赤色

 

番外【六月の雨】

 
 雨の降りしきる暗い日だった。
「誰だ?」
 ようやく赤彦の部屋に辿り着いた宗一郎を迎えたのは、聞き覚えのない男の声。
 室内に明かりはともっていない。閉られたカーテンに隣の建物の広告ネオンが、刻々と色を変えながら映っているだけ。
 その光が不審な男の横顔を妖しく照らす。
 男は椅子に腰掛け、靴を履いたままの脚を食卓に上げていた。
 我が物顔でそこにいるが、いったい誰なのか。
「ここは今井神父の部屋では……」
 宗一郎は訝しげに眉を寄せた。
「まだ帰ってきてねえみたいだな」
 部屋を間違えたわけではないようだ。彼も赤彦を知っている。

 宗一郎が神父、今井赤彦に出会ったのは、半年前のことになる。
 瀕死の少女を抱え、自らも肩に目を覆いたくなるような深い傷を負いながら、彼は宗一郎の診療所の戸を叩いた。
 一目見た瞬間に彼に恋をした。
 それまで同性に恋愛感情を抱いたことはない。しかし赤彦は性別など考える間もなく、宗一郎を虜にしてしまった。
 もともと恋愛には淡白な性格だったはずだ。
 それなのに気づけば、何をしていても赤彦のことばかりを考えている。
 最近では週に一度は必ず、彼に会うためにこの部屋を訪れていた。肩の傷はすっかり塞がっているというのに、後遺症が気になると医者の顔をして言いながら。恥も外聞もない。
 おそらく赤彦にはそれが口実だとばれている。同じ男に恋慕の情を抱かれていることにも、気がついているだろう。
 それでも彼は嫌な顔一つせず、宗一郎を快く迎え入れてくれる。
 しかし今日は妙なことになった。
 この時間、いつもなら赤彦は帰宅している。鍵が開いていたのでてっきり教会から帰ってきているのだと思ったのだが、いたのは見知らぬ男だけ。

 雨足が強くなってきたようだ。空から落ちる水滴が容赦なくこの古びたアパートを打つ。轟音が建物内部に響き渡っていた。
 室内は更に暗い。
 その不気味な暗闇の中で、男の大きな瞳が異様に目立っていた。彼は微動だにせず、剣呑な眼差しを宗一郎に向けている。
 まるで獣が獲物を物色しているようだ。
「今井神父のお知り合いですか?」
「お前は?」
 自分は答えず宗一郎に問い返す。男もこっちを不審に思っているようだ。
 宗一郎は男の方へと歩み寄り、彼の頭上にある電灯をともした。
 緋色の光が滲むように広がり、彼の顔をあらわにさせる。
 ひどく大柄の男だった。
 無造作に髪を肩まで伸ばし、夏も近いというのに長袖を着込んでいる。
 歳は同じくらいだと思う。どこか穏やかでない雰囲気を漂わせる美丈夫。彼の雄々しさは、同じ男として淡い劣等感を覚えてしまうほどだ。
「僕は……医者です」
 仕方がなく正体を明らかにすると、男は急に興味がなくなったとばかりに煙草を取り出し、口に銜えた。
「あいつの怪我を看た奴か」
 あいつ。その言葉は赤彦を指しているのだろうか。

