終章(3)
どれだけこうしているだろう。
「もう、放さない」
凪人が囁く。
「放さないで……」
凪人の胸に頬を乗せ、赤彦は唇からそっと願いをこぼした。
果てた後、体を寄り添えながらまどろんでいた。
快感の余韻に支配された全身はけだるい。目蓋も唇も重く、交わす言葉は少なかった。
しかし言葉など必要ない。抱き合っているだけで、お互いの想いが胸に流れ込んでくるよう。錯覚ではなく、体を重ねたことで確かに何かが変わっていた。お互いの溝を、お互いの存在が埋めているような一体感を覚えている。
時間など止まってしまえばいい。
ずっと寄り添っていたい。一秒も離れずに。
しかし凪人は朝日が昇る前には、この部屋を出ていってしまう。
彼の手首には、真新しい噛み傷がある。顔色もあまりよくない。ここに来る前に『飢え』を満たしてきたのが一目瞭然だった。
自分の血を飲んだ後にしか、この部屋にはこない。それが赤彦を傷つけないために凪人が決めた最善の方法。次に会えるのはいつなのか。明日になればまた、凪人をひたすら待ち続ける日々がはじまってしまう。
これ以上ないというほど凪人を愛していると思っていたが、今はこの気持ちがどこまで行くのだろうかと恐怖すら覚える。
果てがない。
こんなにも満たされているというのに、不安でしかたがなかった。腕からぬくもりがすり抜けていくのに耐えられるのか。凪人に触れられていない時間を、どう過ごせばいいのだろう。
知ってしまった心地よさと安堵が、別れをひどく残酷なものに思わせる。たとえそれが束の間のことだと分かっていても憂いは拭えない。
凪人が赤彦の肩を強く抱き、更に自分の方へと引き寄せる。彼も同じことを考えているのだろうか。赤彦の、そして自分自身の不安を和らげるように抱きしめる。
「赤彦さん、こんば……」
突然、部屋の戸が開かれ、明るい声が耳に飛びこんでくる。
すべての感傷は吹き飛ばされた。驚いて起き上がった赤彦が目にしたのは、顔を引き攣らせて呆然と立ち尽くす宗一郎の姿。暗がりで重なる赤彦達を、彼は見開いた目で凝視していた。
「いえ、分かっていた……はずなんですけどね……」
さすがに堪えると小さく呟き、宗一郎は口元を手の平で覆う。
全身が熱くなる。彼が来るという可能性を、すっかり忘れていた。
慌てて立ち上がろうとするが、腰を抱いている凪人が放してくれない。
「何しに来たんだ? お前は」
凪人は二人だけの時間を邪魔され、明らかに不機嫌になっていた。宗一郎に冷ややかな声と視線を向けながら、赤彦を自分の腕の中に戻そうとする。
「赤彦さんの顔が見たかったんです」
「帰れよ……おい、赤彦!」
ようやく凪人の腕からすり抜けて、赤彦は近くに脱ぎ捨てていたシャツを羽織った。
二人で過ごす少ない時間を、大切にしたいと思っているのは赤彦も同じだ。しかし宗一郎は自分を心配して来てくれたのだということも分かっている。追い返せるはずがない。
宗一郎が、おそるおそる赤彦の剥き出しの白く長い脚を横目で盗み見る。
「見るな、減る」
凪人が目ざとくそれを見つけ、吐き捨てるように言う。
「凪人」
背後で行われている小さな諍いを、赤彦はやんわりとたしなめた。
それ以降、凪人は口をつぐみ、何も言わない。室内は静まり返り、赤彦の着替えの布ずれの音だけが響く。
怒っているのだろうか。
服を着終えると、赤彦はベッドの方へと振り向いた。即座にこちらを見ていた凪人と目が合う。
次の瞬間、仏頂面で頬杖をついていた彼は、口元を歪めて静かに笑った。
仕方がない奴だと、ひどくやさしい彼の笑顔が赤彦に言っている。
穏やかだ。
日常が戻り、手を伸ばせば笑顔に届く。
いくら凪人と会える時が限られているとはいえ、以前とはまるで違う。孤独を自分に強いてきた凪人は、赤彦にその苦しみを分けてくれると約束した。そして赤彦も彼に支えられて生きていく。
しかし変わったのは幸せな事柄だけではない。背後には常に暗雲が立ち籠めている。
『鬼狩り』はやめるつもりだ。もう銃は握れない。
神父の地位も返上しようとしたが、贖罪のためにも続けることを決意した。
すべての幸せが垂氷の命と引き換えにしたものなのだと、ことあるごとに思い出し、そのたびに胸が張り裂けそう。この先どれだけ時間が経っても、自分を決して許せないだろうし、許すつもりもない。
赤彦は室内に電灯をともした。あたたかな緋色の光が滲むように広がり、室内をゆるりと照らしていく。
「宗一郎。珈琲を、煎れてくれるかい?」
肩を落としていた宗一郎は、赤彦の言葉にすぐさまいつもの人の良い笑顔を作る。そして嬉々として答えた。
「もちろんです」
色々と、考えなくてはならないことがある。
それでも許して欲しい。今だけ、この時を噛み締めることを。
少しの間でいいから。
そっと目蓋を伏せて、赤彦は微笑みを浮かべた。
終
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