赤色

 

番外【溺れる吐息】

 
 音もなく雪が降る。
 一昨日から降りはじめ、やむことを知らず街を白く覆い包む。
 室内は冷えこみ、息も白く凍る。
 夜が明けたのだと思う。窓辺がぼんやりと明るく、閉じたカーテンには降雪の影が映っている。
(寒い……)
 ストーブをつけに布団から出ていくのも億劫で、赤彦は寄り添って眠る凪人に更に体を密着させた。
 上半身に何も着ていない彼の体温を、直に感じる。
 重ね合わせた左胸からは、愛しい鼓動が伝わってくる。

 聖誕祭の朝だ。
 幼い頃から、この日は喜びに満ちているものだった。
 神父だった父に聖誕祭に限らずよく教会へ連れていかれたが、この日は普段どれだけ虚ろな悩みを抱えている信者達も無意識に笑みをこぼしていた。彼等のその笑顔が好きで、聖誕祭の意味を理解できないほど幼い頃から、赤彦にとって聖誕祭は特別な日だった。
 しかし今日は、今までとは比べ物にならないほどの喜びがある。
 すぐ側で愛する人が安らかな寝息を立てている。
 朝を凪人と迎えられたこの幸せ。
(主よ、感謝します)
 胸の中で祈りを呟きながら、赤彦は眠る凪人の唇にそっと自分の唇を重ねた。
「ん……」
 口付けは掠めるようなものだったが、起こしてしまったのだろうか。
 凪人が目蓋を開いていき、漆黒の瞳を覗かせる。
「……赤彦?」 
 そしてまだ睡魔を残す声を発しながら、離れようとした赤彦を引き寄せて口付けを返してきた。
「おはよう、凪人」
 赤彦が微笑みを浮かべると、彼は眩しそうに開いたばかりの目を細める。
 言いしれない安堵が胸に広がる。しかし刹那に憂いもよぎる。
 凪人を離したくない。
 それでも彼は帰らなくてはならない。

 昨夜、二週間ぶりに凪人は赤彦の部屋に現れた。
 想いが通じ合ったのは、初春の頃。まもなく一年が経つ。その中で一ヶ月以上も逢えない時があったのだから、今回はまだ早い方だ。
 鬼と人の混血児である凪人は、飢えを自分の血で満たした直後にしか赤彦に逢いにこない。
 そして一夜をともにして、日が昇る前には帰ってしまう。いつ自分を襲うか分からない『飢え』から赤彦を守るために。
 それは分かっているつもりだが、逢いたいという気持ちは容易に抑えられるものではない。
 逢いたい。
 ずっと一緒にいたい。そして愛して欲しい。気づけば狂ったようにそればかり願っている。
 しかし我が儘を言えば、お互いが辛いのも十分に分かっている。
「帰る、かい……?」
 赤彦は伏せ目がちに別れの時をほのめかした。まともに顔を見れば、引き止めてしまいそうだ。
 凪人は、赤彦のやわらかな黒髪を指で梳いて遊んでいる。
 このぬくもりが離れていってしまうなんて、悲しくてたまらないのに。
「いや、今日はまだ大丈夫だ。少しずつ感覚がつかめてきた」
 ふいに聞こえてきたその言葉に、赤彦は顔を上げて凪人を凝視した。
「妙だよな。この体で三十年生きてきたってのに、やっとだぞ? どうしても……お前に逢いたいからだろうな」
 飢える時――血が必要になる時が、自分で分かってきたということなのだろうか。
 見つめる赤彦に、凪人は自嘲気味に笑ってみせる。そして照れを隠すように赤彦の頭をやさしく掴み、自分の肩口へ埋めさせた。
 胸が苦しい。
 赤彦は救いを求めるように凪人の背に腕を回し、頬を彼に擦り寄せた。
「嬉しい…………」
 震える唇からただただ吐息が溢れていく。

 秘めてきた願いが叶えられるとは、思ってもみなかった。幸せだ。今夜も凪人と過ごせる。
「宗一郎が楽しみにしててくれって。夜に何か美味しい物を作ってくれるみたいだよ」
「あいつ……来る気か……」
 何気なく呟いた赤彦の言葉に、間髪入れず凪人が低い声で吐き捨てる。
「おい。なに笑ってんだ?」
 思わず小さく肩を揺らして笑ってしまうと、髪をくしゃくしゃと撫でられた。
 赤彦の口から宗一郎の名前が上がると、凪人は必ず仏頂面になる。しかし宗一郎を嫌っているわけではない。二人の会話は一見刺々しいが、お互いにそれを楽しんでいるよう。結構、気が合っているのだと思う。
「ごめん。君と二人でいたいけど……」
 我が儘だろうか。宗一郎とも聖誕祭を過ごしたいと思うのは。
 機嫌を窺うように凪人を上目遣いに見ると、仕方がない奴だと言わんばかりの眼差しを向けられた。
 目が合うと赤彦の頬を手の平で包みこみ、顔を近寄せてくる。
「俺は、こっちの美味いもんの方がいいんだけどな」
「ん……」
 唇を重ね、すぐに離れたかと思えば再び口付けを降らす。ついばむように繰り返し、小さく音を立てながら凪人は赤彦のやわらかな唇に吸いつき、じっくりと味わっていく。
 溶けてしまう。このまま昨夜のように。
 昨夜体を重ね、心も体も互いの境が分からなくなるまで溶けた。
 まだその余韻に包まれているというのに、こんなことをされれば完全に戻れなくなってしまう。
 凪人は赤彦の上にそろりと体を移動させ、更に唇を密着させてくる。

