四章(10)
辺りは青闇。
「私とともに行きましょう」
前方には、痛々しい鬼の死骸。左胸をえぐられて雪上に横たわる。
そして側には垂氷と凪人がいた。
「貴方がいないと寂しい……」
垂氷が血に染まった手を差し伸べてくる。赤彦は彼の姿を直視できず、うつむきながら凪人の服の端を握りしめた。
ここはどこなのか。自分の身に何が起こったのか。
どうでもいい。
確かなのは支えてくれる凪人の腕のぬくもり、力強さ。それだけで構わない。自責の念が胸に押し寄せ、渦を巻き、今にも叫び出してしまいそうだ。
垂氷とふたたび顔を合わせるのが怖かった。彼に犯した罪を償う術を知らない。愛もなく抱かれた。自分の心の安らぎばかりを求め、彼を利用してきた。傷つけ、拒み、逃げてきた。
愛してくれたのに。
「……赤彦」
気が遠くなるほど囁かれた名前、愛の言葉。胸に深々と突き刺さり、忘れられるはずがない。
しかし忘れたいと願っている、卑怯な自分がいる。過ちをすべて無に返してしまいたい。逃れられないと分かっていても、願っている。
「愛しています……」
哀愁に満ちた低音が、頭に響く。
あんなにもひどい仕打ちをしたのに、垂氷は今もなお想ってくれている。そのことにどこか安堵を覚え、同時に恐怖している。いっそ憎んでくれた方が楽なのかもしれない。彼に許されれば許されるほど、罪の意識が募っていく。
風が吹き、立ち籠める雲を頭上で走らせる。切れ間に覗く細い月がゆらりゆらりと地上に影を落とす。不安をかき立てるように。細かな氷の粒が凛とした大気の中を舞う。この寒さが時を凍りつかせてしまったのか。
人は動かず、沈黙する。
償いのために一度は死を決意したが、今は手を伸ばせば届く凪人のこのぬくもりから遠ざかることなど考えられない。
居たたまれず、赤彦は何も言えない唇からただ白い吐息を漏らした。
ふいに凪人の腕が動く。彼は外套の隠しから取り出したものを、赤彦に握らせた。
ロザリオだった。垂氷にはじめて抱かれた日に手放した、純白のそれ。受け取る資格が罪深い自分にあるのだろうか。手の平に乗るロザリオがひどく重い。しかし凪人がずっと持っていてくれたのだと思うと胸が熱くなる。
「待っていろ。すぐに片づける」
胸の前でロザリオをきつく握りしめた赤彦から手を放し、凪人が立ち上がる。垂氷を見据え、ゆるりと足を前に踏み出した。垂氷は赤彦に差し出していた手を下ろし、表情を険しくさせる。
神父としての、『鬼狩り』としての、人としての、基盤が揺らぎ、自分の何もかもが信じられない。神をも見失い、胸に巣食うのは二人の孤独な男。彼等だけが現実。
(行かないで……!)
