二章(6)
振り子時計の音と、暖炉で炎が燃え盛る音がしている。
目を閉じて、聞き慣れたそれにしばらく耳を傾けていた。
仰向けに寝転がるアッシュに体を密着させている。腰には腕が回されていた。目を開くと、アッシュの胸が静かに上下しているのが見える。
ジゼルはゆっくりと瞬きをした。
そのままじっとしていると、アッシュが髪を撫ではじめる。おそらく何気なくはじめたそれが、ジゼルが次の行動を起こすきっかけになってしまった。
ジゼルはアッシュの手を交わして立ち上がった。
アッシュが見つめてくる。それでも黙って脱がされた服を着た。
気づいたのだろう。体を繋げた後、たった今まで自分の腕の中で大人しくしていたジゼルが、すべてを思い出したのだと。
思い出した。それは本当に夢から目が覚めるような感覚だった。すっと頭が澄み渡り、寒気が全身を包んだ。まだ少し体が震えているが、そのうち治るだろうと無視をした。
着衣を整えると、ジゼルは振り返らずに戸の方へ足を向けた。
背中に視線が突き刺さる。何度もこうして屋敷を後にして、また戻ってきた。
しかしもう戻るつもりはない。
「ジゼル、今まで私の側にいたのは……君の本来の姿だったんじゃないのか?」
戸を開くのと同時に、アッシュが沈黙を破る。ジゼルはノブを握ったまま動きを止めた。
「記憶をなくして、まったくの別人になるものなのか? 記憶から解放された君は、何にも縛られることなく本心をさらけ出せていたんじゃないのか? 本当の君は……」
その言葉に鋭く胸をえぐられた。
「いや、これは私の都合のいい願いなのか? 自分を慰めるために、そうであって欲しいと思っているだけなのか」
頬に涙の乾いた痕がある。抱かれながら、悲鳴なような声でアッシュの名前を呼び続けた喉はひりついていた。まだ体の震えが止まらない。
「そうだよ」
ジゼルは大きく息を吸うと走り出し、二度と立ち止まらないで屋敷を飛び出した。
眠るように漂っていた霧を、ジゼルの体が切り裂く。夜の森を疾走するジゼルの鉛のように重い心とは裏腹に、体はひどく軽かった。
肌がざわめく。自ら起こした風の荒々しい音が鼓膜を震わせている。
記憶を失っていた時に森へ出て、ぼんやりと感じていた異常な嗅覚や聴覚は、獣特有のそれ。今はすべてが解き放たれている。
ふと走りながら足元を見れば、鋭いかぎ爪が土をえぐっていた。
小柄だが洗練された輪郭。妖しい光沢をはらんだ闇色の毛並みがなびく。
ジゼルの姿はいつの間にか狼になっていた。
濡れた落ち葉を蹴散らし、四つの脚でしなやかに跳躍する。人の足では考えられない速さで森を駆け抜ける。血を染み込ませたように赤い瞳でゆらりと夜闇を見回せば、誰も寄せつけない鋭いジゼルの気配に森に住む獣達が息を殺す。
どれだけ走っただろう。森の外れにある岸壁まで辿り着くと、ジゼルは立ち止まった。
ここから森の全景を見渡せる。前はよくこの場所に立っていた。
眼下に果てしなく広がるのは、鬱蒼とした針葉樹の森。深い霧は森の中に幾重にも織り込まれている。アッシュの屋敷は木々と霧にまぎれて、どこにも見えなかった。
震える息が白く変わる。氷点下の大気がつんと鼻に滲みる。毛の先まで冷えきっていた。風が頬を撫でる感触が懐かしく、そして物悲しい。
なぜ記憶をなくしたのか。いや、本当は知っている。
(きっとお前が……)
語りかけたのは霧だ。昔、アッシュに聞いた霧の正体に語りかけた。
(忘れていればよかったのに……馬鹿だな)
今度は記憶をなくし、アッシュと三ヶ月を過ごしたもう一人の自分に語りかけた。
(幸せになればよかったのに)
この自分が戻ってくる必要などなかったのだ。
記憶をなくした『ジゼル』は別人でなく、確かにジゼル自身だった。アッシュの言った通りだ。記憶から解放されたジゼルは、何にも縛られずに本心をさらけ出していた。
しかしそれを告白することなど、できるはずがない。
ジゼルは闇空に吼えた。
声が大気を震わせる。低くも高くもない。耳を貫き、聞く者を陶然とさせる。同時に胸に居たたまれないざわめきを生じさせる、悲哀に満ちた声だった。
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