獣が眠る

 

二章(2)

 
 霧が体を通り過ぎていく。服は湿り気を帯び、しんなりと肌に張りついている。
 アッシュと森に来ていた。突然、「散歩だ」と言われてついてきたが、どういう風の吹き回しなのか。しかし外に出られたのは嬉しい。
 帯状の霧は、木々の間に幾重にも織り込まれている。とにかく視界が悪い。真っ直ぐに歩いているつもりでも、気づけばかなり蛇行していた。
 霧が晴れ、太陽が覗いた日とはまったく違う。しかし誰かが言ったように、森が怖いはやはり思えなかった。木々の密やかな息吹は耳にやさしく、濡れた緑の香りが清々しい。
 日に日に冬は深まっていた。屋敷の中では暖炉の側から離れられない。
 それなのに外にいると寒さに寛容で、心地よいとまで思ってしまう。足の爪先はすでに感覚がない。体の芯まで冷えきっているのに。気分が高揚しているからだろうか。
「あまり急ぐんじゃない。君が走り出したら、私の足ではついていけない」
 背後から声をかけられる。足を止めて振り向くと、アッシュの姿が少し離れたところに見えた。ついさっきまで並んで歩いていたのに、無意識に歩調が早くなっていたようだ。
 屋敷を出てから、だいぶ時間が経っている。こう呼び止められるのは何度目だったか。
 そのたびにアッシュの側へ戻っても、気づけば彼の前を歩いている。
「ジゼル」
 アッシュが呼んでいる。そろそろ駆け出そうと思っていたところだ。しかしジゼルは大人しくアッシュの側へ戻り、彼に歩調を合わせた。
 背の高いアッシュが、斜め上から慈しむような眼差しを向けてくる。それには気づかないふりをして、ジゼルはひたすら前を見つめた。
 異常に鼓動が高鳴っている。頬が染まっているのは、寒さのせいだけではない。さっきから無意識に歩調が早くなるのは、この眼差しに耐えられなかったからだと思い出した。

 かつては恋人同士だったと明かされた日から、一週間ほど過ぎている。
 何よりも変わったのは、アッシュの眼差しだ。甘すぎて、向けられるだけで赤面してしまう。
 あの日を境にアッシュは研究室にこもらなくなった。ジゼルと一緒にリビングにいる。暖炉の側でアッシュは本を読み、ジゼルが彼の膝に頭を置いてまどろむ。そして夜は何も言われなくてもジゼルがアッシュのベッドに入っていき、寄り添って眠るようになった。
 望んだ通り、アッシュは側にいてくれる。しかしこの甘い眼差しには耐えられない。
 嫌なわけではない。それどころか心があたたかく満たされている。だから体もアッシュと密着して満たされたい。そう望んでしまう自分が恥ずかしい。外出したことでいつもの眠気が消えている。せっかくなのに、それでは屋敷にいるのと変わらない。
 ジゼルの歩調は再び早くなりはじめていた。
 屋敷から遠く離れ、森の深いところまで来ている。この調子でさっきからジゼルが前を歩いているが、時々アッシュが「そっちじゃない」と道を教えてくれる。
 今まで素直に従っていたが、ジゼルは腐った老木の横を通り過ぎようとして足を止めた。
 辺りには似たような木々が連なっている。しかし幹がえぐれたこれには見覚えがあった。
 確か、ここを通るのは三度目だ。
「さっきから同じところを回ってる気がする」
 森に長く住んでいるアッシュでも迷うのだろうか。
「さすがに気づいたか」
 アッシュの含み笑いが聞こえてくる。言葉の意味を考える間もなく、背後から両肩を抱き締められた。
 体温が伝わってくる。森の寒さが心地よくても、やはりこのぬくもりには勝てない。
 望んでいた接触に吐息を漏らしそうになったが、ジゼルは小さく頭を振って自重した。
 そんな場合ではない。

