獣が眠る

 

三章(1)

 
 ――五年前

 深い霧が立ちこめている。静寂の針葉樹の森は濡れ、むせ返るような緑の匂いを放つ。
 夜闇は去り、辺りはほのかに明るい。しかし太陽は霧に隠されてどこにも見当たらない。
 水浴びのために湖に腰まで浸かったジゼルは、白い人の手を目の前にかざした。
 冷たい霧は肌を貫通して体の芯を震えさせるが、触れていると心が休まる。この霧のおかげで月が見えないのだから。
 ここは数日前に迷い込んだ森だった。長い間、人里に近づかず森や山を転々する生活を送っているが、この辺りを訪れたのははじめてだ。小さな集落を迂回しながら歩いているうちに、いつの間にか深い霧と針葉樹に囲まれていて樹海に迷い込んだことを知った。
 それ以来、森を散策していたが、こんな森は見たことがない。空をも覆う深い霧は一向に晴れる気配がなく、月は見えない。まるで月が嫌いなジゼルのためのような環境だった。

 ジゼルの理性は月に狂わされる。欠けた月を見るだけで落ち着かず、満ちた月を見るとひどい飢えを覚えて我を忘れる。そして生き物を襲い、血肉を貪る。
 それは人狼だからだろう。月から生まれるその魔物は残忍で、人や家畜を襲うという。
 人狼について知っているのはその程度。言い伝えや物語で語られる、大抵の人は絵空事だと真に受けないことばかりだ。
 実在する人狼にも会ったこともない。しかし人と狼の二つの姿を行き来できる、満月の夜に我を忘れて飢える。その現実を持つ自分はどうあがいても人狼だと認めざるを得ない。
 正直、狼の姿は嫌いではない。風を切り裂いて走る快感は人の体では味わえないものだ。
 ただそれなら心まで獣であればよかった。満月の夜に飢えてさまよい歩き、朝になって我に返ると辺り一面に獣の死骸が転がっている。吐き気がする血臭の中で全身が赤く染まっている。そのおぞましさには慣れないし、慣れたくない。
(でも月が見えないここなら、飢えることも……)
「珍しいな」
 突然、飛び込んできた人の声が思考をさえぎる。ジゼルは慌てて背後を振り返った。
 湖畔に長身の男が立っている。黒い髪と目、黒く長い外套を身にまとう見るからに怪しいその男は、振り向いたジゼルに口元を歪めてみせた。
 いつからそこにいたのだろう。湖に入る前、辺りに生き物の気配はなかった。
 なぜこれだけ近づかれていたのに気づかなかったのか。
 すっかり油断していた。この森は広い。たった数日間、散策しただけではすべてを把握できない。しかし明らかに未開の土地で、まさか人がいるとは思わなかった。
 男はどれだけ睨んで威嚇してもひるまない。不気味なほど落ち着き払っている。彼が従える静けさはこの森のそれに似ていた。
 逃げた方がいい。逃げるには狼の足の方が速い。水浴びで全身の毛がじっとり濡れるのが嫌だという安易な理由で、人になるべきではなかった。
「よりによって、この場所で人狼に会うとは」
 男のその独り言を、聞き流すことはできなかった。

 確かに人狼と言った。血を彷彿させる赤い瞳は異質でも、今はどこから見ても人のはずだ。存在するかどうか分からない魔物と結びつける要素はない。
「若い頃に人狼を見たことがある。当時も広くは知られていない。しかし知っている者はいた。まったくの空想上の生き物になった今よりは、現実味があったな」
 男は口の片端を上げる。
「私の若い頃と言っても、もう三百年ほど前になるが」
 ジゼルはまだ二十年ほどしか生きていないが、人狼は百年も五百年も生きるらしい。
 人間だろう彼が、それと似た時間をこの世で過ごしているというのか。見た目の年齢は三十前後といったところだが。
「不思議そうな顔をしているな。なぜ正体を見抜けたか、か? 簡単だ。君達の目は特別だ。ただ赤いだけでなく、深みが違う。私はその目で分かる」
 彼が人狼を見たことがあるというのは本当だろう。
 しかし彼は恐れているようにも、憎んでいるようにも見えない。人狼は残忍で忌むべき魔物ではなかったのか。
 逃げ出す機会を窺っていたジゼルは、かすかな動揺を覗かせてしまった。
 ジゼルは自分以外の人狼を知らない。実在する人狼の話を彼はしてくれるだろうか。
 揺らぎはじめた心に気づいたのか。男は外套を脱ぎ、片手に持ってジゼルに差し出した。
「こんなところで水浴びなどしていたら、風邪をひく。私の屋敷に来るといい」
 まるでジゼルがそれを受け取るのを確信しているように。
 その傲慢な態度には少し腹が立つ。それでもジゼルは湖から上がり、男の手から外套を受け取った。大きすぎるそれを羽織ると、彼は満足そうに目を細める。
「私はアッシュ。魔術師だ。君と同じ、時代に忘れ去られた存在、といったところだろうか」

 再び耳を疑った。確かに未開の森に住み、ジゼルが睨んでも涼しい顔をしている彼が、普通の人間でないのは明らかだ。
 しかし彼は魔術師と言った。魔術など、とっくに廃れた過去の遺物だというのに。
 かつて確かに魔術師は存在したらしい。神がかった力――魔力を宿した彼等は自然を操り、予言や治癒を行い、人々を助け、あるいは人々に苦を与えていた。
 今やそれは伝説だ。魔力を持たない者達によって発明された鉄や火薬や蒸気の力の影に呑まれ、魔術はいつしか忘れ去られたものだと言われている。
 特に文明が発展した都で、魔術の存在を信じていると言えばいい笑い者だ。
 それでも地方では、魔術への信仰がいまだに根強いとも聞く。
 男が歩き出す。鬱蒼とした木々の中にまぎれていく彼の後ろ姿を、ジゼルは間隔を取りながら追った。
 人を避けて一人で生きてきた。満月の夜に襲ってしまわないように。
 我を失うと、人も獣も見分けがつかない。獣も襲いたくないがどちらも避けるのは無理だ。獣のいないところに人が住み、人のいないところに獣が住む。どちらかを選ばなければいけなくて、ジゼルは獣を襲う方を選んだ。
 それなのに今、なぜはじめて会った、それも魔術師と自称する得体の知れない男の後をのこのこと追っているのだろう。
 浅はかだとは思う。ここでは月が見えず、飢えも身を潜める。それに実在する人狼のことを知っている彼を前にして胸が高鳴ってしまった。
 

 

 

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