四章(4)
手が暖かい。誰かが握ってくれている。骨張った大きな手が、包みこんでくれている。
「やっと診療が終りました。様子はどうですか?」
「本当に大丈夫なのか? 目を覚まさないぞ」
別の手が頬に触れる。消毒液の臭いのする長い指が。
「体温は安定したようですね。後は待つだけです」
握っていてくれた手に一度力がこめられて、それからすっと離れていく。
「お前がここにいろ」
放して欲しくないのに。
「戻ってくるんですか?」
「……迷ってる」
手に残っていたぬくもりが消えていく。今までここにそれがあったことも、信じられなくなるほど急速に。
(置いて……いかないで……)
目蓋を開くと、真白な天井がそこにあった。蛍光灯の光が眩しく、薬品の独特な臭いが漂う清潔感溢れた部屋にいた。体に重い布団が何重にもかけられ、腕には点滴用の針が刺さっている。
首を動かすと、点滴液の残りを確かめている白衣を着た宗一郎と目が合った。
同時に首筋に走った鈍い痛みに、赤彦はきつく唇を噛み締める。
「つ……」
「よかった。気がついたんですね。傷が開きます。あまり動かさないでください」
宗一郎は安堵に笑みを浮かべながら、赤彦の頭をそっと枕に戻し、布団を肩にかけ直してくれる。
ここは彼の診療所なのだろうか。
「凪人……は?」
この病室には宗一郎と赤彦だけ。彼の姿はどこにもない。
「ついさっきまで、ここにいたんですけどね」
赤彦の口から出たその名前に、宗一郎は明らかに顔を曇らる。
「そう」
短く答えながら赤彦は布団の中で指を動かした。手を握っていてくれたのは、やはり凪人だったのだろうか。
しかし彼はいない。どこに行ってしまったのだろう。
思考を巡らしはじめて、刹那に脳裏によぎったのは垂氷の存在。
「赤彦さん!」
宗一郎が悲鳴に似た声を上げる。
赤彦は飛び起き、腕に刺さった針を引き抜いていた。
ベッドから降り立つが萎えた足はよろめき、宗一郎の腕の中に崩れ落ちる。
「いけない! 垂氷はっ……!」
「そんな体でっ。どこに行くと言うんですか!」
足がもつれているのになおも立ち上がろうとする赤彦の細い腰を抱き、宗一郎は声を荒げる。
「凪人が! 凪人がっ!」
取り乱して叫ぶ赤彦に、宗一郎の声は届かない。
凪人が、垂氷に深い傷を負わされた時のことを忘れるはずがない。そしてその後も、垂氷は凪人のS&Wリボルバーを持ち帰った。凪人が鬼の前で銃を簡単に手放すとは考えられない。
垂氷の力は凪人の上をいくのだと、結論づけずにはいられない。
「放してくれっ! 放し……っ」
体の自由が利かないのは、宗一郎に阻まれているせいだ。そのことに気がつき、赤彦は力の入らない手で彼の体を必死に押しのけようともがいく。
止めなくてはいけない。早くしないと間に合わない。なぜ邪魔をされるのだろう。
「くっ」
宗一郎が苦々しく喉を鳴らす。
赤彦が自分の体もかえりみず、宗一郎の腕から逃れて駆け寄ろうとしているのは凪人の元。
「僕じゃ駄目なんですか!」
一際大きな怒声に、赤彦はびくりと体を震わせる。すかさず宗一郎は赤彦の両腕を押さえ、胸の中に抱きすくめた。
「赤彦さん。貴方を愛しています!」
宗一郎がはじめて口にしたその想いが、彼の腕の中で動きを止めた赤彦の耳に届く。
「危ないことと関わるのはもうやめてください。僕と静かに生きていきましょう。大切にします。凪人さんの苦しみも分からなくはない。でもあの人では赤彦さんを幸せにできない。だってあの人は……」
人間じゃない。
最後の言葉を口の中で噛み殺し、宗一郎は赤彦の肩口に額をすりつけた。
「赤彦さんを想うこの気持ちは、誰にも負けない……!」
