獣が眠る

 

一章(3)

 
 その男の態度はジゼルが屋敷を一ヶ月ぶりに訪れた時も、一年ぶりに訪れた時も同じだった。「久しぶりだな」と言うだけだ。出ていく時も、いつも変わらない
『行くのか?』
 玄関に立ったジゼルに、彼は背後から何気ない声をかけてきた。
 彼は絶対に引き止めない。
『気が向いたら、またおいで』
 ジゼルは振り返らなかった。そうしているうちに、彼は顔を悲しげに歪ませる。顔は見えないが、ジゼルはその気配をいつも密かに察していた。
 彼はジゼルが来ると本当は嬉しいと感じているし、出ていく時も引き止めたいと思っている。しかし彼は寂しい人だ。自分の気持ちが負担になり、ジゼルが二度と来なくなるのではと危惧している。
 だから本心を出せないでいるのだ。そう思うとなぜかほっとする。
 最後までジゼルは振り返らなかった。
 玄関の扉を開くと、錆びた蝶番が不気味な音を響かせる。

 
『ジゼル』
 誰かに呼ばれたような気がした。
 目を覚ますと吐く息が白い。大気が凍え、布団から出ている肩は冷えきっていた。
 朝のようだ。辺りはほのかに明るく、目に映る景色は乳白色にぼやけている。
 ゆったりと波打つ天蓋の外を見ると、ベッドの脇のサイドテーブルの上で燭台に立てられた蝋燭が、いびつな形で冷え固まっている。白い石の壁に視線を這わせていけば、天井の隅に古い蜘蛛の巣がかかっているのが見えた。
 ここは二階のアッシュの寝室だ。他にも寝室があるのに、いつもここで眠らされている。
 それでも昨夜は、触れるだけの口付けをされただけだ。そのくらいならかまわない。夜は冷えるので、寄り添って眠るのはあたたかくて気持ちがよかった。
 ベッドの主の姿はすでにない。もう薬の調合をはじめているのかもしれない。寝ているジゼルを起こさず、ベッドにおいていくのはいつものことだ。
 出ていってから、それほど時間は経っていないらしい。アッシュが横たわっていた場所にまだぬくもりが残っている。そこに冷えた頬を当てると、また眠くなってきた。
 肩に布団をかけ直して目を閉じたが、今朝は瞼の裏がいつもより明るい。違和感に、一度閉じた目は自然と開いた。
 その時、階下から玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
 あの扉は、錆びた蝶番が不気味な音をたてる。
 ジゼルは体を起こし、窓の方へ視線をやった。外に広がるのは針葉樹の森。一階のリビングから見るのと変わらない景色だ。しかし今朝はやけに森が明るい。緑の色も鮮明だ。
 重なり合う枝葉の合間に、ちらりと空が見えた。それは淡い青色をしている。

 霧が晴れている。
 ベッドを降りて窓辺に駆け寄ったが、見間違いではない。絶対に晴れないと思っていた。それほどジゼルがここに来てからの三ヶ月間、我が物顔で森に居座っていた。
 薄い雲に覆われた空に、太陽の姿がぼんやりと見える。日の光は想像していたよりもあたたかくない。薄雲がかかっているせいなのか。
 それでも十分に眩しく、凝視していると目の奥がつんと痛くなってくる。軽く目をこすって階下を見ると、木々の間にアッシュの姿を見つけた。
 森の中に薬の調合に使う植物でも採りにいくのだろうか。一緒に行くなら、外へ出ても怒られないかもしれない。そう思い立つや否や、ジゼルは慌てて寝間着のまま屋敷を出た。
 アッシュの後ろ姿はすでに遠い。森に道らしい道はないが、彼は慣れた足取りで木々の間を縫うように進んでいく。すぐにジゼルは後を追った。
 霜がおりた地面を踏みしめると、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
 歩きながら後ろを振り向いたが、わずかしか進んでいないのに屋敷の姿はすでにどこにもない。
 辺りは木々ばかり。まるで緑に溺れているようだ。この感動は、どれだけ屋敷の中から森を眺めていても得られない。
 頭上に張り巡らされた枝葉の間に覗く空から、徐々に薄雲が消えていく。大気は冷えているが、屋敷にいる時よりも太陽のあたたかさを感じた。
 森を進むにつれ、足場は悪くなっていく。いたるところに折れた老木が横たわり、ぬかるみも多い。しかしジゼルの足取りは喜々としている。
 こんな森の奥まで来たことはない。こんなにも歩くのは、どれだけぶりだろう。
 体が軽い。呼吸が楽になっていく気がする。耳を澄ましているわけではないのに、近くで身を潜めている小さな獣の息遣い、枯れ葉が落ちるかすかな音まで聞こえてくる。
 なぜだろう。怖いほど気分が高揚していく。
(走りたい!)
 そう思った次の瞬間、いきなり木々が途切れて視界が開けた。