地表の雪を散らせ、凪人が駆け出す。外套の裏から二本のナイフを両手で引き抜き、垂氷に向かっていく。
赤彦が叫ぶ。
「二人ともやめてくれっ!」
止めたい。
どちらも失いたくない。
しかしようやく発せた声も届かない。
凪人のナイフが空を斬る。垂氷は攻撃をかわして後方に飛び、そこでナイフを抜いた。
「六條、貴方さえいなければ……しかしまだ遅いというわけではない。赤彦の前で葬ってさしあげよう」
駄目だ。
細い月が雲間に隠れ、辺りに更なる闇が広がった。
降雪が勢いを見せる。そして地吹雪。争う二人の姿が白くぼやける。
見えない。乱立する枯れ木もが視界を阻む。彼等が遠ざかっていく。鋭い風音と潮騒に叫びはかき消されてしまう。届いて欲しいのに。
これは全て自分が招いた事態だ。
「俺が……悪い……」
この弱い意志、逃げてばかりいるこの心が招いた。
そして集結させるのも赤彦にしかできないこと。もう逃げてばかりではいられない。彼等は止まらない。赤彦が動かなければ、どちらかが死に至るまで。
それでも何をすれば最善なのかが分からない。二人に抱く感情は違っても、どちらも愛しいことに代わりはない。
銃声が木霊する。白い視界に朱色に散る火花。それは凪人の銃。
弾丸は立て続けに放たれ、垂氷に向かう。回避した垂氷が体制を整えるわずかな隙に弾を補充し、凪人は再び銃を乱射する。
凪人の動きは相変わらず素早く、豪快、そして狙いは的確。しかし垂氷の動きはその上をいく。
超越していた。
はじめて見る。これほど鮮やかな動きを。呼吸も乱さず弾丸をくぐり抜けながら、彼は凪人との間合いを確実に詰めていく。
変えの残弾もあとわずか。凪人は撃つのをやめ、迫る垂氷にもう一方の手中にあるナイフで斬りかかる。
激しく刃が触れ合う音が赤彦の耳を貫いた。繰り返し、繰り返し音は響き渡る。刃が交わるたびに鼓動が早まっていく。
接近戦がはじまり、形勢は徐々に垂氷に傾いていた。彼の生きてきた悠久の時、くぐり抜けてきたであろう数々の死闘の経験は絶対的なもの。
やはり凪人では敵わない。
赤彦は鈍い痛みが残っている腹部を押さえながら雪の上を這った。ようやく立ち上がるとつまずきながらも彼等に走り寄る。無我夢中に。確かな決意もなく。ただ衝動だけが突き動かす。
一際、けたたましい音が鳴り響き、垂氷の刃が凪人のナイフをはね除けて宙を舞わした。そして更に斬りかかる。
新たなナイフを抜く間もなく攻められ、凪人の顔に焦りが浮かぶ。繰り返し突き出される刃を回避しながらどうにか距離を空けようとするが、垂氷の速攻がそれを許さない。
垂氷がナイフを横様に大きく振るう。凪人は屈み、脚を垂氷の胴に突き出した。ナイフを持つ手を止め、垂氷はわずか後方に飛び退く。片足を地に着けるや否や、もう一方の脚を上げて凪人の頭部を勢いよく蹴り払った。
雪上に横面を叩きつけられ、すぐさま起き上がった凪人の目に映ったのは、高々とナイフを掲げる垂氷の姿。
避けるか、ナイフで阻むか、どちらが間に合うのか。忌々しい。思考が追いつかない。
「もらったっ!」
垂氷の嬉々とした声が響く。
次の瞬間、風で巻き上がる雪の中から赤彦が飛び出し、地に膝をつく凪人を抱きしめた。突然、死闘のさなかに現れた赤彦に二人の男が驚愕する。
「赤彦っ!」
「……っ?!」
赤彦の頭上に垂氷のナイフ。
瞬時に垂氷の顔色が変わる。振り下ろされる凶器が止まらない。
咄嗟に凪人は片腕で赤彦を抱き寄せ、もう一方の腕を前に差し出した。
「くっ……」
苦しげに息を詰める声が耳元で聞こえ、凪人の体から激しい振動が伝わってくる。ナイフは赤彦をかばった凪人の下腕を貫通していた。
血が滴る。腕から飛び出た刃の先から。凪人の額に汗が滲み、赤彦の肩を掴む手に力がこもる。それでも微動だにせず、痛みに耐えながら彼は赤彦を守り続けている。
赤彦は、垂氷を真っ直ぐに見つめた。
凪人の腕にナイフを残したまま、垂氷は数歩後退する。
「赤彦、どいてください……」
赤彦の行動を目にして、悲痛に顔を歪める。声も弱々しい。
垂氷を失いたくない。それでも。
「凪人を殺させはしない」
絶対に。
凪人の腕の中から抜け出して、赤彦は懐から自らの銃を取り出した。
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