二章(1)
あの日以来、森にはまた霧が立ちこめていた。薄暗い日々が続いている。
(いいや。月は見たくないし)
ジゼルは半分以上閉じた目で、リビングから外を眺めていた。
どうしようもなく眠い。やわらかい絨毯に頬を当てて寝転がり、背中に暖炉の炎を感じていると指一本動かしたくないほど眠い。
日に日に冬は深まっている。暖炉の側から離れられず、日中はもっぱらこのリビングで寝ている。夜も寝るので、つまり四六時中寝ている。三ヶ月間、そんな生活を送ってきた。
異常なまでに眠いのは、外に出してもらえないからだと思う。アッシュは毎日薬の研究をしているが、ジゼルにはすることがない。
ふと時計が鳴り、見れば十時になったところだった。十の音を時計が鳴らし終えても、ジゼルはいつまでも文字盤を見つめていた。
そろそろアッシュが来ないだろうか。昼食の時間にはまだ早いが、リビングの戸を開いて姿を現さないだろうか。
「……なに考えてるんだ、俺は」
我に返ってジゼルは絨毯に額をこすりつけた。絨毯を爪でがりがりと引っ掻いてみても、浮かべてしまった考えはなかなか消えない。
月を見たあの夜からおかしい。気づけばアッシュの接触を待っている自分がいる。
あの夜のことを思い出すと叫び出したくなる。いくら不安と恐怖に駆られていたとはいえ、アッシュに子供のように甘えていた自分が恥ずかしい。
それなのにまた同じように撫でて欲しいと思ってしまう。昨夜もベッドの中で嫌というほど触られたのに、今はもうアッシュの手が恋しい。
(やらしいこと、されてもいいから……)
本当にどうしてしまったのか。
目が冴えてきた。このままじっとしていれば、またすぐに睡魔がやってくると思う。しかしまた妙なことを考えてしまいそうだ。
体を起こすと、窓の外の景色に目が行く。この間のように、森へ出て土を踏みたい。外気に全身に感じながら、道なき道をどこまでも駆けていきたい。
それでも屋敷から勝手に出ようという気は起きなかった。いくら散歩のために外へ出たと言っても、アッシュは聞いてくれない。彼は普通に抱くだけでは飽き足らず、機会さえあればジゼルにいやらしい『お仕置き』をしようと楽しみにしている変態だ。
(でも、だったら……外に出たらアッシュがかまってくれる?)
不穏な思考をさえぎってくれたのは、森の中に見えた人影だった。
両手に荷物を抱えた若い男が見える。屋敷へ向かっているようだ。三ヶ月の中で、誰かが屋敷を訪ねてきたことはない。はじめて見るアッシュ以外の人の姿だった。
男の荷物から甘い匂いがしてくる。カチャカチャと聞こえてくるのは、硝子瓶か何かがぶつかり合う音。
窓を閉めている室内には、暖炉の熱の匂いと音が立ちこめている。それなのに、なぜここまでそれが届いてくるのか。
男がいよいよ屋敷に近づいてくる。疑問をひとまず置き、ジゼルは立ち上がった。
リビングを出ると、すぐに玄関ホールが広がる。装飾も何もない質素な空間だ。奥は吹き抜けになっていて、二階へ続く階段と、地下へ降りる階段が対になって並んでいる。
階段の両側は食堂と浴室、二階は寝室、地下には井戸とジゼルが嫌いなあの部屋がある。
そして今、ジゼルが出てきたリビングと向かい合ってあるのが、アッシュの研究室だった。開く気配がないそこをちらりと見て、ジゼルは外へ通じる扉を開けた。
ちょうど扉の外に、リビングの窓から見た男が立っている。迎え出たジゼルに驚いたようで、彼はぽかんと口を開けていた。
「食料、持ってきたんだけど。魔術師先生は?」
魔術師先生とは、アッシュのことか。
アッシュは森から出ず、いつも彼に食料を運ばせているのだろうか。
彼が床に置いた荷物の中から、やはり甘い匂いがしてくる。果物や砂糖とも違う、確かに嗅いだことのある魅惑的なこれはなんだろう。
「すっげー赤い目……」
しばらく匂いに心を奪われていたジゼルは、男の感嘆の声に気づいて顔を上げた。
彼はジゼルの目をまじまじと見つめてくる。アッシュと同じで、彼の目は黒い。てっきり自分のような目をした人が、森の外には大勢いると思っていたが違うらしい。
ジゼルの血を滲ませたように赤い目は、やはり特異。
よほど珍しいようだが、ここまで不躾に見られるのはいい気がしない。
男は瞬きもしないで、ジゼルの目を見つめたまま肩を掴んでくる。睨んでも更に顔を近づけてくる彼は、いったい何をしようというのか。
