ジルベール考

 

05

 
 自室に戻ると、ジルベールは戸に背を寄りかけて深い溜め息をついた。
 灯りをつける気にもならない。体が重い。すぐに横になりたいほどだ。
 本の復元作業が順調に進んでいたのは、はじめだけだった。徐々にぼんやりすることが多くなり、ついには使い物にならなくなった。
 作業をしていたのはサヴィア直属の部下で、気心の知れた者ばかりだ。彼等はゆっくり休むように言ってくれたが、自分から手伝いを申し出たのに情けない。
 普段なら、このくらいの作業量では疲れを感じない。
 疲労の原因として考えられるのは、日中に取り乱してしまった『あれ』しかなかった。

 いつまでも戸に寄りかかっているわけにはいかない。もう一度、吐息を漏らすと、ジルベールは戸から離れ、窓辺に置いたオイルランプに火を点した。
 質素だが広い室内には私物はほとんどなく、必要最低限のものしかない。そのせいでより広く感じる。
 居住棟の外れにあるここは、他の一人部屋と作りが違う。なぜこんなにも立派な部屋が与えられたのか分からない。サヴィアの指示なので文句は言えないが、広すぎて落ち着かなかった。
 ただ、窓からの景色はいい。
 魔道図書館は街の高台にある。最上階のここから見える、夜闇に散りばめられた民家の明かりはあたたかい。中心部にある大聖堂の鐘の音が、かすかに耳をくすぐると穏やかな気持ちになれる。
 ジルベールは窓のヘリに軽く腰かけ、服を脱いだ。
 着替えようとしたが上半身裸になると、窓硝子にぼんやりと映りこむ自分の姿に気づいて手を止めた。
 白い胸に腹に、背に、ムチとナイフで切り刻まれた無数の痕がある。ゆっくりとそこに手を這わせ、両肩を抱いた。
 そのうち消えると思っていたが、何年経っても消えない。おそらく一生、抱えていくのだろう。
 見るたびに寒気がする。肌を切り刻まれ、傷が治りかければ爪を立ててえぐられた記憶が蘇る。苦痛に歪む顔と悲鳴を楽しむあの男――アマデオ・バートリーの笑い顔が、脳裏にちらつく。
 しかし昼間に蘇った恐怖に比べれば、可愛いものだ。
「あんなのは、久しぶりだ……」
 サヴィアと関係をはじめた頃は、時々、吐き気をもよおしてサヴィアを困らせてしまっていたが。
「それと、あいつは……まだ気にし続けてるんだな」
 カディのことだ。人のことを後ろ向きだとうるさく言うのに、彼も同じだと思う。
「ジル、入るぞ」
 突然、部屋の外から声が聞こえてきた。たった今、考えていた男の声だ。  彼は言うのと同時に戸を開ける。服を着ようとしたが、やめた。慌てて隠せば、余計な気を遣われそうだ。
「まだ……残ってるのか」
 部屋に入ってきたカディは、顔を険しくさせて神妙な声を漏らす。彼のそれは同情や哀れみとは違った。
「痛みは?」
「痕だけだ。疼くこともない」
 カディだからこそ、さらりと答えられる。
 傷について聞かれるのは、あまり好きではない。サヴィアにもだ。
 しかしカディは傷の経緯を、十分すぎるほど知っている。消し去りたい過去を共有しているせいだろう。同情や哀れみではなく、ただ理解してくれる彼に聞かれても気にならなかった。
「そうか」と小さく相槌を打ったカディに、これ以上、傷に触れる気配はない。
 ジルベールが服を着直して肌を隠すと、彼は表情を緩ませた。

「悪いな。寝るところだったんだろ? 面倒な作業してるってベアトリスから聞いたし、疲れてるようだし」
「用があったんだろう?」
 ジルベールの問いに答えず、戸の前に立ち尽くしていたカディは窓辺に近づいてくる。
 何をするのか見ていると、いきなり長い髪を束ねていたリボンを解かれた。
「伸びたな」
 カディはジルベールの銀の髪を指に絡めて梳く。
「路頭に迷った時に、売れば少しは金になるだろう」
「まさか、そんな理由で伸ばしてるのかよ」
 そんな理由だ。暑くなると鬱陶しい、髪が細すぎて綺麗にまとめるのが難しい。理由がなければとっくに短くしている。
「俺は長い方が好きだ」
 指に絡めたジルベールの髪に視線を落とし、カディは呟いた。
 そうしながら、妙に大人しい。昼間のことが気になるのだろう。ここに来たのも、そのためだと思う。
「気に病むな。別に私はお前を、恨んでなんかいない。本当だ」
 昼間に言えなかった言葉を伝えると、カディは髪から手を離し、窓の外に視線を泳がせた。
「お前は、俺を責めていいんだ」
 そして溜め息と共に呟く。
 なぜ責めなければならないのか。
「感謝している。あの男の城から、私を連れて逃げてくれたんだ。一人でも行けたのに。カディがいなければ、私はいまだにあそこにいただろう」
「連れ出したのだって、罪滅ぼしでしかない」
 何を言ってもカディは自分を責める。
 こんな会話を今までに何度も繰り返していた。カディは飽きずに自分を恨めというが、恨む要素がない。どうしたものかと、ジルベールは髪をかき上げた。

