二章(5)
会いたいと思った男は、アッシュだった。好きだった手は、ずっとジゼルに触れていた。
なぜこんなにも簡単なことが分からなかったのだろう。今は夢で見た男が、頭の中でアッシュと一致している。
「そうだな。ミルクはできるだけ切らさないようにしていたが、三ヶ月前のあの日は運が悪い。ちょうど痛んだものを捨てたばかりだった」
暖炉に薪をくべながらアッシュが苦笑する。あれから服を着てリビングに来ていた。
ジゼルは膝を抱えて座り、アッシュの背中を見つめていた。
これと同じ光景を、三ヶ月の中で何度か見た。
しかし明らかにそれより以前にも見た気がする。絨毯の感触や振り子時計の音、窓の外の森の静けさもよくよく考えてみれば、短い時間で慣れ親しんだ程度のものではない。前からこの屋敷に住んでいたのは分かっていたが、今になってようやくそれが実感できた。
記憶が戻りつつある。どれもまだ霞がかっているが、鮮明になるのは時間の問題か。
ジゼルは抱えた膝に頬を当てた。
「アッシュ、俺は……人じゃない」
さっきからそれが頭の中にぽっかりと浮かんでいる。
アッシュは薪をくべる手を止め、ジゼルに振り向いた。彼の顔にはもう狂気は覗いていない。しかしまだ思い詰めたような顔をしている。
「君は人狼だ」
人狼――人でもあり、狼でもある魔物。月から生まれ、百年も五百年も生きるという言い伝えの中に出てくる存在。
明かされた正体に驚きはなかった。当たり前のことを耳にしたような気さえする。
それでもジゼルは、無意識に自分の手の平を見つめていた。そこにあるのは人の手だ。獣の形跡はどこにもない。
「人と狼と、君は二つの姿を持っている。姿をどうやって変えるか、目の前で何度見ても私には分からなかったが」
口元に淡い笑みを浮かべてアッシュは続ける。
「どちらの君の美しさも私を魅了してやまなかった。人の姿は今の通りだが、狼の時の黒い毛並みは艶やかで、まるで月の光をまとっているようだった」
前にアッシュが言っていた狼とは、ジゼルのことだった。
アッシュが歩み寄ってくる。側に腰を下ろすと、ためらいがちに手を伸ばしてきた。
「さっきは乱暴して悪かった」
髪を撫でられる。
「君の口から他の人間の話が出て、まさか私だとは思わず……正気でいられなかった」
眉を寄せて辛そうに謝るが、アッシュは悪くない。嫉妬に半ば我を失っていた彼の気持ちを考えず、あおるような言葉を続けてしまった自分が悪い。
アッシュの唇の血はすでに止まっているが、痛々しく傷が残っている。それをつけたのが自分だと思うと胸が痛い。
下を向いていると、耳の後ろをアッシュが指でくすぐってくる。ジゼルは彼の手に耳をすりつけた。誤解が生んださっきのあれは、もう終わったことだ。そう安心できるようにもっと触って欲しい。もうどこにも行こうとしないから。
「少しは自惚れていいのだろうか。君が自分の名前の次に思い出したのは、私だった……」
耳に添えられた手の感触に意識を集中させていると、アッシュが口を開く。
「どういう意味?」
聞き返しながら視線を上げるのと同時に、肩を抱き寄せられた。
腕の中に収まったジゼルに抗う気がないことを確認して、アッシュは抱く手に力をこめてくる。耳が当たっている胸から聞こえてくる鼓動がひどく早い。
それに自分でも気づき、落ち着かせようとしたのか。アッシュは長い溜め息をついた。
「記憶があった頃の君にとって私はいても、いなくてもかまわない。どうでもいい存在だと思っていた。しかしさっき君が取り乱すほど会いたいと思った男が、私だったと知って……少しは必要とされていたと期待してしまいそうで怖い」
静かで深い声が、まだ早い鼓動と一緒に耳に染み込んでくる。
「いや、ありえない。覚悟を決める時が来たようだな。記憶が戻れば、君は私の前から姿を消すだろう。何も知らない君を勝手に自分のものにしたんだ。君は……私を許さない」
アッシュの言葉を頭の中で何度か繰り返し、ゆっくりとその意味と悲しみを理解した。
ずっとこうして一人で悩んできたのだろうか。
記憶がないジゼルは、アッシュに頼るしかなかった。しかし記憶があった頃のジゼルは、アッシュに頼るような人でなかったのだろう。だからアッシュは戸惑っていた。
そして彼は「もう一度、狼の声を聞きたい」と言っていた。
以前のジゼルに会いたかったのだろう。たとえ記憶が戻れば自分の前から姿を消すと分かっていても、そう望まずにはいられなかった。
「『ジゼル』はそういう人だった」
今までずっとアッシュが愛おしそうに語るジゼルとは、記憶があった頃のもう一人の『ジゼル』だったのだから。
