気づけば、いつの間にかアッシュが研究室の前に立っていた。戸に背中を寄りかけて腕組みをしている彼はひどく不機嫌そうだ。こんな顔は見たことない。
男は慌てて頭を深々と下げたが、男を見るアッシュの目は冷ややかだ。
「こんなところで何をしている。食料ならいつもの場所に置けばいい」
それは不気味なまでに静かで低い、剣呑な声だった。
「私のジゼルを口説くな」
続けられた声は更に低い。
男はたちまち青ざめたが、彼とは逆にジゼルの顔は急激に赤くなった。耳まで焼けるように熱い。鼓動も早い。
「誰がアッシュのだっ」
「君に触れるのは私だけだ。君を目に映すのも」
思わず叫ぶと、アッシュは当然だと言わんばかりに唇を歪める。
恐れている魔術師の怒りを買ってしまった男は、青ざめたまま硬直していた。その彼はすでに眼中にないのか。アッシュが近寄ってきて腰に手を回そうとしてくる。
その手を素早く交わしてジゼルはリビングに戻り、乱暴に戸を閉めた。
暖炉の前で寝転がると、背後で閉めたはずの戸が開く。薬草の匂いと足音が近づいてくる。
すぐ側で傲慢な男が膝をつく気配がして、ジゼルは固く目を閉じた。
「さっきの男が新鮮なミルクを運んできたはずだ。欲しいだろう?」
その言葉を聞いてようやく分かった。荷物から漂ってきていた甘い匂いはミルクだ。
この三ヶ月の中で口にした覚えはない。匂いを覚えているとは、前はよほど好きだったのだろう。確かに空腹ではなくても欲しくなる魅惑的な匂いだが、今はいらない。
ジゼルは顔を見られないように、絨毯に額を押しつけた。
「どうした? あれは君の好物だと思っていたが」
アッシュがうなじにかかる髪を指で払い、覗いた肌に唇を押しつけてくる。漏らしそうになった声を押し殺すと、唇が肌に密着したまま耳元まで移動してきた。
「何をふてくされているんだ」
耳の中に囁かれ、思わず絨毯に爪を立てた。
「あの男。アッシュはずっと昔から、今と同じ姿でここにいるって……言ってた」
どうにか平静を装いながら唇を動かした。その間もアッシュは耳朶をついばみ、ズボンの上から尻を撫でている。ぴくぴくと体を震わせるジゼルの反応をおもしろがるように。
「俺もずっとここに?」
「事実だ。私の時間は止まっている。この森から出ることもできない」
こともなげに言ってのけたが、魔術師とはそういうものなのか。アッシュが森の外に霧が出ないようにしている、とも男は言っていた。森から出られないのはそのためなのか。
「俺も?」
「森に縛られているのは私だけだ。しかしジゼル。君は私よりもだいぶ若いが、君も今ですでに見た目の年齢以上の時を生きている」
愛撫から意識を反らそうと何気なく口を開いただけなのに、今日のアッシュは不気味なほど簡単に答えをくれる。さらりと事実を告げられて、ジゼルはうっすらと瞼を開いた。
大人ではないが子供でもない体つきの自分は、まだ十六、七歳くらいだと思っていた。
この見た目以上の時を生きている。実感が沸かない。
額を絨毯から離して顔だけアッシュに向けると、彼はようやく愛撫の手を止めた。
「私達のような者は、むやみに目を他人に見せてはいけない。もっとも、ここに人が来ることなど滅多にないが……感受性が強い者なら精神を喰われるだろうな。瞳が見据える歳月があまりに深い。まだ若い君にもすでにその素質が備わっている。その上、君の目は別の意味でも危険だ。獲物を虜にする」
ひどく真面目な顔と声で言い聞かせられる。これだけは忘れてはいけないとばかりに。
「獲物……」
しかしどういう意味なのか。
「そう、獲物だ。今は私だけを見ていればいい」
意味深な言葉を投げかけたのにアッシュは勝手に話を終わらせ、ジゼルへの愛撫を再開させた。
