四章(11)
真直ぐに腕を伸ばし、垂氷に銃口を向ける。
「貴方が……それをふたたび私に向けることになるとは……」
垂氷の声に、赤彦の手が震える。
「もうやめてくれ。君を……撃ちたくないんだ」
銃を握るのがこんなにも怖いと思ったことはなかった。
垂氷の懺悔を聞いたあの夜も、同じように銃をかまえていた。神父として、『鬼狩り』として、さまよえる鬼の魂を解放するために。
しかし今は、赤彦自身が凪人を守るため銃を向けている。それが垂氷を更に悲しませる。
もう誰も傷つけたくない。
避ける道はないのか。
こうしている今も、なお逃げることばかり考えている。
「貴方の心には、確かに私の存在が浸食している。二人で過ごしたあの短い時間で、それが可能だった。愛し合えるのですよ、私達は」
痛々しい眼差しで、垂氷は訴えかける。
否定はできない。凪人がいなければ、垂氷を心から愛していたのかもしれない。
優しく包みこんでくれる彼の腕は心地よく、溺れた。そして時おり孤独を訴え、縋りついてくる姿を愛しいと感じた。お互いにもたれかかり、お互いを必要とし、いずれは愛を語り合うようになっていた。
「心を偽りながら、私に抱かれていたことは知っています。しかし気に病む必要はないのですよ。私が貴方を愛している。深く、この上なく深く……徐々にでいい。私を見てください。あの月夜のように、私だけを……」
彼の想いが、はじめて伝えられた頃よりも更に深くなっているのを赤彦も感じている。
だからこそ抜け出せなかった。
「この胸に巣食う空虚を満たしてくれるのは赤彦、貴方だけなのです」
垂氷は目蓋を伏せ、固く唇を結ぶ。そして静かに言葉を終えた。
なぜ垂氷に銃を向けているのか、それすら分からなくなってくる。
抱きしめてあげたい。悲痛に顔を歪める彼に、今すぐ駆け寄って。
「俺は……」
言葉は続かない。
凪人の側にいたい。そして垂氷の側にもいてあげたい。
両方を願うのは、我が儘だと分かっている。叶える方法はないし、許されもしない。
赤彦は白い息を漏らしながら、ひたすら前方を見つめていることしかできなかった。
風に吹かれ、垂氷の長い髪が横に流されていく。腕に首に顔にまとわりつくそれを払おうともせず、彼は目を閉じている。背後では凪人が息を殺していた。彼はどんな想いでいるのか。
動けない。
時がすべてをさらってくれるはずがないのに、いったい何を待っているというのだろう。
銃口は下を向き、垂氷から反れる。引き金にかけた指の震えが止まらない。
その時、沈黙していた垂氷の唇がゆるりと弧を描いた。
「やはり……貴方には撃てない」
戸惑い揺れる気配は伝わっていた。
垂氷は哀愁を帯びた表情を消し、確信に満ちた声で言う。赤彦に引き金を引く勇気はないと。
開かれたその瞳は、剣呑な赤い光を放つ。
「目を閉じていなさい。次に開いた時、すべてが終わっている」
赤彦は息を呑んだ。これまで向けられたことのない垂氷の戦意に満ちた眼差しを今、真正面から受けていた。他の鬼にはない威圧感にすくんだ脚が、無意識のうちに後ずさる。
「下がっていろっ!」
刹那、背後から凪人が赤彦の肩を押しのけ、垂氷に銃を構える。
また同じことの繰り返しだ。
彼等の死闘がはじまってしまう。赤彦が動くこともできないまま。
なぜこんな事態に陥ってしまったのか。堂々巡りの勝手な疑問ばかりが浮かぶ。自分のせいと知っているはずなのに。
風音、潮騒、枯れ木のざわめき、そして二人の男の息遣い。
すべてをかき消し、次の瞬間、銃声が轟いた。
おののきに満ちたその音が、大気を震わせる。
いつまでも耳鳴りがしている。他には何も聞こえない。
風穴の空いた垂氷の左胸。そこから赤色をした液体が溢れ出す。
音がない。ただ静かに目の前で繰り広げられていた。
胸を押さえて垂氷が、赤彦を見つめている。驚愕、そして絶望を刻んだ双眸で。
「たる……ひ……」
自分の声も聞こえない。
両手で握っている銃からは、硝煙が立ち上る。銃口は垂氷に向いている。
傍らで凪人の銃は沈黙していた。
すぐには頭がついていかない。彼を撃ったのは自分なのか。
しかし垂氷の眼差しが物語っている。赤彦が撃ったのだと。無意識のうちに指は引き金を引いていた。
全身が小刻みに震えはじめ、手の平から銃が落ちる。頭の中が真っ白だ。
垂氷が地に膝をつく。
「垂氷っ!」
