッシュは朝から研究室にこもっていた。その彼が横に座り、ジゼルの背中を片手で撫でながら本に目を落としている。ここに来たのはだいぶ前なのだろう。すっかりくつろいでいる。
だとしたら、自分は人の側で熟睡していたということになる。何かの間違いだ。
辺りは暗くなりつつある。暖炉の上の蝋燭の小さな火が、ひどく明るく感じる時間帯だ。
夜行性のジゼルは、いつもこの時間はまだ寝ている。しかし熟睡はしない。どこにいてもそうだ。近くで生き物の気配がすれば、必ず目を覚ます。草木が風に吹かれ、かすかな音を立てただけで覚めてしまうほど眠りは浅い。
それなのにいつアッシュが部屋に入ってきたのか知らない。触れられていることに気づきもせず、心地よいとまで思っていた。
「いい夢でも見てたのか? 尾が揺れていたぞ」
ジゼルが目覚めたことに気づいたアッシュが、本に目を落としたまま追い打ちをかける。
尾まで揺らしていた。それはおそらく撫でられるのが心地よくてしていたこと。
ジゼルの動揺に気づいているのか、いないのか。アッシュはまだ背中を撫でている。その撫で方は強くもなく弱くもなく、認めたくないがやはり気持ちいい。
(なに考えてんだ、俺は)
ジゼルは立ち上がってアッシュの手から逃れた。窓辺まで歩いて行き、立ち止まると首だけ振り向かせて彼を睨んだ。
今までこんなふうに触れてきたことはなかったのに、いきなりどうしたのか。
世を捨てて森に閉じこもっている彼は、ジゼルになど興味がないのだと思っていた。いても、いなくてもかまわない。だから屋敷に来ても放っておかれる。そんなふうに結論づけて何度か屋敷に来ているうちに、警戒心が薄れていたのかもしれない。
慣れ合うつもりはない。もっと気をつけなくてはいけない。
アッシュが本を閉じて涼しい顔を向けてくる。睨んでいても、彼は気にも留めていない。
そういえば可愛いと言われた。時々やってくる野良犬のように思われているのだろうか。
あまり気分のいい話ではない。それなのに、さっきまで撫でられていた背中が物寂しい気がするのはなぜなのか。
もう一度くらい撫でさせてあげてもいい。しかし自分からアッシュの側に戻るのは嫌だ。
ジゼルは憮然としながら、その場で伏せをして瞼を閉じた。
「また寝るのか?」
寝るつもりはないが、まだ外に出ていく気にもなれない。
「ちょうどいい。寝物語を聞かせてあげよう。月から生まれてくる獣の話などどうだ?」
月から生まれてくる獣、それは人狼のこと。
「三百年ほど前の話だ。もし興味がないとしても……そうだな、聞いて欲しい」
ぴくりと耳を動かして目を開けると、アッシュがすかさず小さく笑う。
しかし反応してしまうのは仕方がない。自分以外の人狼の話は、出会った時からいつ話してくれるかと心待ちにしていたものだ。それにつられて屋敷までついてきたと知られるのが嫌で、自分から尋ねようとはしなかったが。
「当時、精神の病で凶暴化した者を『狼に憑かれた』と言い、それを人狼と呼ぶことがあったが、君達のことではない。前にも言ったが、広く知られていたわけではない。しかし知っている者はいた。その姿を見かけた者も多くはないが、少なくもない」
子供に昔話を聞かせるような、ゆっくりとした口調でアッシュは語る。
「先天的に狼への変身能力を持つ人なのか、人への変身能力を持つ狼なのか。どちらにせよ『月の力と下界の生命が、何らかの理由で同調した時に生まれる魔物だ』と、本当の人狼を知る者の中では信じられていた」
そこまで続けると、アッシュは過去に思いを馳せるように夜闇に呑まれた部屋の隅に視線を向けた。
「私も詳しいわけではない。話せるのは一人の人狼のことだけだ」
その声は急に低い。アッシュの周りにいつも以上の静けさが漂う。いつもに増して深い漆黒の目、ゆるりと蝋燭の影が揺らめく横顔。ふと彼に潜む歳月を垣間見た。
なぜだろう。背筋が寒い。背中を撫でてもらえないからではない。
