二章(4)
絨毯の上に浅い皿が置いてある。ミルクはすっかり舐め尽くされ、少しも残っていない。
ジゼルは夕食をすませ、寝そべっていた。
辺りは刻々と夜闇に包まれていく。室内を照らすのは、暖炉の上に置かれた蝋燭の火だけ。ジゼルはまだ薄く開いている赤い瞳で、その明かりをぼんやり見つめていた。
そろそろ食後の眠りに入りたい。夜行性のジゼルは夕食の前に目を覚ましたばかりだったが、食事が終わるとまた眠くなってきた。
もう一眠りすれば、活動をはじめられる。しかしさっきから横にいる男が、耳をくすぐって眠りを邪魔している。ぴくぴくと動かして抵抗を試みているが、やめる気配はなかった。
それでも体を起こして彼から離れるのは面倒で、ジゼルは尾で軽く床を叩いて抗議した。
『耳は感じるのか?』
男が楽しそうに笑う。揺れた尾が喜びを表しているとでも思ったのか。
睨むと彼は器用に片方の眉を上げてとぼけてみせた。それでも耳を触るのはやめ、今度はジゼルの背中を毛の流れに沿って撫ではじめる。
これには文句がない。満足して息をつくと、ジゼルは蝋燭の火に視線を戻した。
振り子時計の秒針の音が、静かな室内に漂う。それが規則正しく耳をくすぐり、どうしようもなく眠気を誘う。
背中を撫でる男の手の動きに促され、ジゼルは瞼を閉じた。
夢の中で眠りにつくと、ジゼルの意識は現実に戻ってきた。
広いベッドに一人で横たわっている。辺りは暗く、隣にぬくもりはない。今まで見ていたのが夢だと分かると、急に胸が痛くなった。
夢を見ていた。
くわしくは思い出せないが、かすかに覚えている穏やかな光景が、苦しいくらいに懐かしい。
目を閉じると、夢の中で見た男のぼやけた姿が瞼の裏に映る。あまりに不鮮明で誰なのか分からないが、散々、幻聴で声を聞いたあの男だ。
無意識に開いた唇からは、息すら漏れなかった。まだ名前も思い出せない。
大切な人だったのは分かる。幻聴で声を聞くほど会いたいと思っていた。夢で見るほど、彼との時間を取り戻したいと思っていた。それなのになぜ思い出せないのだろう。
胸の痛みからどうにか逃れようと、ジゼルは体を丸めて冷たいシーツを握り締めた。
彼は背が高い男だった。彼の骨張った大きな手で、やさしく撫でられるのが好きだった。
どこにいても警戒心を剥き出しにしていて、眠っていてもかすかな物音がしただけで起きていた。しかし彼の側ではよく眠れた。寝ている間に体に触られても気づかないほどだ。
彼の側では唯一、安心していられた。
どれだけ固くした体を丸めていても、喪失感は胸を抉り続ける。目を開くと、窓の外に霧が立ちこめる森が見えた。
この深い森はどこまで続いているのだろう。森を抜ければ、何が広がっているのか。ここを出ても簡単に彼に会えるとは思えない。
しかしここでじっとしているだけでは、なんの解決にもならない。
ジゼルは跳ね起きて寝室を飛び出した。窓がない廊下は寝室よりも暗い。それでも赤い目は、壁のシミやわずかなヒビ割れまで鮮明に捕らえている。
階段を駆け下りた。耳が自分のたてるのとは別の足音を拾っている。それは徐々に近づいてくる。聴覚も視力も異常だ。今まで感じた中で一番。
一階につくと、地下から階段を昇ってくる人影が見えた。
アッシュだ。ジゼルは一瞬動きを止めたが、すぐに玄関へ足を向けた。
「落ち着くんだ。どうした?」
アッシュの手が後ろから腕を掴む。そのまま引き寄せられて抱きすくめられた。
もがくと彼の服が肌に触れ、その感触で自分が服を着ていないことに気がついた。しかし些細なことにかまっていられない。どうしても行かなくてはならない。
「放せ……っ」
更にもがくと顔を胸に埋めさせられた。頭と肩を強く押さえつけられ、身動きが取れない。呼吸も苦しい。仕方がなく体の力を抜くと、アッシュも腕の力を緩めてくれる。
アッシュのここは落ち着く。しかしそれもほんの一瞬だ。すぐに胸がぐずぐずと騒ぎ出す。ジゼルはアッシュの胸に吐息を染み込ませた。
「行かなきゃいけないんだ。あいつが待ってるから」
しかしおかしい。言いながら、すでにそれを得ているような安堵が胸に広がる。
どくんと鼓動が大きく鳴った。何かに気づけそうで、気づけない。
頭の中を整理しようにも彼に会いたい、その願いばかりが回る。焦れば焦るほど他のことは考えられない。
「なぜ……私ではいけない?」
混乱する頭に不気味なほど低い声が降ってくる。顔を上げてジゼルは息を呑んだ。
無機質な顔で見下ろされている。怒りとも悲しみともつかない、しかし伝わってくるのは明らかに負の感情。強張った背筋に冷たい震えが走ったのは、恐怖のためだった。
「アッシュ?」
掠れた声が漏れる。
疑いを強く含んだそれが、今の彼にとって禁忌だと察したのはすぐだった。
|