悲鳴のような声で叫びながら、赤彦は彼の体を抱きとめた。
両腕に彼の重みがのしかかる。
だくだくと流れ出る鮮血が赤彦を冷たく濡らす。
なぜ撃ってしまったのか。なぜ弾は当たってしまったのか。
一目で分かる。垂氷の心臓はえぐられていると。鬼を唯一死に至らしめる心臓を、弾丸は貫いてしまっている。
垂氷は赤彦を見据え、唇を動かす。
「これが……貴方の答えなのですね……」
違う。
撃つつもりなどなかった。
仕方がなかった。
「どこまで……どこまで君を苦しめればすむんだろうね……」
赤彦は焼けるように、熱い喉から声を絞り出した。
卑怯だ。必死に自分に言い聞かせている。
しかし本当は後悔しながらも、安堵を覚えていた。どこかで分かっていたのかもしれない。こんな方法でしか結末は迎えられないと。彼を失いたくないと思う一方で、彼の死もまた願っていた。凪人と想いが通じた時から、消せない自分の罪を隠したくて。
「随分と見事に撃ってくれた……しかし、良かったのかもしれません。貴方に見捨てられては、もう……」
生きることに堪えられない。
口の中でそう続けて垂氷は咳きこみ、唇の端から一筋の血を流した。
呼吸をするたびに痛みを感じるのか、顔を苦しげに歪めている。虚ろをさまよいはじめた瞳は、必死に赤彦の姿を捉えようとしている。赤彦が手を握りしめると、垂氷は束の間だけ安堵したように表情を和らげた。
「死とは、恐ろしいものですね」
そして諦めの色が混ざる溜め息をつき、赤彦の手を弱々しく握り返す。
「神の裁きを恐れないで。神の元へと還るんだ……」
何度となく死にいく人、そして鬼に同じように語りかけてきた。何の疑いもなく、固く信じてきた。
しかし自分が生死の境をさまよった時、怖くて仕方がなかった。
聖職者であるにも関わらず、神の教えは救いにならない。この言葉を口ずさむ資格などないのに、唇がなおも動く。
「主が待って……おられる……」
機械のように。
赤彦は伏せ目がちに不誠実な唇を噛み締めた。
愛、そして命。垂氷から奪うだけ奪い、いったい何を与えられたというのだろうか。
「赤彦が言うのであれば、そうなのかもしれません。しかし私が恐ろしいのは裁きではなく……貴方に忘れ去られることだ」
垂氷は自嘲気味に笑う。
「体は灰になり、この冷たい体温もやがて消えてしまう。何も残らないのですよ。何も……私が貴方の体に刻んだ愛も、貴方は、やがて忘れてしまう」
「忘れないよ」
赤彦の返したその言葉に、垂氷はふたたび力なく笑った。
信じてくれないのだろうか。
今にも瞳から涙をこぼしそうな赤彦の頬に、垂氷は血に染まった手で触れてくる。まるであやすように。
「私は死しても、なお貴方を想い続ける」
憎悪に満ちた言葉と眼差しを浴びせられた方が、よほど救いになる。それなのに垂氷はなおも愛を囁いてくれる。
「そんな……悲しそうな顔をしないでください。赤彦が私の死を心から憂いているのは、分かっています。そして自分を責めていることも……優しい人だ……」
うっとりと。
「愛して……います」
赤彦だけを見つめている。
もう痛みすら麻痺をして感じていないのだろうか。悲惨な傷とは裏腹に、垂氷は恍惚としていた。
「……愛しています」
乱れた息の切れ間に、何度も囁きを繰り返す。想いを伝えるのに時間が足りないとばかりに。その一つ一つが、赤彦の胸に痛みをともないながら染みこんでいった。
瞳から溢れ出した雫が、垂氷の頬に落ちる。赤彦の濡れた目頭を指先でなぞってから、垂氷は腕を下ろして雪上に投げ出した。
青白い顔は更に白く変わり、死相が浮かぶ。
手に取るように分かる。命の灯火が刻々と勢いを弱めていくのが。声はかすれ、赤い瞳は光を失った。
「嗚呼……貴方のもたらすものならば、死すら甘く感じてしまう……ただ、ずっと貴方をこの手にしていたかった。生きて、永遠に……抱き締めていたかった……」
目蓋を伏せ、垂氷は唇を震わせる。こみ上げてくる嗚咽を噛み殺し、深々と溜め息を吐き出した。
「人として貴方に会いたかった。鬼ではなく、人として貴方と……」
聞き逃してしまいそうな声で、
「口付けが欲しい……」
独り言のように呟く。
赤彦は垂氷に唇を近づけた。
その瞬間、唇に触れたのは灰。
口付けも交わせないうちに、垂氷の体が崩れていく。すでに朽ちていたはずの肉体はかりそめの命を失い、あるべき姿に形を変えていく。