「凪人?」
 ふいに背後から甘く掠れた声が聞こえ、振り向けばいつの間にかこの部屋の住人が立っている。
 目眩がするほどの美貌を持つ、今井赤彦本人だ。
 傘を持っていなかったのか。濡れた髪から雫がひたひたと滴り落ちている。頬を伝い、喉元に流れていく。抜けるように白い肌をほのかに光らせ美しい。
 宗一郎はいつも通り見蕩れていた。その顔に、その肌に、その赤い唇に。
 どこか儚げな空気をまとい、華奢なわけではないが、抱きしめてその肩を支えてあげたいと思わせる。
「よう、赤彦」
「久しぶりだね」
 男が親しげに声をかけると、赤彦は唇をゆるりと開く。
「勝手に入ったぞ」
「かまわないよ。いつものことだろう?」
 言葉を交わしながら赤彦は満面に笑みを浮かべた。
 恋い焦がれる男に嬉々として声をかけようとしていた宗一郎は、思わず口をつぐんだ。
 体から雫を落としながら赤彦は、凪人と呼んだ男に足を向ける。
「ああ、相川先生。こんばんは」
 宗一郎への挨拶もそこそこに。
「顔をよく見せて」
 凪人の側に立つと何気ない仕草で彼の頬を両手で包み、やさしく上向かせた。
 二人がじっと見つめ合う。その時間がひどく長く感じられた。
「元気そうだ」
「誰に言ってんだ?」
 されるがままになりながら、凪人が不敵に笑う。
 その笑みを受けて、赤彦は幸せそうに目を細めた。

   赤彦のこんな顔を見るのははじめてだった。
 確かに出会ってから間もないが、一通り彼の表情は知っていると思い込んでいた。
 この二人の関係はどういったものなのかと、詮索せずにはいられない。
 凪人に向けた赤彦の極上の笑みは、胸を高鳴らせるのと同時に焦りをも生み出した。
 恋人同士なのだろうか。
 宗一郎の赤彦を見つめる視線にふと凪人が気づき、唇の片端を吊り上げた。
「へえ」
 そして何もかも分かったと言わんばかりの顔つきで、宗一郎を鼻で笑う。
「なんですか?」
「別に」
 憎たらしげに言いながら紫煙を吐き出し、ためらいもなく煙草の灰を床に落とす。食卓に脚も乗せたままだ。
 こんな礼儀のない男が、赤彦の恋人であるがはずがない。

「ああ、二人は初対面だったね」
 赤彦は上機嫌だった。
 宗一郎と凪人にお互いを簡単に紹介すると、濡れたまま凪人の向かい側の席に座ろうとする。
「そのままじゃ風邪をひきますよ」
 宗一郎が気遣うと、赤彦は額に張りついた髪をかき上げる。そしてふわりと微笑みを浮かべ「そうだね」と呟いた。
 ようやく向けられた笑顔は、やはり凪人に向けたものには及ばない。それでも宗一郎が自信を取り戻すのには、十分すぎるものだった。
 医者の言葉に素直に従い、赤彦は部屋の奥へ着替えにいこうとする。
「あの、今井神父……」
 宗一郎は意を決して彼を呼び止めた。
 赤彦が振り向き、汚れのない漆黒の双眸で宗一郎を見つめてくる。
「僕のことは、その……宗一郎って呼んでもらえますか?」
 子供じみたことを言っていると、十分自覚していた。赤彦は急な申し出に驚きを隠せない。かすかに目を見開き、宗一郎をまじまじと見つめてくる。
 それでも凪人のような男が、親しげに呼ばれているのを聞けば望んでしまう。甘い声で名前を呼ばれてみたいと。そうすれば赤彦との距離が少しでも縮まるのではないかと、淡い期待を抱いてしまった。
 口にしてしまった以上、後には引けない。宗一郎は赤彦を真っ直ぐに見つめ返し、彼の言葉を待った。赤彦は困ったように眉を寄せている。

「分かったよ。じゃあ、俺も赤彦と」
 やがて拒みきれず、苦笑混じりに承諾した。
「ありがとうございます」
 礼を言いながら、胸が高鳴るのを抑えきれない。承諾してくれたこと自体よりも、赤彦の発した後半の言葉の方が喜びは大きかった。
 本当に、彼をそう呼んでもいいのだろうか。
 ためらいがちに宗一郎は口を開いた。
「あ、赤彦…………」
 自分の声がつづったその甘美な響きに、顔が熱くなるのを感じる。
「……さん」
 しかし勇気がなかった。
 即座に背後で、凪人がわざとらしく吹き出した。
 

 

 

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