 その時、不意に眩暈がする。やはり疲れているのだろうか。さっきから時々、頭の中が空白になる。今は特にひどく、カディとなんの話をしていたのかも忘れてしまった。
「俺は……」
 カディは固く握り締めた手を震わせながら、重々しく唇を動かす。
 その声で我に返り、思い出した。不毛な会話をしていたのだ。
「俺はお前を……抱いた。一度じゃない。何度も、何度も、ひどいやり方で……」
 カディが気にし続けているのは、そのことなのは知っている。しかし仕方がなかったことだ。
「命令だったんだ。逆らえば、殺されていたかもしれない」
 アマデオの命には逆らえない。植えつけられた恐怖が、逆らうという思考を奪っていた。ただただ従順に、玩具として生きているしかなかったのだ。 「自分の保身のためにお前を傷つけた。お前の、苦痛に歪む顔が忘れられない」
「挿れられれば、良くても悪くても痛いものだ」
「ジル!」
 カディが声を荒げてジルベールに向き直った。
 わざと軽薄なことを言ったのだ。怒るのは当然だろう。しかし彼は怒っていない。他人のことなのに、自分が傷ついたように顔を歪めている。
 こんなにもやさしい彼を罪悪感で苦しめる自分こそが、恨まれるべきだと思う。  ジルベールはカディを見つめながら苦笑した。
「私は誰にでも脚を開く男娼だった。ただそれだけだ」
「やめろ……」
「はっきり言って、カディとのことはあまり覚えてない。あの頃に抱かれた男の数を思えば、当然だろう。覚えていろという方が難しい」
「俺は覚えてる」
「そんな理由で、ずっと私の側にいるつもりか? 私への負い目に苛まれながら。カディは自由にどこへでも行けるのに……」
「俺がいない方がいいのは分かってる。俺がいたら、いつまで経っても忘れられない」
 カディは喉からしぼり出すような苦しげな声でジルベールの言葉を遮り、静かに続ける。
「お前に昔を思い出させて、そんなふうに自嘲させているのも俺だ。分かってる。でも離れられない。調査に出ている時も、少し離れただけでも、お前のことが気になって仕方がないんだ」
 カディがいてもいなくても、思い出す時は思い出すだろう。
 なぜ分かってくれないのか。今まで彼がいたから、恐怖が蘇っても堪えてきた。昼間もそうだ。彼はいつも助けてくれる。

(馬鹿なヤツ……)
 ジルベールは、カディの痛々しい視線から逃れるように目を伏せた。
 その時、再び眩暈に襲われる。
 瞼の裏に白光が滲むように広がり、思考が消えた。耳から何も聞こえてこない。体を動かそうとしたが、どこに自分の体があるのかも把握できなかった。
「カディ、竜を見たことがあるか?」
 ようやく聞こえてきた音は、男の声だ。それが自分の声だと、しばらくしてから気がついた。
 何を言っているのか。めくっていた本のページを飛ばしたような、奇妙な感覚に襲われる。本など開いていないのに。
 ようやく体の自由を取り戻し、ゆっくりと瞼を開けると、カディが不思議そうな顔で見つめていた。
「あるわけないだろ、そんな神獣」
(銀の髪の男は「忘れているだけだ」と薄く笑う……)
 頭の中に文字が浮かぶ。
「忘れているだけだ」
 その文字通りに、ジルベールの口が無意識に動いた。頬が緩む。笑うつもりはないのに。
「男の側に竜がいる。竜の意思ではなく、男の意志でもなく、ただ世界の意思が根底に……」
 自分が何を言っているのか、まったく分からない。頭に浮かんでは消えていく文字を理解できない。
 頭の中で、本のページがもの凄い速さでめくられていく。あまりに速く、何一つ記憶に残らなかった。
『ジル、どうしたんだ?』
「ジル、どうしたんだ?」
 巡り続ける文字の上から、カディの台詞が劇の台本のように浮かぶと、カディはその通りに話す。
「これは……なんの本だ?」
 自分のその言葉さえも、頭に浮かんだ文字だった。
「仕事で文字ばっかり見て、疲れてるんだ。寝ろ」
 突然、カディに髪をくしゃくしゃと両手で乱される。
 騒がしい頭の中が、ゆっくりと落ち着いてきた。カディの言う通りかもしれない。大量のページが入り乱れた本を見て、混乱しているのかもしれない。
「そうする」
 口の中で小さく呟くと、カディが離れていく。
「悪かったな」
 そう言い残して部屋を出ていくカディを、ジルベールは微動だにせずぼんやりと見つめていた。

 前にも一度だけ、似たような体験をした。
 アマデオの城から逃げ出そうと、カディに腕を掴まれた時だ。まだ読み書きができなかったのに、頭の中に浮かぶ文字を理解できた。内容までは理解できなかったが。
「あの時、竜を見た……」
 まただ。唇が勝手に、頭の中に浮かんだ文字を声にする。
 しかしその言葉は理解できた。確かに、カディに腕を掴まれた時、竜を見た。
 黒い竜。巨大なそれの末路までを見たのだ。脳裏を駆け巡る物語は、あまりに速く記憶することはできなかったが。
 今まですっかり忘れていた。奇妙な体験だというのに。
 ふと、床に古びた紙がひらりと落ちる。ズボンのポケットから落ちたようだ。
 手に取ると、それはここにあるはずのない『ヘルツォークの遺言書』の一部だった。
 あの後、はじめのを合わせて出てきた『ヘルツォークの遺言書』は五ページ分。気づけば、そのすべてがジルベールを囲むように床に落ちていた。
 

 

 

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