赤色

 

終章(1)

 
「先生、上の空ですよ。また恋人と喧嘩でもなさったんでしょう」
 患者が途切れた合間に、看護婦がからかうように言う。
 カルテをぼんやりと眺めていた宗一郎は、深々と溜め息をついた。
「……ふられたんだよ」
「あら、お可哀想に」
 返された声は、さして可哀想と思っていない。宗一郎は椅子に背を預け、天井を仰ぎ見た。

 あれから一週間が経っている。赤彦に想いを打ち明けたあの日から。
 雪はもう降らない。診療所の側を流れる川は雪解けの水で溢れ、庭には春の訪れを知らせる沈丁花が咲いている。まだ外出には外套が手放せないが、冬は確かに遠ざかった。
 あの日の明け方、赤彦は凪人に肩を支えられながら診療所に戻ってきた。
 寄り添う彼等は、お互いに目を合わせるわけでもない。ひどく疲れた様子で、ただただ沈黙していた。それでも二人を包む空気があまりに親密で、宗一郎は声をかけることすらできなかった。
 悲しみと喜びを共有しているように見えた。出会うべくして出会った彼等がようやく心を通わせ、ひとつになったかのように。
「片恋でしかなかったんだ。いつかは僕のことを考えてくれると思っていたのは、独りよがりだったんだね。ずっと、僕よりもずっと大切な人がいて、僕の入りこむ余地ははじめからなかった」
 悔しくても、あれが二人の本来あるべき姿だと思ってしまった。
 目を閉じて話す宗一郎を見つめながら、看護婦は困惑ぎみに頬に手を添える。
「この一ヶ月、たった一ヶ月で思い知らされてしまった……」
 宗一郎は溜め息混じりに言葉を続けた。

 おそらく『垂氷』という鬼は、もうこの世にはいないのだろう。
 あの日、赤彦が病室のベッドで眠りについてから、凪人の腕の傷の手当をした。その時、彼がたった一言呟いた「終わった」という言葉について詳しく聞くことはできなかったが、それが『垂氷』の死を意味しているのだと推測できた。
 終わった。
 しかし喜びどころか、安堵すら沸かない。
 自分は何をしたのだろう。何もできないまま、何も分からないまま、いつの間にか決着がついてしまっている。ずっと一人蚊帳の外に放り出されていたような気がしてならない。結局、滑稽に奔走していただけなのか。
「でも……だから最近、少し怖かったんですね。先生」
「怖かった?」
 開いた目を向けると、看護婦は小さくうなずく。
「別人みたいでしたよ」
 そうかもしれない。
「色々あったからね」
 色々。それだけで片付けられることではなかった。
 赤彦をどれだけ愛していたかを知り、同時に自分の中にある醜い感情も知った。
 嫉妬と独占欲。憎しみにも似たその感情のやり場はなく、自分が何をしでかすか分からない状態にまで追いつめられた。
 今はようやく落ち着いてきたが、赤彦への想いはまだ消せない。
 赤彦は凪人を選んだ。諦めなくてはならないと頭では分かっていても、心がついていかない。
「どうすればいいんだろう。宙に浮いてしまったこの気持ちは……」

 今、赤彦は物思いに耽っている。
 あれから赤彦のアパートに何度か足を運んだが、交わす言葉はわずか。彼は空を眺めてばかりいる。食事もあまりとらないので弱った体の回復は遅い。
 何を考えているのだろうか。前のように悲しみに打ちひしがれ、思い詰めているふうではないが、憂いの色が顔から消えることはない。浮かべる笑みも未だに陰っている。
 おそらく、要因の一つは凪人。
 凪人は赤彦に姿を見せていない。しかし病室のベッドに横たわった赤彦の耳に「必ず会いにいく」と囁いていたのが、かすかに聞こえた。その言葉を信じて赤彦は待っている。ひたすら凪人を。
「片思いを続ければいいじゃないですか。愛されて嫌な人はいません。ここで引き下がっては男が廃ります」
 簡単に言ってくれる。
「先生もそれなりにいい男なんですから、自信を持ってください。女より料理が上手いのは、ちょっと問題ですけどね」
 それでも彼女なりに慰めてくれているのだろう。
 諦めるのも難しいが、想い続けるのも辛いことだ。
 けっして報われない。いつか、という甘い考えはもう持てなかった。しかし情けないが赤彦から離れ、彼に出会う前の生活に戻る決心もつかないでいる。
 その時、診察室の戸が叩かれ、宗一郎は苦笑しながら白衣の乱れを直した。
「患者さんだ。通してあげて」
 

 

 

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