獣が眠る

 

一章(2)

 
 振り子時計が時を刻む音と、暖炉で火の粉が弾ける小さな音が聞こえてくる。
 一階のリビングで、ジゼルは絨毯に頬を当てて寝転がっていた。
 目が覚めたのは昼前で、その数時間後にようやくベッドから起き上がれた。這うようにしてここまで来たが、それだけで力尽きた。まだ腰が重い。まだアッシュが中にいるようだ。絨毯の長い毛足を揺らした溜め息が火照っている気がする。
 それは疲れのせいだと自分に言い聞かせ、ジゼルは寝返りを打った。
 窓の方へ顔を向けると、外に広がる針葉樹の森が見える。
 アッシュの屋敷は、広大な森の奥深くに建っているらしい。濃い霧が立ちこめている陰鬱なところだ。ジゼルが知る限り、霧は一度も晴れていない。空を隠し、陽光をさえぎるそれのせいで森は常に薄暗い。
 その上、静かだ。時々、鳥の長鳴が霧の中に滲むように響くが、他は何も聞こえない。
 環境が眠気を誘う。どうしようもなく瞼が重くなってきた。
『もう行くのか?』
 まどろむ耳に男の声が聞こえてくる。
『またおいで。君の好きなミルクを用意しておいてあげよう』
「子供じゃないんだ。別にミルクなんて……」
 答えかけてジゼルは我に返った。すぐに体を起こして室内を見回したが、誰もいない。
 今の声は誰だったのか。自分は誰に言葉を返そうとしたのだろう。

 時々、幻聴を聞く。これがはじめてではなかった。たった今、聞いた声も言葉もすでに思い出せないが、声の主がいつも同じ男だということは分かる。
 声を聞くと、喪失感が胸を締めつける。
(会いたい、のかもしれない)
 彼のところへ行きたい。しかし顔も名前も、どこにいるかも分からない。
 ジゼルは再び四肢を投げ出して絨毯に突っ伏した。
 この屋敷の中が、ジゼルの知っている唯一の世界だ。
 アッシュ以外の人の姿も見たことがない。アッシュが一歩でも外に出ることを許さないからだ。散歩のつもりで外へ出ても、数分も経たないうちに捕まって連れ戻される。
 森の外には人が住む村や街がある。海や山もあるかもしれない。それ等の言葉と意味を知っているだけで、光景は浮かんでこない。
 日の光が心地いいことを知っていても、そのぬくもりまでは想像できない。
 外で確かめたいことは色々ある。しかしアッシュの目を盗むのは不可能だ。
 それにジゼルは記憶が戻らなくていいとも思っている。
 怖いのだ。常に感じている漠然とした不安をなくしたいが、記憶が戻るのが怖くもある。
 思い出そうとすると、目眩と吐き気に襲われる。地下室で血臭を嗅いだ時と同じように。
 それは失った記憶も血の臭いがするものだからではないのか。だとしたら記憶が戻るのが、必ずしも自分にとっていいことだとは限らない。

 疲れのせいで、つまらないことを考える。ジゼルは自分の両肩を抱いた。
 目を固く閉じると、瞼の裏に鮮やかな色彩が広がりはじめる。それは血を染み込ませたように赤いジゼルの瞳と同じ色。
 まただ。記憶のことを考えるとこうなる。
 視界で赤色が渦を巻く。今は目を閉じているのか、開けているのかも分からない。
 体が震え、背筋に冷たい汗が滲む。服の上から皮膚が裂けるほど爪を立て、痛みで落ち着きを取り戻そうとしたが、あの吐き気がこみ上げてきた。
 何かが胸を圧迫している。おそらくそれは思い出すべきではない記憶だ。
 気持ち悪い。喉がひりつくほどに渇いている。何がこの渇きを癒してくれるのか。
「あたたかくて……赤い……っ」
 その時、背後で戸が開く音がして我に返った。
 リビングに入ってきたのはアッシュだ。振り返らなくても匂いで分かる。彼は今日も朝からずっと薬草を触っていたのだろう。たちまちリビングにその匂いが漂った。
「起きているんだろう。少し遅いが昼食だ」
 人の気も知らずにアッシュは言う。
 しかし吐き気は治まっている。ひりついていた喉も、嘘のように鎮まっている。視界はもう赤くない。瞳は元の景色を映している。
 不穏な気配は去ってくれた。
「朝も食べていないんだ。食べた方がいい」
 アッシュは更に言う。背中を向けているので、彼にはジゼルの表情が見えない。目に怯えが浮かんでいるのも見えないだろうが、ジゼルの異常に気づかないはずがなかった。
 だいぶ落ち着いたが、肩を上下させて荒い呼吸をしている。四肢がまだ震えているのに。

「まあ、いい。君が食事より眠気を優先するのは昔からだ」
 無視してそのままじっとしていると、溜め息混じりの声が聞こえてくる。
「昔から……って、俺はアッシュと昔からここに住んでたのか?」
「満足するまで寝れば、何も言わなくても食べてくれるからな。添い寝をしてやろうか?」
 過去をちらつかせたのに、アッシュはとぼける。
 吐き気をともなう記憶を取り戻したいと思わないが、彼の態度は釈然としない。
 ジゼルは息を吐きながら四肢を伸ばした。ようやく震えは止まったが、次に体を襲ったのは脱力感。絨毯に沈み込んでいくような気がするほど、全身が重い。
 異様な眠気にも襲われる。瞼を開けていられない。このまま疲労に任せて眠ってしまえば、まだかすかに胸に残る不穏な気配も、綺麗に消えてくれるかもしれない。
 そう思って目を閉じると、すぐ側でアッシュが腰を降ろす気配がした。
 いつの間に近づいてきたのか。頭を撫ではじめた彼を睨もうとしたが、瞼は開かない。
 アッシュの手の動きは、体を求めてくる時のものではなかった。
 眠りを妨げるのではなく、むしろ促すよう。速くもなく遅くもなく、強くもなく弱くもない。愛玩動物を撫でるようなそれに抗う気が起きない。
「落ち着いてきたようだな」
 しばらく心地よさに意識を奪われていると、アッシュの静かな声が降ってくる。
 記憶のことを考えたせいで体に異常をきたしたと、分かっていたのだろうか。こうして撫でているのは心配しているからなのか。
 夜以外の時間にかまってくるのは珍しい。彼は日中、ずっと研究室にこもっている。食事の時しか出てこないし、その時も特に触れられることはない。
 しかし前にこの発作に見舞われた時も、同じように撫でられた気がする。
 そこに気を回す前に、昨日のような態度を改めて欲しい。こういうふうに撫でられるのは、それほど嫌ではないのに。
『ゆっくり、おやすみ』
 眠気が限界に達した時に耳を掠めたその声は、アッシュだろうか。
 それとも幻聴だったのか。
 

 

 

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