獣が眠る

 

二章(3)

 
 アッシュが目を覚ますと、寝室はまだ夜闇に呑まれていた。
 腕の中にはジゼルが眠っている。彼の眠りはひどく静かだ。息をしていないのではと疑うほどに。白い頬には少し青み差している。瞼にかかる前髪を払ってやると、溜め息が出た。
 また無理をしすぎた。ジゼルは眠っているというよりも、疲れ果てて気を失っていた。
 屋敷に帰ってから浴室で一度、この寝室に移動してから三度ジゼルを絶頂に導いた。歯止めが利かなかったのは「もう嫌だ」と涙を滲ませて懇願しながらも、しがみついて離れようとしなかったジゼルのせいでもあるが。
 何気なく体を起こそうとすると、ジゼルがぎゅっと腕にしがみついてくる。
 目を覚ました気配はない。無意識なのか。
 アッシュはジゼルの肩を抱き寄せて体を密着させた。髪を撫でてやると安心したようで、強張っていた体から力が抜けていく。
 耳に唇を寄せた。
「愛してる」
 囁くとくすぐったそうに身をよじる。その仕草が可愛くて、今度は耳に唇を這わせてみた。ジゼルは吐息を漏らし、肩口に額をすりつけてくる。
 こんなにも信頼されているのは――
(恋人同士だったという話が……嘘だと知らないからなのか?)

 嘘だった。もちろん今も昔も、アッシュがジゼルに心を寄せているのは本当だ。
 しかしジゼルが記憶をなくす前は恋人でもなければ、友人とも呼べない薄い関係だった。
 あの時、恋人同士だと言ってしまったのは、ほんの出来心だった。それでも今のジゼルなら受け入れてくれると、汚く確信もしていた。そしてその結果、急速に距離を縮められた。
 今はもう、ジゼルに記憶があった頃の自分が嘘のようだ。あの頃は彼に触れることはおろか、話しかけることにすら気を使い、いつも嫌われることに怯えていたのに。
 だからこそ、なのか。時々、不安がよぎる。
 ジゼルが記憶をなくし、はじめはただ喜んでいた。しかし徐々に戸惑いはじめた。
 これは本当にあのジゼルだろうか。あらゆるものを警戒して誰も近寄せない雰囲気を放っていた彼が、今は自分の腕の中で眠っている。大人しく、無防備に。
 以前の彼を知っているアッシュには、今の彼が都合のいい幻のように感じる。
 これは夢ではないのか。
 何度か聞かれたが、ジゼルはこの屋敷に住んでいたわけではない。記憶のあった頃の彼は各地を転々としていた。ここには時々、ふらりと立ち寄っていただけ。その頻度は一ヶ月から半年とまちまちだったが、一年近く姿を現さないこともあった。
 ジゼルが屋敷に来ても、アッシュはたいてい研究室にこもっていた。
 誰にも心を許さないジゼルは、自由を好む人だ。だから彼に興味がないふりをしていた。逃げてしまわないように慎重に接していた。かまいすぎれば嫌われ、二度と屋敷に来てくれなくなるかもしれない。
 月を嫌うジゼルにとって、霧が空を隠してくれるここは都合のいい場所。ここに彼は心休まる環境を求めて来ていた。自分などいても、いなくてかまわない。
 だから記憶を取り戻させてはいけない。
 それなのにジゼルに記憶が戻ることも望んでしまう。
 もう一度、前のジゼルを見たい。今の彼は以前とは別人のようだ。
 姿形は変わらない。あの赤い瞳はまさに彼のものだ。しかし眼差しは儚い。かつてはひと睨みされただけで背筋が震えたのに、今はその研ぎすまされた硝子のような鋭さが薄れてしまった。
 誰にも媚びず、信じるのは自分だけだと無言で告げているのに、人を惹きつけてやまない気高さ。そんな彼に暗い森で隠者として生きるアッシュは憧れていた。
 それでも記憶をなくしたジゼルの、無防備にすがりついてくる姿も愛しいと思う。
「どうも私は欲深い」
 アッシュは自嘲気味に独りごちた。

 記憶をなくした時からジゼルは自分のものになり、今は彼の心まで束縛している。今の関係があるからこそ、こんな悠長な葛藤ができる。今は幸せなのだ。
 アッシュは腕に絡められているジゼルの手をそっと外した。
 長時間、色っぽい声を張り上げていたジゼルの口の中を湿らせてあげたい。しかしサイドテーブルの上にある水差しは空だった。ベッドから降りて服を着ると、空の水差しと燭台を持って部屋を出た。
 井戸がある地下へ降りると、ふと思い立って地下の一室を覗いてみた。蝋燭をかざして室内を照らせば、がらんとした空間が広がっているのが見える。
 前にジゼルを裸で縛って『お仕置き』した場所だった。地下の淀んだ空気を嗅いでみたが、彼が言うような血臭はやはり感じない。
 当然だ。床も壁も天井も、何度も拭ったのだから。
 元々、ここは薬庫として使っていたが、血や肉片が少しでも付着したものはすべて処分した。しかしジゼルの発達した嗅覚は、ごまかせないのだろう。
 それとも記憶をなくしても、ここでの惨状が忘れられないのか。あの光景を作ったアッシュ自身は負い目を感じていないのに。
 そうしなくては、ジゼルが殺されていた。
 やはり記憶が戻って欲しいと望むのは馬鹿げている。それはジゼルのためであり、アッシュ自身のためだ。記憶が戻ればジゼルはまた悩む。支えてあげたいが、自分はもう彼の信頼を得られない。
 記憶をなくし、何も知らないジゼルを抱いてしまった。自由を奪い、強引に自分のものにした。ジゼルは許してくれないだろう。好き勝手に扱ってきた代償だ。彼はここを出ていき、二度と姿を現してくれなくなると思う。
 その時、階上で勢いよく戸が開く音がした。
 

 

 

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