唇に生あたたかい息がかかり、咄嗟にジゼルは男の腕を振り払った。
男はよろめいて壁に手をつく。驚いたように目を見開いたのは、ジゼルの細い腕からは想像できない力で振り払われたからか。
しかし驚いたのはジゼルの方だ。彼の背丈はジゼルと同じほどだが、アッシュよりも腕が太く、見た目も頑丈そうだ。それを簡単にはね除けてしまった。
「俺、何やってたんだ? あんたの目を見てたら頭がぼーっとしてきて……あんたの目って魔術師先生と似てるな。なんか、吸い込まれるっていうか」
男はひどく申し訳なさそうにうなだれる。その様子を見れば、悪気がなかったのは分かる。
しかし底知れないアッシュのあの目と似ている、自分でそんなふうに思ったことはない。もしそうだとしても、なぜそれが口付けに繋がるのか。
「じゃあ、アッシュにも今みたいにしたことあるのか?」
「アッシュって魔術師先生? 冗談っ。い、今のはきっとあんたが男のくせにキレー……」
男は叫んだと思えば、すぐに口をつぐんで顔を赤らめる。わけが分からない。
彼のことよりたった今、気づいてしまったことの方が問題だ。アッシュに押し倒された時、体格差のせいで拒めないのではない。拒んでいない自分に気づいてしまった。
嫌なら押し倒されても、この男にしたようにはね除けていた。屋敷の中だけにいると気づきにくいが、この体は妙に軽くてしなやかだ。腕力も弱くない。いくらアッシュが自分より大きくても拒めるはずだ。
考えてみればはじめて強引に抱かれた時から、どれだけ変態とののしってもアッシュを憎んだり、嫌悪したりしなかった。今までずっと乱れてしまう自分が恥ずかしいだけで、アッシュとのその行為自体は嫌ではなかったのだ。
「もしかしてあんた、魔術師先生の恋人とかだったりする?」
気づいても釈然としない。唇を噛み締めていると、男は神妙な顔で話しかけてくる。
彼はジゼルの目を見ようとしない。見ているようで、少しだけ視線を反らしていた。ジゼルがいつもアッシュの目に対してするように。
「そんなんじゃ……ない」
「よかった! もしそうだったら俺、殺されてたかも」
男は心の底からほっとしたように破顔する。
アッシュはそんなに恐れられている存在なのだろうか。三ヶ月も一緒にいるのに、アッシュのことを何も知らなかった。アッシュにとって、自分がどんな存在なのかも知らない。
胸がもやもやする。
「でも、よくこんなところにいられるな。魔術師先生も怖くねえ? あの人、何百年も生きてんだろ? 今と同じ姿でさ」
思わず男の顔を凝視した。
「知らねぇの? 噂じゃ、魔術で自分の時間を止めてるらしいぜ。ずっと霧が森の外に出ないようにしてくれてるんだとか。薬もくれるし、俺の村の奴等はみんな頭が上がんねぇけど、ちょっと不気味で……」
アッシュははるかな歳月を生きている。彼の目からそれを感じたのは馬鹿げたことだと思っていたが、直感が正しかったということか。
しかしそんなことより知りたいのは別のこと、アッシュと自分の関係だ。
アッシュはこの森で長い時を生きていて、その側に自分はいつからいたのか。
「聞いてる? 村に遊びに来ないかって。確かになんもないところだけど……そうだ、少し遠いけど隣町まで行ってもいいぜ。もうすぐ冬至のでっかい祭があるしさっ」
気づけば、何やら熱心に誘われている。
「こんなところじゃ、怖くて外に出れねぇだろうし……いや、暗くて不気味とか思わねぇ?」
ジゼルが怪訝な顔をすると、男はようやく声の調子を落とした。
森が薄暗くても、怖いと思ったことはない。未開のそこは、人がいる村や祭よりも心惹かれる。
「それにここ、狼が出るんだ。毛が真っ黒で目が赤い狼でさ。危ないところなんだぜ?」
男はまだ続ける。なぜ必死に森から連れ出そうとしているのか、まったく分からない。
しかしその狼の話は、何かが引っかかる。前に似た話を聞いた気がする。
「俺は見たことねぇんだけど、結構前に街から来た行商人達が森を抜けようとしてさ。どうやら森から出てないらしいんだよ。あれって絶対、食われ……」
「ただの噂だ」
男の言葉は聞き慣れた声にさえぎられた。
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