赤色

 

四章(5)

 
 相川診療所を後にしてから、街をさまよっている。家路につく人々の間を行きながら、凪人は常に何者かの視線を背中に感じていた。
 視線の主は鬼。その禍々しい気配はどす黒く濃厚で、垂氷のものとは明らかに違った。これほど吐き気がする気配は感じたことがない。
 赤彦の病室にいる時から、その鬼はねっとりとした視線で様子を窺っていた。
 何が目的なのか分からない。明確な位置も把握できない。凪人は慎重に相手の出方を探っていた。

 濃い灰色の空は、いつ夜が訪れてもおかしくない。辺りにはすでに街灯がともり、雪で濡れた石畳の道に行き交う人の影が伸びる。
 繁華街に近づくと、いよいよ喧噪の渦に巻きこまれていく。凪人は大通りから反れて路地裏に入った。
 人気はなくなる。
 しかし視線は追ってくる。
 ほどなくして、無人の建物が建ち並ぶ界隈に抜けた。
 舗装もされていない、街灯もない通りが凪人の前に横たわる。建ち並ぶ建物と向かい合って荒れた墓地が広がっている。ここはかつて教会が所有していたが、今は使用されていない。
 確かに晴れやかな場所ではないが、これほどまでに閑散としていただろうか。
 冷えた風が吹きすさび、不気味な静けさが漂う。誘われるように凪人は歪んだ鉄格子の戸を開き、墓地の中へ入った。
 泥の混じった雪を踏みしめて墓地の中央まで辿り着くと、近くの枯れた草叢から鴉が飛び立つ。
 雲の中の日が落ちていく。辺りは徐々に闇が広がり、乱立する石の十字架がその中にほの白く浮かび上がる。墓場を囲む樹々の枝が小雪の混じる風に吹かれて揺れ動き、掠れた音を鳴らした。

 咄嗟に凪人が銃を抜く。
 振り向きながら鉄槌を起こし、引き金に指をかける。
 銃口が何者かに触れる。ためらうことなくそのまま強く銃を押しつけた。
「……っ!」
 刹那、鋭く伸びた爪を喉元に突きつけられ、凪人は動作を止めた。
 目の前に現れたのは、黒づくめの老人。
 彼のその爪で喉をかっ切ることは容易い。
 しわの多い青白い顔、凪人を射抜くように見据える赤い双眸から、一目で鬼だと分かる。彼はさっきから凪人をつけ回していたどす黒い気配の持ち主――老鬼。
 凪人は奥歯を噛み締めた。
 しかしこちらの銃口も、相手の喉元を的確に捕らえている。
 両者ともに微動だにできない。
 動けば、お互いの凶器が喉を貫く。
「流石は『混血児』」
 張りつめた静寂を破り、老鬼は顔に下卑た笑みが浮かべる。
「しかし主(ぬし)の相手は、己ではない。あの方がお待ちだ」
 言葉を切り、唇から尖った犬歯を覗かせる。
「……今は、『垂氷』と名乗っておられるようだが」
 老鬼の口から出たその名前に、凪人は目を細めた。

 赤彦を介抱している時に見た、首筋の生々しい噛み傷、そして胸に散らばる無数の口付けの痕が、目蓋の裏に焼きついている。
 赤彦の体をもてあそんだあの男。
「ついて来るがよい」
 この鬼は、垂氷のもとまでの案内人というわけなのか。
 喉に突きつけられていた爪が、かすかに動きを見せる。互いの鋭い視線が交わり、それを合図に同時に凶器を引いた。
 凪人の片手は外套の裏に銃をしまう。
 次の瞬間、もう一方の片手でナイフを引き抜いた。
 凪人が老鬼に斬りかかる。その素早さを、老鬼は避けきれない。
 鋭い刃が肉を裂く。
 勢いよく喉から吹き出した血潮が、崩れた十字架を赤々と染め上げる。
 凪人の片頬が吊り上がる。それは獲物を捕らえた獣の笑み。
「ぐ……あ……あ……!!」
 老鬼が雪の上に膝をつき、おどろおどろしい雄叫びをあげる。胴と首は皮膚一枚を残して切断されていた。やがてその皮膚がちぎれる。
 凪人の足元に頭部が転がった。
「ぐ……ぐぅ……貴様ぁっ!」
 ギラギラと憎悪に満ちた眼差しで凪人を睨みながら、老鬼は顔を醜く歪ませる。
 生首だけになってもなお生き続ける、心臓を貫かれなければ死ねない体だ。
 おそらく、それは自分も同じ。ないのは、永遠の命のみ。あとは鬼と何も変わらない。
 吐き気がこみ上げてくる。
「案内なら、この恰好で十分だろう?」
 硬直した老鬼の胴体を蹴り倒し、凪人は悶え苦しむ頭部を冷ややかに見下ろした。
「奴はどこだ」

