獣が眠る

 

一章(4)

 
 屋敷に戻ると朝食をとったが、その間、アッシュは一言も発しなかった。
 今夜、記憶を取り戻すかもしれない。記憶が戻れば、ジゼルはアッシュを許さない。どれだけ考えても、湖での彼の発言は何一つ分からない。
 唯一分かるのは、今日のアッシュがいつもと違うということだ。
 取り巻く空気が、張り詰めた糸のように危うい。少しでも触れれば、さっきのように表情を曇らせてしまいそうで、不可解な発言の真意をくわしく問う気になれなかった。
 朝食が終わるとアッシュはいつも通り研究室にこもり、そのまま出てこない。
 ジゼルもリビングの絨毯に寝転がり、いつも通りに過ごすことにした。
 昼前になると空から薄雲が消えて気温が上がってきたが、やはり冬だ。暖炉の火はたやせない。それでも窓から差し込む日の光を、背中に受けて惰眠を貪るのはひどく心地よい。
 しかしなぜか頻繁に目が覚めてしまう。起きると必ずアッシュの研究室の前まで行く。
 中には入らずしばらく戸の前でうろうろすると、リビングへ戻ってきて横になる。そして目覚めるとまた研究室の前へ行く、という意味のない行動を繰り返していた。
 自分でも何をしたいのか分からない。

 短い眠りから覚めるのは何度目か。ふと目を開けると、辺りは暗い。夜が訪れたようだ。
 新しい薪がくべられた暖炉で、激しく燃え盛る炎の音がしている。それに混じって本のページをめくる音が、すぐ近くから聞こえてきた。アッシュがいるのだろう。
 ジゼルは体を起こした。すぐに目に映ったのは窓辺の景色。
 青白い光が窓から差し込んでいる。日中の太陽よりも儚く陰鬱としたそれは、月光だろうか。常に霧が立ちこめていたこの三ヶ月の中で、月が見えるのも今夜がはじめてだった。
 アッシュは窓辺のソファーに座って本に目を落としている。
 彼の横顔は月明かりに照らされて青白い。
 その姿をぼんやりと見つめていると、急に寒気がしてきた。日は落ちたが、室内は暖炉のおかげで熱いほどなのに。
(あの光は……嫌だ)
 なぜアッシュはそんなところで平然としていられるのか。
 何が嫌なのか、はっきりとは分からない。それでもジゼルは無意識に後ずさっていた。
 光はジゼルのいる場所まで届いてこないが、どこまでも追ってきて四肢を絡めとろうとしている気がする。後ずさりを続けると、視界の端が朱色に染まりはじめる。背中に暖炉の灼熱を感じる。しかし火の中に飛び込んだ方がよっぽどましだ。
「髪が焦げてしまうぞ。ジゼル、おいで」
 ジゼルが目を覚ましたことに気づいたアッシュが本から顔を上げ、妙にやさしい声で呼ぶ。怪訝な顔を向けると、彼は器用に片方の眉を上げた。仕方がない奴だと言わんばかりに。
「おいで」
「……いや」
 あの光に近づきたくない。
 見たくもない。しかし目を反らすこともできなければ、瞬きすらできなかった。
 目の奥にじっとりと染み込んでくる月の光が誘っている。ふらりとジゼルは立ち上がり、アッシュのいる窓辺に吸い寄せられていった。
 窓の外を見れば夜空に月が浮かんでいる。半分欠けた月、冷たい色をした下弦の月だった。滴り落ちるその光は微量だが、全身にまとわりついてくる。
 体中の血液が騒ぐ。思わず身震いした。窓から漂ってくる冬の冷気のせいではない。
 何かが胸を圧迫しはじめている。正体の分からないそれはつい先日、ジゼルを襲ったものと同じ。喉の渇きだ。