聞きたかった話だ。しかし落ち着かない。
「当時は『人狼は災いをもたらす』とも信じられていた。見つければすぐに殺すのが習わしだが、あの人は幼い頃に物好きな男に拾われて育てられた。人と何も変わらない。いや、人よりやさしい。笑みをたやさない頭のいい人だった……少々、おせっかいではあったが」
一瞬、アッシュは苦笑した。
しかしその笑みが消えると、彼はいっさいの表情を失った。
「人狼は夜になると、人や家畜を貪り食うという。見つければすぐに殺すのはその『災い』を避けるためだ。そしてあの人も……やはり月を見ると落ち着かなかった。月が人狼の狂気を引き起こす。月を見ると幼い頃は何かに怯え、家中の壁を引っ掻き傷だらけにするくらいだったが。ある満月の晩、ひどい飢えに我を失った」
同じだ。
「人も家畜も、目に入ったものはすべて食い散らかしたようだ。凄まじい光景だった。誰もが逃げ惑うが、あの人の俊足に敵う者などいない。夜の街に血と肉が溢れ返り、あの人の耳には誰の声も届かない」
その光景は容易に想像できた。
「事態を収めたのは一人の魔術師、あの人の弟として育てられた人間だった。兄を飢えの苦しみから解放するためじゃない。変貌した兄をそれ以上、見たくなかった」
常にやさしい自慢の兄でいて欲しかった。
「だから殺した」
アッシュは表情を変えない。口調も静かで淡々としているが、そこで声に哀愁が漂った。
「その後、魔術師はあの人の骸を抱えて故郷を発ち、やがて静かな森を見つけるとそこに丁重に葬った……せめてもの償いだ」
月から生まれてきた人狼を月へ還すために、美しくそれが見える静かな場所に、魂を丁重に葬りたかったとアッシュは言う。
しかし魂は月へは還らず、森を覆う深い霧になった。
「殺された恨みがよほど強かったのか。霧となり、魔術師が森の外へ出るとどこまでも追ってきて四肢に絡みつく。結局、森に閉じ込められてしまった魔術師は、いつか人狼の魂の怒りが鎮まり、月へ還る日を見届けようと自らの時間を止めることを選んだんだ」
そこまで淡々と言葉を紡ぐと、アッシュは口をつぐむ。
話の中の魔術師とは、明らかにアッシュだ。閉じられた彼の唇を凝視しながら、ジゼルは手足の爪を絨毯に立てた。
物心つくと、ジゼルはすでに人と生活していた。自分を人だと疑わずに孤児院で育った。
幼い頃から月の光が怖く、どうにか逃れようと壁に爪を立てて回っていた。体の中に忍び込んでくるあの光は、ジゼルの意識を支配しようとする。
やがて支配に身を任せてしまえば、楽になることを知った。身を任せた後に残るのが、凶暴な飢えだと思うはずもなかった。
ジゼルが孤児院にいた生あるものを、すべて食い殺したのが十年ほど前の話だ。
あれから人に近づかず、一人で生きてきた。あれ以来、人は襲っていないと信じたいが、飢えている間の記憶はないので本当のことは分からない。
(アッシュは……)
この話をして、どうするつもりなのか。
聞くまでもない。人狼は人にとっても、獣にとっても、危険な存在。排除するしかないのだ。
今すぐ逃げなくてはいけない。しかしいきなり訪れた身の危険に、体を思うように動かせない。強張った足を奮い立たせようとしたが、その前にアッシュが立ち上がる。
しかし彼はジゼルを一瞥もしない。ジゼルがいる窓辺ではなく、戸の方へ足を向けた。
「人狼を殺した魔術師が、自分の罪を忘れたことはないが、彼はもう三百年も一人でこの世に生きている。さすがに生に疲れることもある。過去のすべてを忘れてしまいたいと、何度も思った。しかしこの一年ほどで彼は……」
生きる喜びを見出した、とアッシュは口の中で小さく続ける。
戸が開き、そして閉まる。足音がリビングから十分に遠ざかると、ジゼルは屋敷を飛び出した。
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