獣が眠る

 

 

 次の瞬間、勢いよく固い石の床に押し倒された。突然のことに逃げることもできない。思いきり背中を打ったが、痛みに悲鳴を上げる間すらなかった。
 アッシュが両方の手首を抑えつけて唇に食らいついてくる。口の中に強引に侵入してきた彼の舌は、荒々しくジゼルの舌を捕らえて息もつかせない。
 いつものしつこいが甘い口付けとは違う。獰猛なそれは、口付けと呼べるものでなかった。
 屈服させようとしている。
「……っ」
 突然、アッシュが飛びのくように顔を離した。
 彼の唇の端からは一筋の鮮血が流れる。ジゼルは舌で自分の犬歯をなぞった。
 血の味がする。苦痛から逃れたい一心で、思わずアッシュの唇を噛んでしまったようだ。
 しかしあれは本当に自分がしたのか。アッシュの傷は鋭利な刃物で切れたようなもの。確かにジゼルの犬歯は尖っているが、その鋭さは皮膚をあんなふうに裂くほどなのか。
「そんなに大事なのか?」
 傷つけてしまったことに呆然とするジゼルを見下ろしながら、アッシュは眉を寄せる。
「ここを出ていくのは、そいつに会うためだったのか? いや。君は各地を転々としていると言ったが、本当はここにいない時はずっとそいつの元にいたのか? 特別な存在がいたと?」
 その質問は、記憶がないジゼルに向けられたものでなかった。
 何を言われたのか分からない。しかし疑問が浮かぶ。
「俺達が恋人って、本当なのか?」
「確かに私達は恋人などではない。しかし私は誰よりも君を愛してる」
 いとも簡単に、平然と、アッシュは嘘だと言う。唇の血を手の甲で乱暴に拭い、その手をジゼルの胸に滑らせた。
「そいつには、こんなふうに触らせていたのか?」
「やめ……っ!」
 胸の突起を爪で押しつぶされ、痛みに顔をしかめてもアッシュの表情は変わらない。
「私は我慢をしていた。君はそういった束縛を嫌うだろうと信じ、自由を侵さないように……それなのに、君は他の奴には簡単にしっぽを振っていたというわけか」
 いつもは安堵をもたらしてくれるアッシュが、苦痛と恐怖を生む。

 なぜこんなことになったのだろう。ただあの男に会いたいだけなのに。
「どこにいるか分からない。顔も、声もまだ分からない。でも大切な人だった。会いたいんだ。一度でいいから……アッシュ、行かせて」
 唇から願いを漏らすと、首を掴まれた。
「逃げられないように、ここに首輪をつけよう。永遠に私のベッドに繋いで……」
 アッシュの言葉は最後まで続かない。何かに耐えるように表情を頑に変えなかった彼の顔が歪む。今にも泣き出しそうに。
 アッシュはジゼルの肩口に額を押しつけた。
「憎まれてもかまわないっ。手放すくらいなら!」
 喉から狂気と悲しみが入り交じる声を絞り出し、最後は嗚咽のように聞こえた。
 どれだけ深く愛されているか分かる。
 アッシュの手を振り払おうと思えば、ジゼルの腕力で十分に可能だ。
 それでもはね除けたくない。恋人だというのが嘘でも、昔がどんな関係だったとしても、アッシュが今のジゼルに居場所をくれたことに変わりはなかった。
 アッシュが好きだ。彼の包容力の前にすべてを投げ出し、すべてを委ねる心地よさを手放したくない。彼を愛し、彼に愛されることが自分にとって幸せだと心から思っている。
 しかしあの幻聴の男の元には、ジゼル自身が行かなくてはいけない。
「あいつは『そこ』から出られないから、俺を探すこともできないで待ってるんだ。きっと自分は飲まないくせにミルクを用意して、俺のために用意してずっと……」
 だから待っていても絶対に会えない。
「あいつは俺が飢えて生き物を貪っても、冷たい目で見ない」
 口が勝手に言葉をつづる。
 アッシュが肩口から顔を上げて眉を寄せても、ジゼルの唇は止まらなかった。
「それどころか守ってくれたんだ。俺を殺そうと屋敷に押し入ってきた人間を、あいつは地下……室で……」
 自分は何を言っているのか。頭がついていかない。
 ただこれだけは明らかだった。
「俺は……」
 人ではない。
 男の記憶とともに、血の記憶が忍び寄ってくる。しかし不気味なほど心は凪いでいた。
 呆然と目を見開くジゼルを、アッシュもまた呆然と見つめていた。首にかけられていた彼の手の力が徐々に抜けていく。
「ジゼル、その男は……私だ」
 夜の森より静かなアッシュの声に、あの幻聴の声が重なった。
 

 

 

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