(それは……俺じゃない)
ジゼルは体を強張らせた。
そこまで結論を出して、その存在に気づいてしまった。
頭の中で、もう一人の自分がうずくまっている。血の臭いがする記憶の底で、『彼』は悲しみも苦しみも、すべて一人で背負っていた。
「もうしばらく、こうしていていいか?」
アッシュがジゼルを抱く腕に更に力をこめる。まるで最後の別れを惜しむように。
確かに別れの時は近づいている。
すっと血の気が引いていく音を聞いた。記憶が戻ればもう一人の『ジゼル』が目覚め、今こうして思考を巡らしている自分は消える。
まったく別のものになるわけではないだろう。しかし明らかに何かは違う。
忍び寄って来ている記憶は、この三ヶ月の中で感じてきたものとはまるで違う質を持っている。血の臭い、孤独の不安、諦め。それは生々しい現実。
記憶のない自分は、あまりに無邪気だった。もちろん一つ一つの物事を必死に考え、行動してきたつもりだ。悩みもした。しかし本来の自分が置かれている境遇に比べれば、児戯のようなものだったのかもしれない。
ジゼルは赤い瞳を見開いてアッシュの服を握り締めた。
記憶が戻る時は、今ここにいるジゼルの消滅の時。
この三ヶ月は夢でしかなかったのだ。甘くやさしい夢だ。それが醒めてしまう。
(嫌だ。どうして俺がっ……)
なぜ自分が消えなくてはいけないのか。これはただの思い過ごしではないのか。いつものように不安を拭ってくれるのを期待して、ジゼルはアッシュを見上げた。
「ようやく私の目を見たな」
アッシュが笑いかけてくる。ひどく満足げに、ひどく愛おしそうに。しかしそれは徐々に戻ってくる『ジゼル』を喜び、迎え入れるようなものに見えた。
アッシュの言う通り、ジゼルは彼の目をはじめて真正面から見つめていた。
自分の目も同じようなものだと言われても、怖くて見られなかったそれは、確かに精神を喰われかねない色をしている。奥に潜むのは、はるかな歳月を一人で生きる者の孤独。
この孤独を知っている。しかし知っているのは自分ではなく、もう一人の自分だ。そしてアッシュの眼差しも、笑みも、言葉もすべてその『彼』に向けられたもの。
ジゼルはアッシュの胸に顔を埋めた。額をこすりつけると、じわりと視界がぼやける。
今、はっきり分かってしまった。アッシュが愛していたのはもう一人の『ジゼル』だ。
ここにいるジゼルではない。
「ジゼル?」
顔を覗き込んできたアッシュが息を呑む。頬を伝う涙に、気づいたからだろう。
おそらくもう一人の『ジゼル』より、自分の方がアッシュを悲しませない。こんなにも側にいたいと思っているのだから。
しかしどんなに抵抗しても記憶は近づいてくる。
「俺は……アッシュが好きだから」
小さな声でジゼルは想いを言葉にした。口にするのははじめてだった。
口にしたことで、想いが更に胸を締めつける。記憶がなくて不安を抱えていた自分に、彼は居場所をくれた。自分を通してもう一人の『ジゼル』を見ていたのだとしても、好きなのだ。
「違う……ジゼル、違う。君は……」
アッシュが眉を寄せ、肩を痛いほど強く抱いてくる。咎めるような声で否定してくれたが、それ以上、言葉は続かない。
アッシュも少なからずこのジゼルを、別人のようだと感じていたと思う。そしてたった今、はっきりと気がついた。本当に別人だったのだと。
どんなに辛くても『ジゼル』は泣けない人だった。
「君は……」
消えていくこのジゼルに、どんな言葉をかけていいのか分からないのだろう。アッシュはただただ背中をかき抱いてくる。
彼はこのジゼルが消えることを、認めたくないかもしれないが確かに望んでいる。
「アッシュ、キスして」
何も言わなくていいから。
アッシュの腕の力が抜けていく。彼は黙って顔を近寄せてきて、ジゼルの唇を軽く吸った。
一度唇は離れたが、すぐにまた同じような口付けをしてくれる。繰り返すうちに、次第に口付けは深くなっていく。ジゼルはアッシュの背に両腕を回し、彼の体を引き寄せながら絨毯の上へ仰向けに倒れ込んだ。
抱いて欲しい。いっぱい撫でて欲しい。この絶望が拭いきれないものなら、何も考えられなくなるまでアッシュを感じさせて欲しい。
アッシュはジゼルの服のボタンを外し、唇に降らせていた口付けを首筋に移動させる。ジゼルは喉をのけ反らせてうっとりと瞼を伏せた。
やさしい口付けを落としながら、アッシュが何かに耐えるように絨毯に強く爪を立てる。それは消えていく自分を、少しだけでも惜しんでいるからであって欲しいと最後に願った。
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