03
部屋に入るや否や目に飛びこんできた光景に、ジルベールは眉をひそめた。
「聞いてはいたが、ひどい有様だな」
古びた紙が山のように積まれている。元はそろえて綴じられ、本の形をしていたとは到底思えない。無残な姿だった。
魔道図書館のこの第九棟は、外部から持ちこまれた魔術書を一時的に安置する部署だ。
目の前にある本の残骸も、失踪した枢機卿の屋敷から見つかったもので、ついさっき運ばれてきた。
「これで全部か?」
「まだ、あるんだ」
ジルベールの問いに、隣にいる青年がうんざりした様子で答える。顔を向けると、彼――ベアトリスはやさしげな顔に苦笑を浮かべた。
穏やかで人懐っこい雰囲気が漂う彼は、サヴィアの愛弟子で、ジルベールの友人だった。
「地下にあった書斎の天井が、調査中に崩れたらしい。とりあえず掘り出して持ってきたのがこれ。まだ瓦礫に埋まっているのが、これの二倍……」
今の時点で五、六十冊は下らない。二、三日以内に残りが運ばれてくるようだが、それ等もすべて本の形を成していないという。
「何か意図があったのかもな。これだけバラバラだと、朽ち果てたわけじゃなさそうだ」
「意図があってなくても、とにかく危険だな」
ジルベールの言葉に、ベアトリスはうなずいた。
魔術師の字には、時にその魔力が宿る。無意識に、あるいは故意に。複数の魔術師が書き残した本が混ざれば、元は小さな魔力しか潜んでいなくても、何が起きるか分からない。
第九棟には、魔道書の暴発を防ぐ結界が張り巡らされている。外部から持ちこまれた書物に、危険がないか図書館所属の魔術師が調べる場所だ。
ここにあればひとまず安全ではあるが、いつまでも放置しておくわけにはいかない。
「全部元通りにしろなんて、サヴィア様は簡単に言うけど、一つ一つ館内の蔵書と照らし合わせるんだぞ。どれだけかかるんだよ」
ベアトリスは溜め息をついて肩を落とし、自分の唇の前に人差し指をそっと当てた。
「って、俺がこぼしたのは、サヴィア様に内緒な」
「言わないが、ベアトリスが復元の指揮をとるのか? 九棟の魔術師じゃなく?」
本に潜んだ魔力の残滓を読み、同じ流れのものを集めれば、文字を読まなくても本の復元はできる。それができるのは魔術師だけだ。
しかしベアトリスは、ジルベールと同様に魔術の才を持っていない。
「全体に結界が張られていて、魔力を読み取るのが困難だってさ。結界の解読はできるけど、それよりサヴィア様直属の研究者が選別した方が、速いだろうとかなんとか。九棟の魔術師長に丸投げされた」
職務怠慢だ。
「九棟は長をはじめ、サヴィア様に反感を持つ者が多いからな。でも表立って反意は唱えられない。だからサヴィア様の右腕のベアトリスを無駄に煩わせて、ささやかな抵抗をしているんだろう。子供っぽいプライドのために、仕事を放棄するなんて」
「ここでそんなこと言うなよ」
ベアトリスが慌ててジルベールの言葉をさえぎった。
隣の部屋に魔術師がいるのは知っているが、聞かれてもかまわない。面と向かって言ってやりたいくらいだ。
しかし図書館の研究者ではなく、ただの雑用をする男が、出すぎたマネをするべきではない。言葉がすぎたと小さく謝罪すると、ベアトリスは苦笑した。
「ほんと、サヴィア様が絡むとキツイよな。お前」
カディにはよく言われるが、彼にまで言われるとは実際にそうなのだろうか。自覚はない。
ジルベールは紙の山に近づくと、適当に手に取ってみた。
「『ハドラ文書』五百四十八ページ」
書かれた文章を目に映せば、即座にその文章が収納されている書物の情報が頭に浮かぶ。
「こっちは『トラルバリア空想図』の六十七ページ、九章だ。『カルトマリス』もあるな」
「いつもながら、ちょっと怖いくらいだぞ? ぱっと見ただけで、よく分かるな」
不意に紙をベアトリスに奪われた。
文字を睨みながら渋い顔をした彼は、しばらくすると諦めたのか。元の場所へ戻した。
「ほんの少し、記憶力がいいだけだ」
開いたことのある書物は、内容、字のクセや行間の幅まで覚えている。見るだけで勝手に頭に焼きついてしまうのだ。