震える唇を感じる。宗一郎に抱きしめられながら、赤彦は落ち着きを取り戻していた。
触れずにきた彼の心に今、直接触れている。想いを寄せてくれていると知りながら答えを出さずにいたのは、彼の気持ちに対処する自信がなかったからかもしれない。曖昧な態度で、彼を繋ぎ止めておきたかった。離れていって欲しくなかった。
しかしもう逃げることはできない。
赤彦が凪人にしたように、宗一郎は赤彦に縋りついている。人を想うとは誰もが同じ。自分を受け止めて欲しくて我を忘れるほど必死になる。
「宗一郎……ありがとう」
唇からこぼれた赤彦の穏やかな言葉に宗一郎は顔を上げ、呆然と見つめてくる。
宗一郎のことは好きだ。しかしそれは凪人に抱くおののくような感情とはまったく違う。宗一郎はまるで慈しみ、慈しまれる兄のような人。
「だけど凪人がね、言ってくれたんだよ。俺の側にいたいって」
あれは夢ではない。想いが交わり、凪人の心を知った。
「俺は……彼を放したくない」
もう二度と。
都合がいいのかもしれない。それでも今は強く生きたいと、心から望んでいる。凪人の全てをこの体で包みこみたい。そのためだけに生きていきたい。
赤彦の顔に極上の笑みが浮かび、宗一郎は眩しそうに目を細めた。
「ずるいですよ。そんな顔……」
宗一郎の腕の力が抜けていく。
立ち上がる赤彦を彼はもう止めない。
赤彦はそっと彼を見た。宗一郎は視線は床の一点を見据え、今までそこにあった赤彦の感触を思い出そうとするかのように、ゆっくりと手の平を握っていく。さっき赤彦が凪人のぬくもりを探したように。
胸が痛い。彼は赤彦の元から去っていってしまうのかもしれない。それでも優しい言葉をかけるのは、残酷な気がした。
赤彦は断ち切ろうと背を向けた。
「待って下さい。着替えを持ってきます。そのままじゃ、また倒れてしまう」
咄嗟に宗一郎が呼び止められ、自分が寝間着姿だったことに気がつき赤彦は苦笑した。
「それと……」
宗一郎が立ち上がり、白衣の下の上着をまさぐる。
取り出したのは赤彦のデリンジャー41口径。垂氷の屋敷で同じように差し出されても、受け取ろうとしなかったそれだった。
躊躇いながらも、赤彦は小さな凶器を受け取った。
手の平に重くのしかかる。
凪人を救いたい。しかし垂氷を傷つけたくないとも思うのは、我が儘なのだろうか。
彼等が行うのは死闘。どちらかが命を失うまで止まることはない。
「僕の服じゃ、少し大きさが合わないと思いますけど」
言いながら宗一郎は足早に病室を出ていく。二階の自室に向かう彼の足音を聞きながら赤彦は窓に引かれたカーテンを開けた。
丸一日、眠っていたようだ。
今は逢う魔が時。
太陽の姿はなく、荒れ狂う吹雪は昨夜に比べれば幾分か落ち着いているようだが、いまだに世界を白で覆い尽くそうとしている。
凪人の行く当ては解らない。それでも探し出さなくてはならない。
もう彼を放したくないと、宗一郎に告げた。口にしたことで、その決意は更に固くなっている。
厚い雪雲の中の日が徐々に落ちていく。
辺りに夜闇がはびこり、鬼達がさまよう時間が訪れる。
診療所の前に架かる橋を渡れば街に出る。
赤彦は借りた外套の襟を立てた。
寒さはだいぶ防げている。しかし貧血のための頭痛、眩暈、萎えた脚と昨夜の疲れ、様々な悪条件が重なった体は衰えを隠せない。泥濘む道が歪んで見える。
「『鬼狩りの神父』とお見受けした」
橋のたもとまで来た時、背後から自分を呼ぶ声に赤彦は振り返った。
老人の影を瞳が捕え、同時にみぞおちに鈍い衝撃を覚える。
意識が遠のく。
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