赤色

 

四章(8)

 
 口から黄ばんだ犬歯を覗かせ、隻腕の老鬼はぜいぜいと息を切らせていた。立つこともままならない。地に膝と片腕をついて体を支え、垂氷を血走った目で睨みつけている。
 凪人に撃たれた傷が深い。腕のない肩口は肉をえぐられ、骨が覗く。血は止めどなく滴り落ち、雪を広く染める。
「このような事態を招くとは……っ」
「浅はかなのですよ」
 目の前に這いつくばる無様な男を見下ろし、垂氷は一笑した。
「貴方達では私を飼いならすことなど、到底できない」
「確かに手に余る。貴方のその人間への執着、羨望! 貴方はいまだに人間でありたいとすら望んでいる。非力な、我々の食料としての価値しかない人間ごときに! 何ゆえ! 何ゆえっ、それほどまでのお力を持ちながらっ……」
 最後はかすれた悲鳴となった。

 すべてだと信じる力も、彼は持ち合わせていない。だからこそ垂氷に自分の思想を押しつける。
 哀れだ。人の心を忘れ、身も心も鬼に成り下がり、力がすべてだと信じ、守る者もなく、いったいなんのために彼は生きるのか。
 いや。そもそも鬼に存在意義を問うのが、間違いなのかもしれない。所詮、人の世に寄生する化け物だ。それは当然、垂氷自身も同じ。人という存在に憧れ、失った過去に哀愁を抱きながらも、生きるために人を殺め続けてきたのだから。
 この身には、鬼と人とが混在する。老鬼達のように生きた方が、幸せなのかもしれないと考えたこともある。しかし人の心を捨てていれば赤彦に巡り会い、恋に落ちることもなかった。
 垂氷は黒衣を脱ぎ、雪の上に広げると胸に抱く赤彦をそこに横たわらせた。それからそっと彼の頬を撫で、目を細める。
 愛しい赤彦。
 すべてを捧げ、彼のすべてを手に入れたい。
 自分の存在を悲観し、疎み、諦め。虚しく殺伐とした日々を生きる中で、これほどまで誰かを愛するようになるとは夢にも思わなかった。彼に出会うために、ここまで生き永らえてきた。
 失いたくない。
 凪人になど、渡せるはずがない。
 赤彦と生きる。この先、どれだけ人の命を奪うことになっても。

 老鬼が奇声を上げ、跳びかかってくる。避けることは簡単だが、下手をすれば赤彦に当たる。
 老鬼の手が顔に伸びる。直前で垂氷は、彼の手首を掴んで制した。
 刹那に視界の端に光が走る。頬に鋭い痛みを覚え、目の前の老鬼の唇が弧を描く。空いた片手で頬に触れてみるとそこは濡れている。わずかに皮膚が裂け、血が流れていた。
 老鬼の服の袖からは細く長い刃が伸び、五十センチばかりあるその両刃が青闇の中で妖しい色を放つ。
「小賢しい」
 垂氷が腕をひねり上げ、老鬼をなぎ倒す。いとも簡単に倒れた彼はすぐさま立ち上がり、再度、垂氷に向かってくる。
 しかしその動きは遅く、無駄が多い。怪我を負っているからではない。老鬼の顔に滲むのは明らかに垂氷への畏れ。彼も自覚している。自分の力が垂氷に到底及ばないことを。しかし引くことはできない。
そして垂氷も見逃す気は、更々ない。
「ぎゃぁぁぁぁぁあ!」
 次の瞬間、おどろおどろしい声が耳を引き裂く。
 垂氷の脚が老鬼の腕を蹴り上げていた。袖に仕込まれた刃は砕けて宙に散る。そして彼の腕は奇妙な形に折れ曲がり、ぶらりと揺れていた。

「そう……貴方は、赤彦を侮辱したのでしたね」
 言いながら垂氷は、折れた腕を掴む。
 弧を描くように老鬼の体が宙を舞う。投げ飛ばされ、地に叩きつけられた彼は仰向けのまま起き上がることもできない。脚をばたつかせて、辺りに積もった雪を散らすだけ。
 垂氷は老鬼にゆるりと歩み寄り、傍らに片膝をつくと彼の横面を地面ににじりつけた。
「彼に触れていいのは、私だけだ……」
 首の骨のきしむ音が聞こえてくる。
(もう少し、楽しませてくれると思ったが……)
 老鬼は抗うことも忘れ、激痛と恐怖に錯乱してただただ喚き散らす。
 こんなにもあっけないものだとは、思いもしなかった。直接、手合わせをしたことはないが、以前彼等の殺戮の様を見たことがある。垂氷自身には及ばないにしろ、それなりの力を見せていた。
 凪人との二度の死闘の中で、父親譲りの彼の力に触れていたからなのかもしれない。今は老鬼の力が子供だましのように思える。
 垂氷は老鬼の左胸に手を移動させ、指を彼の体に埋めた。
「う……うぐぅ!」
 口から泡を吹き目を剥く彼にかまわず、更に深部まで進めると、塊が手の平に当たる。そろりと引きずり出したそれは、血の滴る醜い心臓。
 ひくひくと動く赤黒い塊を、垂氷はまじまじと見つめた。
「か、返せ……!」
「鬼とは……こんなところまで冷えきっているものなのですね」
 呟きを漏らす垂氷には、老鬼の悲鳴も届いていなかった。

 考えずにはいられない。
 もしもこの体に今もなお温かい血が流れていたら、現実はどう変わっていただろうか、と。
 赤彦に人として出会い、なんのしがらみもなく無邪気に恋に落ち、日の光の中を生きる。血を与え、闇に生きることを赤彦に強制する必要もない。
 凪人などつけ入る余地もなく、今以上に彼を愛し、大切に扱い、常に傍らを離れず――
(遠い……幻想だ……)
 垂氷の手の平が、赤黒い塊を握りつぶす。ためらいもなく、そして甘く悲しい幻想を振り払うように。
 老鬼の最期の叫びが、凍えた大気を振動させる。
 

 

 

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