赤色

 

四章(9)

 
 凪人が銃を撃つ。
 地上から放たれた弾丸は、空高く放り投げた老鬼に向かう。避けることなど、できるはずがない。
 貫いたのは脚。
 続けて放った弾丸も肩へ、腹へ、腕へと吸い込まれていく。至る箇所から血潮を吹き出させ、老鬼の体がぐらりと揺らぐ。奇妙な形のまま地に叩きつけられ、彼は動きを止めた。その様を横目で見ながら、凪人は素早く空の薬莢を捨て、回転弾倉に弾をこめる。
 弾倉を戻すや否や雪を散らせ、凪人が駆けだす。空いている右手を外套の裏に這わせ、仕込んだナイフの一つに指先で触れる。その時、顔を上げた老鬼が、迫る凪人の姿を赤い双眸で捕らえた。
 刹那、彼の手中から短いナイフが放たれ、凪人の足元に次々と列になって突き刺さっていく。すぐさま後方に飛び退き、凪人は銃の引き金に指をかける。

「……っ!」
 しかし標準が前方にない。
 老鬼はすでに凪人の横にいた。不気味な笑みの張りついた顔が視界に飛びこみ、彼の腕が伸びてくる。寸前のところかわした凪人の傍らを抜け、老鬼の腕は背後に立つ木の幹をえぐる。
 全身に弾丸を受けながらも、いまだに動けるその頑丈さには驚く。
 そして早い。さっきから彼は信じられないほど素早さで間合いを詰めてくる。
 老鬼から離れ、凪人が銃を乱射する。二丁あった銃を一つなくしたままだ。少々、勝手が違う。遅れが生じているのは、そのためだと自分に言い聞かせながら。
 老鬼はひるむことなく弾丸をくぐり抜け、凪人に向かってくる。引きつけるだけ引きつけ、凪人は銃をしまい、両手でナイフを抜いた。
 次の瞬間、凪人のナイフが老鬼の両腕を同時に引き裂く。確かな手応え。血が勢いよく雪の上に弧を描く。
 しかし老鬼は揺らぎもしない。だらだらと血を流す彼の脚が凪人の腹部を蹴り上げる。
 異常な脚力に視界がかすみ、胃液がこみ上がる。よろめいた凪人の首に老鬼の両手がかかった。
「終わりだっ『混血児』!」
 その手が首を絞めはじめる。
 息ができず、即座に意識が白んでくる。彼の怪力では、首の骨は一分ももたない。
 死闘は技術、そして力以上に経験がものを言う。老鬼が遥かな時を生き、その中で数々の死闘をくぐり抜けてきたのが分かる。凪人が到底、敵わないほどの数をこなしてきた。
 しかし自分の敵は彼ではなく垂氷だ。
 垂氷は、確実にもう一人の老鬼を仕留める。
 自分がこの程度の鬼に手をこまねいている場合ではない。

 ナイフを持つ手の感覚がなくなりはじめている。その手をきつく握りしめ、凪人は見開いた目で老鬼を睨みつけた。
 獣を彷彿させる眼力に、誰かの影を重ねたのか。老鬼がひるむ。
 その一瞬の隙。逃さない。
 凪人が片手で老鬼の頭部を掴み、地を蹴る。そのまま木に彼の背を勢いよく叩きつけ、抗う間も与えずもう一方の手中にあるナイフで左胸を貫いた。
「ぐ、ぐふ……や……やらせん……!」
 首を締め上げながら老鬼は凪人の首筋に顔を寄せ、唇を開いて鋭い犬歯を披露する。
「くたばれっ……!」
 凪人はナイフをひねりながら、更に奥深く突き刺した。血がだくだくと溢れ、手を赤々と濡らす。老鬼の犬歯が皮膚を掠める。そのまま彼は凪人の肩口に頭を乗せた。
 徐々に首を掴む手の力が抜けていく。もう一度、深々と突き刺して凪人はナイフから手を放した。木に張りつけられた老鬼はだらりと両腕を下に垂らし、今度こそ動かない。
 凪人は血まみれの無惨な死骸を一瞥して、弾む呼吸を整えながら手についた血のりを外套の裾で拭う。そして目は垂氷を探す。
 遠くの木々の間に鬼が二人。垂氷が隻腕の老鬼を一方的になぶる姿があった。息一つ乱さず、余裕を見せている。そして彼等の後方には赤彦が雪の上に横たわっていた。
 足は自然と彼に向く。やがて駆けだし、傍らに辿り着くと凪人はその体を抱き起こした。

 長い睫毛を伏せたまま動かない。それでも胸を緩やかに上下させ、赤い唇から細く白い息をほのかに吐いている。どこにも外傷はない。体も温かく、顔色も悪くない。
「おい赤彦、起きろ」
 体を軽く揺さぶれば眉を寄せ、反応を見せる。頬に張りつき溶けた雪片の痕を指先で拭うと、赤彦は次第にうっすらと目蓋を開いていき、澄んだ瞳に凪人の顔を映した。
 そして一度、吐息を漏らすとそっと言葉を発する。
「……な、ぎと……?」
「そうだ」
 凪人は安堵に笑みをこぼした。
 随分と久しぶりに彼の瞳を見たような気がする。診療所にいる時から、ずっと目を醒まさない赤彦を見ていたからだろうか。
「嬉しい、また君の腕の中だ……」
 ふいに凪人を見つめながら、赤彦が真顔で呟く。意識を取り戻したばかりで、自分の置かれている状況が分かっていないのだろうか。屈託もなく、ただ純粋に心に浮かんだ言葉を口にしたようなその様に途端に全身が熱くなる。

 今、ようやく赤彦に愛されているのだと実感した。あの時の赤彦の告白は夢などではなかった。うぬぼれでもない。自分達は確かに愛し合っている。
 愛しさがこみ上げてくる。今までの想いなど比べ物にならない。どうしようもない。この身が引き裂かれるような感情。そして独占欲。仕方がない事態だったとはいえ、やはりふたたび会うべきではなかった。
 赤彦を誰にも渡したくない。
 この腕から放したくない。
 そればかりが高鳴る胸に溢れて止まらない。決意が揺らぐ。この瞳に見つめられ、別れを口にするなどできるはずがない。
 もう自分ではどうすることもできない。
「呑気なことを言っている場合でもねえぞ」
 理性を狂わせる赤彦の眼差しから逃げ、凪人は垂氷に視線をやった。
 ちょうどその時、おどろおどろしい悲鳴が辺りに轟き渡る。
 凪人の視界に映ったのは、無様な形で硬直した隻腕の老鬼の死骸。その側に垂氷。
 老鬼の心臓を握りつぶした手を傾け、垂氷はその不気味な肉片を雪中に落としていく。ぽたりぽたりと。壊した玩具を未練もなく捨てる。
 やがてすべてが指の間からすり抜け終えると、ゆるりと目だけを動かして凪人を見た。
 その目は光る。深い赤色に。
「さあ……余興は終わりです」
 返り血を浴びた彼の顔に浮かぶ、身の毛がよだつような冷笑。大気より凍えた低い声。
 凪人は垂氷に鋭く視線を返しながら、赤彦を抱く手に力をこめた。
 

 

 

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