「なに考えてるんだ。迷ってるのに」
「帰り道は分かるぞ」
 すかさずアッシュは当然だと言わんばかりに返してくる。
 迷ってないなら、ワザと同じ場所を歩き回っていたのか。わけが分からず顔だけ後ろに向けた途端、唇をやわらかな感触で包まれた。
 アッシュの唇だ。舌を入れられそうになり、慌ててジゼルは顔を背けて逃れた。
「こんなところで……」
 文句を言った唇に残っている感触がもどかしい。今にももっとと、ねだってしまいそうな自分が怖い。
「誰も見てない」
 アッシュの熱い息が冷えた首筋に滑る。それだけで理性が飛びそうだ。
「そんなことない。足音がしてる」
 どうにか逃れようと言ったそれは、嘘ではない。さっきから小さな足音、ジゼル達に気づいて慌てて逃げていく足音がやけに耳につく。生き物の匂いもする。
「狐か、兎か。そんなものだろう」
 確かにそれは明らかに人間のものではなかった。四つ足で地面を軽く叩くような足音だ。鼻を掠めるのも毛皮の匂い。
 アッシュも音や匂いを感じているのかと聞けば、そうではないらしい。ジゼルだけだ。
 この体は軽やかで、外見には不似合いな腕力を持っている。それだけではなく、聴覚や嗅覚も異常に発達しているように思う。
 霧が晴れた朝に森へ来た時も感じたが、この空間にいると感覚が研ぎすまされていく。
「あまり深いところに行くと、君の体が森に馴染む。君のそういった感覚も目覚めてしまうだろうからな。屋敷に閉じこめておくのが一番だが、外に出して欲しかったんだろう?」
 だから同じところをぐるぐる歩き回っていたと言うのか。
「俺にそういうのがあるって、アッシュは知ってたんだな?」
 食ってかかったが、アッシュは無視をして首筋をついばんでいる。屋敷の外に出してくれたのは嬉しいが、まるで犬の散歩のように言われた気がしておもしろくない。
「なんで俺は……」
 言いかけてジゼルは口をつぐんだ。
 本当に知りたいのは、感覚がどうのとかいう些細なことではなかった。

 前もここに住んでいたなら、そこら中に記憶の鍵となるものが落ちているはずだ。しかし見つけてしまうのは、思い出したくない血の臭いがするものばかり。アッシュの言葉の端々から重要だと思うものを拾っても、その一つ一つを繋げられない。
「ジゼル?」
 アッシュは首筋を啄むのをやめ、急に物憂げに歪んだジゼルの顔を覗き込んでくる。ジゼルは肩を抱いている彼の腕に頬をすり寄せた。
 この腕の中に居場所を見出してから、記憶がなくても不安を感じなくなった。
 しかし代わりに悲しい。最近になって、ようやく失ったものの大きさを知った。
「なんで忘れたんだろ。俺は……アッシュのことまで」
 アッシュを知らない。彼に愛されていた記憶がない。どんな理由があって、そんな大切なものまでなくしてしまったのか。
 もしアッシュが自分のことを忘れてしまったらと思うとたまらない。想像するだけで恐ろしいのに、実際、自分は彼にその辛さを強いている。失った記憶の中の血臭がする部分はやはり怖い。アッシュとの記憶だけをどうにか取り戻せないだろうか。
「ジゼル、君と私は……」
 アッシュが戸惑いの覗く声で何かを言いかけた。
「いや、私との記憶が欲しいなら作ればいい」
 すぐに続けられた声は、普段の調子に戻っている。

 彼はジゼルの外套の中に手を忍ばせ、ズボンの前をくつろげようとしてくる。記憶の話からジゼルの意識を反らそうとするように。
 何かを隠している気がしてならないが、それがアッシュのやさしさなのだろうか。彼は気に病む必要はないと言ってくれている。
 いつの間にかアッシュの手は、下着の上からジゼル自身をやんわりと撫でている。
「本気でここでするつもりなのか?」
「寒くないなら」
 やめる気はないようだ。
 ジゼルももう自分を抑える気がない。ただここでは落ち着かない。
「寒い、から……ベッドがいい」
 もっとゆっくり触って欲しい。全身をくまなく。
「ひどいな。そんないやらしい声を聞かせておいて、私にベッドまで待てと言うのか?」
 素直に望みを口にするとすかさず笑らわれた。今の台詞を誘ったと取られても仕方がないが、いやらしい声など出したつもりはない。
「誰がっ……」
 後ろを振り返って抗議しようとしたが、最後まで続かなかった。唇を唇で塞がれる。
 名残惜しそうにジゼルを解放すると、アッシュはあの眼差しを向けてきた。
「仕方がない。最短の道で帰るぞ」
 そう言って歩き出した彼の後ろ姿を見つめながら、ジゼルは自分の両肩を抱いた。再び鼓動が高鳴りはじめ、唇からは無意識に吐息が漏れる。
(帰るまで待てるかな?)
 待て、と言ったのは自分なのに情けない。日に日にアッシュに溺れていく。
 アッシュが好きだ。彼に深く愛されているのだと思うと、彼の束縛に抗う術はなく、抗う気も起きない。
 抜け出せない。それが幸せだった。
 

 

 

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