「そろそろ用意した方がいいんじゃねえのか? 神父様」
 そして舌を絡めるわずかな合間に酷な言葉を挟む。
 今日は教会で聖誕祭のミサがある。
 彼はそのことを言っているのだが、この甘い罠からどう逃れろというのだろう。
 葛藤の間にも、口付けはやむことを知らない。
「うん、そう……だね……」
 為すがままになりながら、赤彦は虚ろに答えを漏らした。
 確かにそろそろ教会に行かなくてはならない時間だ。
 ミサは昼からだが準備もある。シスター達に任せるのは悪い。ただえさえ、これまでも凪人と迎えた朝は遅刻が多いのだから。
 今夜もまた一緒に過ごせるというのに、更に望んでしまう。
 ずっとここで抱き合っていたい。もっと愛されているのだと教えて欲しい。
「赤彦が教会にいる姿を、見るのははじめてだな」
 なおも赤彦の唇に唇を擦りつけながら、凪人が囁く。
 恍惚とした意識が、その言葉の意味を理解するのは時間がかかる。
 しかし一つの答えを導き出すとそれしか考えられない。思わず赤彦は凪人の唇に指を当てて口付けを制した。
「もしかして、ミサに出るのかい?」
「なんだ? 俺を一人でここに置いてく気だったのか?」
 驚く赤彦に凪人はとぼけたように笑ってみせると上半身を起こし、淡い光に包まれた窓辺に視線を向けた。
「どうせ、日は出ねえだろ」
 一昨日から雪が降りしきり、太陽の姿は空にない。おそらく今日も一日中。

 凪人は陽光から隠れ、闇で生き血をすすらなければ生きてはいけない。
 しかし彼はその重い咎(とが)を、前よりもずっと楽に考えるようになった。
 それでいいと思う。決して逃れられない定めなら、その方が悲しくない。
 彼の苦しみを十分に理解していない、楽観的な考え方なのだろうか。それでも凪人の変化は、彼の重荷を少しでも軽くしてあげたいと長年願ってきた赤彦にとって喜ばしいこと。
「凪人」
 赤彦は体を起こし、そのままゆっくりと凪人の喉元に唇を埋めた。
「っ……赤……ひこ?」
 突然の行動に凪人が驚きの声を上げる。
 唇を離すと鎖骨のわずか上の少しやわらかな皮膚に、紅い痕が残った。痛々しく、そして卑猥に。
 勢いでしてしまったが、我に返ると途端に顔が焼けるように熱くなるのを感じる。
 凪人はいつもしてくれるが赤彦は恥ずかしくて、したくても今まで一度も残したことがなかった。
「ごめん。服着ても見えるね……」
 小さくそこを舐めてから、赤彦は凪人の胸にもたれかかった。
 もう少し考えればよかっただろうか。思った以上にくっきりとついている。
「ついてるのか?」
 赤彦がきつく吸い付いた箇所を指でなぞりながら、凪人が訝しげに尋ねてくる。
 次の瞬間、突然、痛いほど強く抱きしめられた。
「見せびらかしたい気分だ」
 羞恥に紅く染まった赤彦の耳に、凪人は興奮を抑えきれない声色で囁く。
「俺にも、つけて欲しい」
 このベッドから出ても、ミサをしていても、ずっと凪人を感じていられるように。
 消え入るような声でねだると、凪人が笑う。
「知ってるか? もう沢山ついてるって」
 それから腕の力を緩めて赤彦の首筋に軽く吸いついてきた。
「ここか?」
 赤彦が小さくうなずくと、今度はきつくそこを吸う。
 気道を塞がれているわけではないのに息が苦しい。赤彦は凪人の頭を両腕でぎゅっと抱えこんだ。
「凪人……怖いくらい君が好き…………」
 髪に唇を埋め、溜め息混じりにうっとりと切ない想いをこぼす。

 頭が真っ白になる。
 夢のよう。
 しかしこれは紛れもなく現実。手を伸ばせば届く凪人の笑顔に、喜びはこの先も褪せることなく続くのだと確信できる。
 次の瞬間、突然、支えられていた体が揺らいだ。
「凪人?」
 あっという間にベッドの中に戻され、凪人の体に組み敷かれている。
「ったく、さっきから……俺に、お前を教会へ行かせなくするつもりか?」
 しごく真面目な顔をして言い、凪人は不敵に唇を歪めて笑う。
 そうしながらすでに、赤彦の滑らかな肌に指を妖しく這わせている。
 ゆっくりと弧を描くように胸を撫でられ、全身に甘い痺れが広がっていく。
 いけない。
「ん……駄、め…………」
 教会に行かなくてはならない。
「こうしていたい」
 凪人が蕩けるような眼差しで誘惑し、熱い吐息とともに甘く訴える。
 二人の長かったすれ違いの歳月も、このたった一年間で十分に埋められている。
 常に凪人の心の支えになれているのか不安に思っているが、以前の彼は決して自分の弱い部分を見せようとしなかった。そして小さなことでも赤彦に望むことはなかった。こんなふうに。
「赤彦、好きだ。愛してる」
 それは媚薬のような囁き。
 赤彦は凪人の首に両腕を回し、頬を肩口に擦り寄せた。
 拒むことがどうしてできるだろう。こんなにも触って欲しいのに。

 やがて自分の勤めを完全に忘却し、神父は愛に溺れた。
 

 

 

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