「あのな、少しぐらい記憶力がいいからって、本の暗記はできないんだからな。いつになったら自分の能力を認めてやるんだ?」
ベアトリスは呆れたように言い、ジルベールは本の山に視線を落として溜め息をついた。
彼はいつも買いかぶる。彼が思うほど特別な能力ではない。暗記したからといって、内容を理解しているわけではない。頭の中にレプリカを作るだけなのだ。
評価されるものなら、サヴィアはこの記憶力を使ってジルベールに仕事をさせるはずだ。しかし一度もそういったことはない。
本を暗記するように言われたこともない。今、頭に入っている本の情報は、棚整理や目録作成などの雑務の際に、無意識に覚えてしまっただけだ。
「とにかく、見たことがあるものが多いようだし、選別くらい私にもできそうだ。やらせてくれ」
こんな時にしか役立たない。
「実は、俺もジルベールに手伝ってもらおうと思ってたんだけど」
快い返事をくれると思ったが、ベアトリスは困惑した様子で言葉を濁す。
「サヴィア様に怒られたんだ。お前はこんなことでジルベールを動かすのか、って」
「私が興味本位で手伝ったことにすればいい。サヴィア様は興味を持つ者を止めないし、叱らない」
「ジルベールっ。ありがとう!」
提案するや否や、ベアトリスの大声が天井の高い室内に響いた。ジルベールの両手を握り締め、心底、うれしそうに砕顔する。
大したことではないのに、こんなにも喜ばれると照れくさい。ジルベールは伏し目がちにはにかみながら、紙の山の前に膝をついた。
「さっさと片付けてしまおう。残りが来る前に、今あるものは」
言葉は途中で呑みこんだ。
急に眩暈が襲う。
「血文字、じゃないな。赤いインクか」
ベアトリスの声に我に返ると、いつの間にか山の中から一枚の紙を抜き出していた。
黄ばんだそれには、赤い字で文章が走り書きされている。
「『ヘルツォークの遺言書』」
ジルベールは眉を寄せ、その文章が収められている本の名を口にした。
「確かか? って、ジルベールが言うなら間違いないな。第一級の禁書じゃないか」
ベアトリスの声も曇る。
『遺言書』は三十年ほど前にヘルツォークという狂人が、この世へ恨みを書き綴った呪いの書。大半が支離滅裂で解読不能だが、国教非難は教会が見過ごせるものではなく、著者は磔刑に、本はレプリカも含めて燃やされた。
現存を許されているのは、魔道図書館の奥深くに安置されている一冊のレプリカだけだ。
「サヴィア様に指示を仰ごう。とりあえず枢機卿の屋敷に残ってないか、調べる必要はあるな」
文章の一部の複写でも、所持は法で禁じられている。それを取り締まるのも、魔道図書館の仕事のひとつだった。
「『ヘルツォーク』か。確かバートリー子爵が」
不意にベアトリスが口にした名前に、ジルベールは反射的に体を強張らせた。即座に冷たい汗が背筋に浮かぶ。思考を忘れ、胸には心臓を握りつぶされたような鈍痛が走った。
「数年前にも、バートリー子爵がレプリカを所持しているって噂があった。うやむやのまま調査は打ち切りになったけど、忘れた頃に名前を聞く本だな。そんなにレプリカが闇で出回ってるのか?」
その名前を、なぜ、今、ここで聞かなくてはならないのだろう。
「アマ……デオ……」
呟いたのはジルベールの意思ではなく、声は自分のものではないと思うほど枯れていた。
「そう。アマデオ・バートリー子爵。他にも多数の禁書所持の噂があるけど、退役した後も軍の一部に絶大な人気を誇ってる人だからな。確実な証拠がないと強く出られない」
徐々に速まる鼓動の音が耳元で鳴り響き、ベアトリスの声が途切れ途切れに聞こえる。
呼吸ができない。どうすればできるのか、思い出せない。
「ジルベール? どうしたんだ、顔色悪いぞ」
ベアトリスが顔を覗きこんでくる。
吐き気がする。
次の瞬間、ジルベールは口元を押さえて部屋を飛び出した。
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