手が双丘をいやらしく揉んでいる。じっとしていると前に伸びてきて、内腿を撫でながら徐々に中心に触れようと近づいてくる。
しかしそこに触れそうで、触れない。余計に反応してしまう。
ジゼルは絨毯に突っ伏して四肢を強張らせた。
「本当にいるのか? 狼って」
どうにか愛撫から意識を反らそうと、再び唇を動かした。
しかしすぐに深く考えないで、その話題を口にしたことを後悔した。
思い出した。夜に現れる狼――前に似たような話を聞いたと思ったが、それはアッシュの口から聞いていた。
「あれはもういない」
アッシュが独り言のように呟く。抑揚のないその声の中に、悲しみの色を感じた。
月の出た夜にアッシュがもう一度聞きたいと言った鳴き声は、全身が黒くて目が赤いという狼のもの。あの時、彼が自分を責めているように聞こえたのも、気のせいではなかった。
「いないんだ」
声の中にそれを確かに感じる。
再び言わせたくなかった。そして聞きたくなかった。アッシュが自分以外の何かに執着しているのが、どうしても嫌だ。それがすでにいない獣だとしても。
不意にジゼルの嫉妬をさえぎったのは、股間を通り過ぎて服の中に忍び込んできていたアッシュの手だった。手は腹部を撫で上げて胸までたどり着く。そこにある小さな突起を爪で引っ掻かれ、体がびくりと跳ねた。
「あっ」
「さっきから大人しいな。そんなにして欲しかったのか?」
ついに漏らしてしまった甘えるような声を、アッシュはすかさず笑う。
「……そんなんじゃない」
ジゼルは憮然としながら、胸に触るアッシュの手に手を重ねた。
その手はただ重ねるだけで拒もうとしない。今だけではなく、さっきからずっとジゼルはアッシュの愛撫を拒む気がなかった。
むしろ望んでいた。アッシュの言う通りだ。ただ素直に愛撫を受け入れるのが癪だった。
ふてくされていた。ジゼルを目に映すのは自分だけと言うなら、なぜ研究室にこもってばかりで側にいてくれないのか。触るのは自分だけと言うのなら、態度で示して欲しかった。
どんなに否定しても、望みがとどまることを知らずに沸き上がってくる。
もう逃れられない。あの月夜に自分は変わったのだと思う。すべてを投げ出し、アッシュに胸にもたれかかる心地よさを知ってしまった。力強い腕に抱き締められていれば、不安も寂しさも感じなくていい。
「昨夜のでは足りなかったようだな」
全然、足りない。
アッシュは楽しそうに艶のある低い声で耳に囁く。
「ジゼル、何をして欲しい?」
ぎゅっと抱き締めて欲しい。それから口付けも。撫でて欲しい。今ここで服を脱がされてもいい。素肌と素肌を合わせてアッシュの感触とぬくもりを直に感じたい。
「離れろよ……」
拒んでいるのは口だけだ。それでも声は上ずり、甘みを帯びている。欲しくてたまらないのに、強がっているのは情けないほど明らかだった。
期待に鼓動が苦しいほど高鳴っている。
しかし胸からアッシュの手の感触が離れていく。
急にどうしたのか。アッシュは立ち上がり、何事もなかったように部屋を出ていく。足音が遠ざかっていく。研究室の戸を開閉する音が聞こえ、その後は何も聞こえない。
そこでようやくアッシュの意図が分かった。
「意地悪」
ジゼルは絨毯に埋めた唇からくぐもった声を漏らした。
アッシュが意地悪なら、自分は無駄に意地を張っているだけ。馬鹿みたいだ。
寝返りを打って仰向けになると、天井のシミとヒビ割れが目に映る。見慣れたはずのそれが、今はひどく高い位置にある。部屋が広くて落ち着かない。
暖炉で火を焚いているのに、アッシュがいないと急に室内が寒く感じた。
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