 腰に伸びてきていたアッシュの手を振り払い、ジゼルは暖炉の前へ戻った。
 そこはあたたかく、少しだけほっとしたが長くは続かない。部屋の角まで行くと、壁に体を寄り添えた。それでも落ち着かず、すぐにまた別の場所へ移動した。
 一つの場所にとどまっていられない。逃げ出したい。しかしどこへ行けばいいのか。
 戸の近くまで来ても廊下に出られなかった。廊下には窓がないが不安だ。アッシュの視界から離れて一人になった途端、月に呑み込まれて自分が自分でなくなってしまいそう。
 ジゼルは戸に背中をあずけて床に座り込んだ。見開いた赤い瞳から、今にも涙がこぼれそうだ。がりがりと床を爪で引っ掻いて怯えるジゼルを、さっきからアッシュは眉一つ動かさずに眺めている。
 窓辺の彼を見つめながら、開こうとしたジゼルの唇は震えていた。
「アッシュ……こっちに来て」
「なんだ? 誘っているのか?」
 やっとのことで喉から声を絞り出したのに、アッシュは唇を歪めて笑う。
 馬鹿にされてもいい。だから側に来て欲しい。しかしアッシュは腰を上げてくれない。
 彼はこうなってしまった理由を知っている。今朝、湖で言っていたのはこの月のことだ。
 月はジゼルに記憶を思い出させようとしている。本当に今夜、すべて思い出してしまうのだろうか。ひりつく喉が何を欲しているのかも、明らかになるのか。
 怖い。まだ思い出したくない。心の準備が何一つできていないのに。
 床を引っ掻くのをやめて両膝を抱え込むと、アッシュが溜め息をつく。それから彼はようやく腰を上げた。
「どうして欲しい?」
 近づいてくると目の前で立て膝をついた彼の胸に、ジゼルは即座に飛び込んだ。
「撫でて。いっぱい」
 背中に両腕を回してしがみつきながら、涙をこらえて懇願した。
 アッシュも背中に腕を回し返してくれる。
 深く根付いてしまった恐怖は、すぐには消えない。しかしあやすようにゆっくりと背中を撫でられていると、小刻みに震えていた体から徐々に力が抜けていく。アッシュの鼓動が穏やかで、ぬくもりがあたたかく、意識にまでまとわりついていた寒さが和らいでいく。
「鎮静剤だ。少しは落ち着く」
 静かな声を耳に囁かれ、顔を上げるとアッシュが小さな薬瓶を手にしていた。
 薬をたらした指を口の中へ入れられ、舌に薬を塗りたくられる。
「ゆっくり飲み込むんだ」
 言われた通り嚥下すると、たちまち呼吸が楽になっていく。
 全身から残っていた力が抜けていく。しかしそれはとどまることを知らない。脳髄がぐらりと揺らぎ、ジゼルは崩れるようにアッシュに全身を預けた。
「少し強すぎたか」
 何が起こったのか。呆然と見上げていると、アッシュは涼しい顔で悪びれもせず言ってのける。軽く睨んでやったが、今はこのくらい何も考えられない方がいいのかもしれない。

「ここは寒い。暖炉の前まで行けるか?」
 小さくうなずくと軽々と抱き上げられた。
 暖炉の前で腰を下ろし、アッシュはジゼルを自分の膝に乗せる。ジゼルは彼の胸に頬をすり寄せた。
 ようやく体の震えは止まった。喉の渇きもなく、寒気も完全に消えている。
 月とはなんだっただろう。そんなことも分からないほど頭が朦朧としている。
 アッシュが髪を撫でてくれる心地よさだけを感じていた。静寂が戻った室内で、暖炉の火が燃え盛る。その熱よりもアッシュの体温の方が、やさしくジゼルをあたためてくれる。
「……聞こえない」
 ジゼルを撫でながら、不意にアッシュが独り言のように呟いた。
「夜は森から狼の声が聞こえてくる。気高く美しい、凛とした狼の……なのに、もうずっと聞こえない」
 それはジゼルに語りかけているのか。
「もう一度、聞きたい」
 尋ねようとしたが口が重くて動かない。そのうちアッシュは小さく頭を振った。
「私は……私は何を望んでいるんだろうな」
 言いながら遠くに視線を泳がせ、唇を歪める。自嘲するように、自分を責めるように。こっそりと下から覗き見た彼の瞳は、悲しみの色をたたえていた。
 恐怖のために忘れていた。今朝からアッシュの様子はいつもと違う。
 しかしいつも、とはなんなのか。
 今までアッシュの一面しか見ていなかったのかもしれない。常に自信に満ちているように見える彼は、すべてが自分の思い通りになると考えている傲慢な男だと思っていた。
 しかしだとしたら、なぜ彼の手はこんなにやさしいのだろう。
 考えてみればジゼルが助けを必要とした時に、たいていは意地悪く強引にだが、それでもあたたかくジゼルをその腕で包み込んで必ず安心させてくれた。
 ジゼルは体を更に密着させ、アッシュの服を握り締めた。
 

 

 

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