結局、三十分も経たないうちに、リビングを出てきてしまった。
ジゼルは研究室の戸を少しだけ開き、隙間から中を覗いた。
部屋の真ん中で、アッシュは机の前に座っている。彼は不審な恰好で覗いているジゼルをちらりと見たが、すぐに手にしていた本に視線を落とした。
中に入って戸を閉めると、室内に充満する薬草の匂いにむせた。気分が悪くなるようなものではないが、いつもアッシュにまとわりついている匂いよりも濃い。
棚が部屋を取り囲むように設置してある。そこに沢山の薬瓶が並べられ、天井には乾燥した植物がいくつも吊るされている。匂いの出元は一つではない。朝から晩までここで過ごしていれば、アッシュの手や服に薬草の匂いが染みつくのは当然だ。
薬の棚を見るふりをしてアッシュを横目で見た。
相変わらずジゼルを無視し、本のページをめくっている。
声をかけられるのを待とうと思ったが待ちきれず、近づいて本を覗き込んでみた。黄ばんだ紙に踊る文字は読めない。普段、使っている言語とは違うようだ。
机の上に並んでいる研究器具をいじってみた。今にもなだれてきそうなメモ書きの山をめくってみた。年季の入った羽ペンをくるくる回していると、アッシュが本を机に置く。
腰に手が伸びてくる。引き寄せられてそのまま膝の上に座らせられた。
「どうした?」
ようやく声をかけてきたアッシュは、勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
リビングに残されて、のこのこと追いかけてきた。そんなことをすれば彼の思うつぼだと分かっていたのに。それだけでも十分に苦々しいが、このわずかな接触でほっとしてしまった自分までいる。
ジゼルはアッシュから顔を背けて薬の棚に目をやった。
「薬って何のために作ってるんだ?」
「暇つぶしだ」
さらりと返されて思わず眉を寄せた。薬を次々と調合して暇をつぶし、彼は長い歳月を生きてきたのだろう。
しかしただの暇つぶしなら、もっと側にいてくれてもいいのに。
「私達が……」
唇を尖らせてそっぽを向いていると、ためらいがちな声が聞こえてくる。見ればアッシュはひどく神妙な顔をしていた。さっきまでのからかうような笑みは、少しも残っていない。
自分の目も似たようなものと言われても、ジゼルはアッシュの目をまだ正面から見られなかった。しかし彼は、真っ直ぐにジゼルの目を見つめてくる。
「私達が以前、恋人同士だったと言ったら……君は信じるだろうか?」
アッシュの唇の動きを追いながら、ジゼルはゆっくりと目を見開いた。
一瞬、思考が止まる。
「いや、今のは忘れて欲しい」
呆然としていると、アッシュは自嘲するように口元を歪める。
そんな可能性は考えてもみなかった。しかし彼の言葉を疑っているわけではない。
ジゼルへの異常な執着とやさしさが、恋人へ向けたものだと思えば納得できる。体を好きにされても、嫌でなかった自分のそれにも説明がつく。
今まで思いつかなかったのが不思議だ。
「そんな顔するなよ」
ジゼルは伏せ目がちに吐息をこぼした。
アッシュの胸にどれだけの悲しみがあるのか知らない。しかしその中の一つは、恋人に忘れられた悲しみだったのかもしれない。
彼にこの顔をさせているのはジゼルだった。それを知っても、何もしてあげられない。彼に与えられるものは持っていなかった。
ただ与えて欲しいと望むばかり。側にいたいと。
「俺はここにいてもいいのか?」
ジゼルは消え入りそうな声で素直な想いを口にした。
(アッシュが好きだ)
恋人だったなら、またそういうものになりたい。
惹かれていた。おそらく昔の自分がそうだったように、記憶をなくした今の自分もまた。
アッシュの手がジゼルの頬をそっと包み込む。視線を上げると彼は「何を今更」と言わんばかりに顔をほころばせていた。
「ジゼル、愛してる」
静かに胸に染み込んできたその言葉は、いつも囁かれているものとは違う。特別な気がした。
アッシュの手の平にジゼルは頬をすり寄せて目を閉じた。
「もっと、言ってみて」
そう口にすると、抱きしめられる。
「愛してる。ずっと私は……君を愛していた」
今度は耳元で吐息と共に囁かれる。
ジゼルもアッシュの背中に腕を回した。肩口に鼻を埋めると髪を撫でてくれる。
記憶をなくす前から、アッシュはこうやって居場所を与えてくれていたのだろうか。
撫でてほしいだけではなく、側にいたいだけではなく、欲しかったのはこのあたたかく穏やかな安堵。
気づけば、こんなにも近くに居場所はあった。記憶がなくても、もう不安に思うことはない。アッシュの腕が包み込んでくれる。彼の胸が抱きとめてくれる。
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