「待って……!」
何をそんなに急ぐのか。
腕にのしかかる重みはもうない。垂氷の長い髪が手首に絡まる。それさえも灰になり、散っていく。
還らない。ここにはもう。
二度と彼に触れることはできない。
こんなにも簡単に消えてしまう。
「垂氷……」
最後の灰が、指からすり抜けて空に溶けていく。
残ったのは抜け殻のような彼の衣服、赤彦の体を、雪を、広く染めた彼の血液だけ。
胸に空虚が広がる。それは凪人を永遠に失ったと信じた時と、何も変わらない。
好きだった。
確かに垂氷が好きだった。彼の愛に触れ、幸せを感じていた。それでも自分は凪人を愛することを選んだ。
赤彦の震える唇から吐息が漏れていく。白いそれに混じって溢れ出すのは祈りの言葉。
「主よ……憐れみ、たまえ・……」
心から願った。
「永遠の安息を彼に与え、絶えざる光を……彼の上に照らしたま……え…………」
今までにないほどに。
しかしこの罪人の願いは、届くのだろうか。
両肩に腕が回される。今にも崩れてしまいそうな赤彦の体は、凪人に背後から抱き締められた。
凪人がこの悲しみを中和させようとしてくれている。強く、痛いほどに抱き締められる。
吹く風が地表の雪を巻き上げた。周囲の枯れた木々を白々と覆い、視界はかすむ。まるで辺り一面に花が咲いているように見えた。
冷たい花弁が宙を舞う。
垂氷の死が花を咲かす。白い花を、艶やかに美しく悲しく。
凪人が赤彦の肩に額を埋めている。あたたかなその体温に支えられながら、赤彦は唇を開いた。
「凪人……ごめん……」
凪人にも知られてしまった。凪人に想いを寄せながらも、赤彦が自ら垂氷に身を任せたことを。この浅はかな裏切りを。
謝罪など、なんの意味も持たない。許されることではないと分かっている。
それでもこの腕の中から放れたくない。
「お前は何も悪くない。俺が辛い思いをさせてしまった。きっと、これからも……」
凪人の悲痛な声が不穏な気配を漂わる。
「今ならまだ間に合う。俺を突き放せ。お前を、二度と放せなくなる」
「……放さ……ないで」
なぜそんな悲しいことを言うのだろうか。
手遅れだ。この気持ちは行き着くところまで来てしまっている。
「一人じゃ、生きていけない」
赤彦の哀願に、凪人が息を呑んだ。
もう凪人しかいなかった。
こんなふうにきつく抱きしめていて。そして抱きしめさせて欲しい。二度と突き放さないから、触れさせて。
願いをこめて手に手を重ねた赤彦の耳元に、凪人は唇をぴたりと寄せる。
しかし唇が動いても、言葉は発せられない。凪人の息が耳をくすぐる。
「だったら……」
やがて囁かれた言葉もためらうように途切れ、後が続かない。
抱く手に更に力がこめられていく。
「いつか……いつか俺が『鬼の血』に負けた時は……迷わず殺してくれ」
凪人の願いに、赤彦は思わず体を強張らせた。
赤彦がどんなに凪人を支えたくても、彼は鬼の血の呪縛から逃れられない。
生きるために生き血をすする。今までは自らの血でしのいできたその飢えが、いつ他の人間を襲うか分からない。以前、赤彦を手にかけようとした彼は深く傷つき、自分を責め、赤彦と二度と会わないという決意をした。
自分は人か、鬼なのか。想像を絶する混血児の悲しみと恐怖を、凪人は一生背負っていかなくてならない。彼に対して自分はあまりに非力。
「俺も……」
しかし、この腕で支えきれないのならば、すべてを捧げるまで。
この命までを。
赤彦が振り向くと凪人が顔を上げ、視線が重なった。彼の瞳を見つめながら、赤彦は唇を動かす。
「俺も、その後をすぐに行くよ」
自分にできるのは、凪人への想いを貫くこと。この先、ずっと何があっても。
凪人は目を細めた。
「赤彦……」
幸せと悲しみが入り交じる複雑な顔をする。伝わったのだろうか。この想いが、この誓いが。
今、垂氷をこの手で殺し、決意はより固い。愛するのは凪人だけ。
凪人は赤彦の顎をやさしく掴み、唇を近づけてくる。赤彦はそっと目蓋を伏せた。
「凪人、愛してる」
凪人だけだ。
「ああ。俺もお前を……」
青闇の中を、花が散る。
幾千の花弁に唇を重ねる二人は包まれ、耳には木々のさざめきも聞こえない。
ただ痛みと愛が、静かに胸に溶けていく。
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