ジルベール考

 

04

 
 九棟を出て、渡り廊下を走り抜ける。
 肌がざわめいていた。全身の毛穴から、冷や汗と共に蟲が湧き出してくるような気持ちの悪さだ。あるいは生あたたかな舌で、ねっとりと舐め回されている感じだった。
 視界が回る。目が何を映しているのか分からない。どこにいるのかも分からない。足は何をしているのだろう。地面を蹴って走っているのか、それとも――
(ベッドで、シーツを虚しく蹴っているのか?)
 組み伏せられ、醜悪な男の体の下で、腰を揺らしながら。
 自分のおぞましい想像にぞっとする。しかし、本当に想像でしかないのか。視線を感じる。あの男が近くにいるのではないか。
 頭の中で、下卑た笑い声がジルベールを呼ぶ。
『私の……』
 あまりにも鮮明で、恐怖に涙が目ににじむ。
 逃げなくてはいけない。あの檻には戻りたくない。
 その時、背後から腕を掴まれた。
「おいっ、ジル?」
 聞こえてきた声は、カディのものだ。

 途端に体から力が抜ける。緊張の糸が切れ、ジルベールはその場に崩れると嘔吐した。
 吐き気はなかなか治まらない。ようやく胃液すら出なくなり、空咳をしながら顔を上げると、涙でにじんだ視界にカディが映った。
 彼は心配そうに顔を歪め、背中をさすってくれている。
「お……俺は、まだ……そんな、名前を聞いただけでこんな……」
 ジルベールはカディを凝視しながら、嗚咽がこぼれる震える唇を噛み締めた。
 久しぶりに、心構えもなく聞いたせいでもある。しかし自分の弱さには呆れる。
 何年も経っている。サヴィアに生きる道を示してもらい、こうやって図書館で仕事をし、カディやベアトリスのような友人もいる。なんの取り柄もないのは昔と同じだが、幸せだ。
 立ち直っていてもいいはずなのに、なぜ取り乱してしまったのだろう。
 呆然としていると、カディが袖でジルベールの涙を拭い、口元を拭う。
 ジルベールはゆっくりと長い息を吐いた。
 辺りを見回したが、誰もいない。九棟の裏庭のようだ。人気がないのが幸いだった。
 立ち上がろうとすると、カディが手を貸してくれる。
「もう大丈夫だ。悪い、服を汚してしまったな」
「大丈夫なわけねえだろ。部屋で休め」
 何を口走ったのか、あまり覚えていない。しかし心配そうに眉を寄せているカディの様子からして、取り乱した理由は察したのだろう。
「仕事に戻る。今は、一人になりたくない」
 一人になれば、またあの恐怖を思い出してしまいそうだ。
 うっかり弱音を吐くと、カディはジルベールを支えていた手を離して顔を逸らした。
「だったら、サヴィアのところに行け。あいつの側にいたら、少しは安心できるだろ。俺はもう消える」
 カディの口から、サヴィアに頼れという言葉が出てくるのは珍しい。
 そう言った彼の横顔は、自分を責めているように見えた。
「いない方がいいからな。今は、その方が落ち着けるはずだ」
 この男は、何を勘違いしているのだろう。
「別に俺はお前を……」
「ジル、『俺』って言ってるぞ」
 不意にカディが口元を歪めた顔をジルベールに向け、言葉をさえぎる。
 今度はジルベールが顔を背ける番だった。

 しくじった。田舎出身の上、育ちも良くない。だから言動にはいつも気をつけている。側にいても、サヴィアが恥ずかしくないようにと心がけている。
 自分を『私』と呼んだくらいで、育ちは隠せていないだろうが。
「気取ってないで、昔みたいに『俺』って言えばいいだろ」
「言わない」
「時々、ぽろっと出るくせに」
「うるさい」
 言葉を返しながら、カディと話しているこの口調は、あまり品がよくないのではないと思いはじめたが、どんな言葉だと品がいいのかよく分からなくなってきた。
「私は君が無駄で無意味な努力をしているのが、たまに腹がよじれるほど可笑しくてたまらないのだが」
 いきなりカディは真顔で妙な口調を使う。
「やめろ。笑う」
「だからその言葉、そっくりそのまま返すって」
 カディが顔をほころばせたので、ジルベールもつられて頬を緩ませた。
 気づけば、すっかり気持ちが落ち着いている。
「カディ、ありがとう」
「迎えが来たようだけど、まずは顔を洗えよ。美人にもほどがあるぞ」  カディがそう言いながら視線を向けた方向を見ると、ベアトリスが慌てた様子で走ってくるところだった。
 

 

 

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