 旧地下水路。
 街の下に縦横無尽に張り巡らされたその闇の中で、ゆうに一時間は歩いている。
 立ち籠める異臭は、人の腐肉と血の臭い。
 ここは鬼の巣窟。鬼が地上で捕らえた獲物を味わうための場所。そして凪人の狩り場でもあった。毎夜のように足を踏み入れている。しかしここまで奥深く入ったことはない。髪を掴んでランプのようにかざしている老鬼の生首がいざなうままに進み、今ではもと来た道も分からない。
「おい。勝手に気を失うんじゃねえぞ」
 乱暴に手を動かして老鬼の生首を揺さぶると、くぐもったうめき声が上がる。
「屈辱だ。『彼』がよもや子を残しているとは思いもせず……ぬかったわっ」
 悪態をつく声も、はじめの頃と比べて威勢がない。
 ナイフの切り口からは血が滴り続けている。青白い顔は土色に変わり、しわは更に深い。いつ意識を失ってもおかしくない状態だが、垂氷のもとへ辿り着く前に気絶されては困る。
 垂氷との力の差は歴然だ。しかし引くわけにはいかない。
 二度、死闘を挑み、二度とも地に這いつくばらされた。このままでは自尊心がゆるさない。
 そして何よりも、赤彦をあの男から守るために。

 目を醒まさない赤彦の顔を見つめながら、ずっと考えていた。垂氷を仕留めた後、赤彦の側から離れなくてはならないと。
 今度こそ、二度と会ってはいけない。会えば欲に抑えが利かなくなる。
 赤彦の心を知り、口付けを交わした。決して告げることはないだろうと思っていた自分の想いも、吐露してしまった。
 今、手を伸ばせば、赤彦は確実にその手を握ってくれる。しかし鬼の血を体に流す自分には、その資格がない。側にいれば、いつか赤彦をこの手にかけようとする時がくる。あの時のように。
 心が葛藤していた。
 赤彦を傷つけたくはない。
 触れたいのに。
 憂いを振り払い、凪人は前方の闇を睨んだ。
 水を掻き分ける音がする。気づけば、それは自分の足音だった。水路は大分以前に封鎖され、すでに水は枯れている。しかし凪人の足首が浸かるほどここには水がたまっていた。
 海の方へ向かっているのかもしれない。漂う悪臭に潮の匂いがほのかに混ざりはじめ、足元の水もかすかに波を作って揺らめいている。
 前方から風が吹き、頬をくすぐる。
 出口が近い。
 錆びたはしごの前で凪人は足を止め、上方を仰ぎ見た。地上から地下へと明かりが漏れている。ほのかなそれもこの暗闇の中では眩しい。

「行くが……よい。この上であの方はお待ちだ」
 老鬼が息も絶え絶えに、くつくつと耳障りな声で笑う。
「あの方のお力は……『彼』をもしのぐ……主が自らの血に、まみれ、悶え苦しむのが目に浮かぶ……」
「一つ答えろ。『彼』とは俺の父親だな」
 凪人は手に持つ老鬼の顔を、自分に向かせた。
 老鬼の言葉の端々に浮かぶ『彼』という存在。口ぶりから、凪人の父であるのは明らかだった。
 訊かずにはいられない。はじめて手がかりを掴みかけている。
 父親を殺すために『鬼狩り』になり、長年、探しているがわずかなことも分からないでいた。
「父が恋しいか?」
 虚ろな目で凪人を見上げて老鬼が問い返す。
 冗談ではない。
「八つ裂きにしてやる」
「かのように似ているとは……主は確かに血を受け継いでいる……」
 ふたたび笑い声をあげる老鬼の顔が、見る見るうちに乾涸びていく。
 時間がない。
「言え。そいつはどこにいる?」
 自然と髪を掴む手に力がこもる。
 しかしすでに老鬼は白目を剥き、それ以上、何も語らない。
 残りの体は墓場に置いてきた。
 心臓を貫かなくても朝になり、陽光にさらされていればいずれ死に至る。
 父のことは分からないままだ。いったい、いつまで探さなければならないのか。
「くそっ」
 凪人は生首を勢いよく水の中へ投げ捨てた。
 

 

 

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