 目の前に湖が広がる。空を映したような淡青の水面は薄氷が張り、鏡のように動かない。
 ジゼルは眩しさに目を細め、足を止めた。
 ここは、ジゼルがアッシュに拾われた場所だった。あの時のことは朧げにしか覚えていない。いつから意識があったのか、自分は誰なのか、なぜここにいるのか。どこから何を考えていけばいいのかも分からなくて混乱していた。
 結局あの時、ここで何をしていたのだろう。
 先に辿り着いていたアッシュは、湖畔にたたずんで水面を見つめている。
「この日が、こんなにも早く来るとは思わなかった」
 ジゼルが追ってきたことに気づいていたようだ。彼は背を向けたまま口を開く。
「なんの日だ?」
 ジゼルの質問に言葉では答えず、アッシュはゆっくりと空へ視線をやった。
 霧が晴れている。そのことを言いたいのだろうか。
「記憶を取り戻して欲しくない」
 言葉を続けたアッシュは、ジゼルに背を向けたままだ。
 声には抑揚がない。違和感を覚えた。声から彼の感情は読めなかったが、いつもと雰囲気が違うのは分かる。後ろ姿もどこか寒々しく、近寄ることを拒んでいるような気がした。
「君を放さないと心に決めた。他の誰にも渡さない。しかし記憶が戻れば君は……」
 他の誰にも。
 そう言われて脳裏をよぎったのは、時々、幻聴で声を聞くあの男の存在だった。さっきも夢の中で名前を呼ばれた気がする。しかし誰なのか思い出せない。
「記憶が戻れば、君は私を許さない。いや、今更どうこう言っても仕方がない。今夜、君は思い出してしまうかもしれないんだ」
「アッシュは……」
 彼のことを知っているのか。そう尋ねようと口を開いたが、言葉は最後まで続かなかった。
 アッシュが振り返り、思わず息を呑んだ。
「その恰好では寒いだろう」
 アッシュが外套を脱ぎながら近づいてくる。外套を寝間着姿のジゼルの肩にかけると、白い息を吐く唇を重ねてきた。

 意識していなければ気づかないほどの口付けを終えると、アッシュのそれは消えている。
 しかし振り返った時、確かに彼の顔は悲痛に歪んでいた。いつも自信に満ちた顔をしているのに。掠めた唇もかすかに震えていた。
 見てはいけないもののような気がした。
 アッシュは何事もなかったように、来た道を戻りはじめる。
 もう屋敷に戻ってしまうのだろうか。もっと森を歩きたい。しかしアッシュは木々の中に姿を消していく。ジゼルについてくることを強要するわけでもなく、ただ一人で。
 肩にかけられた外套に、アッシュのぬくもりが残っている。薬草の匂いが染みついたそれに包まれていると、まるでアッシュに抱き締められているような気がした。
 それなのに実際の彼は遠い。
 ジゼルはアッシュの姿を見失わないように後を追った。この次はいつ外に出られるか分からない。それなのになぜ素直に従ったのだろう。
 ただアッシュのあの表情が頭から離れない。
 

 

 

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