四章(3)
アパートの階段に、赤彦の弱々しい足音が響く。長い間ベッドの上だけで生活してきた脚は萎え、上手く地面を踏みしめてくれない。煌々と光る黄ばんだ蛍光灯の明りが目に眩しい。
眠りから冷めたのは、アパートの生け垣の前だった。夜は明けかけ、辺りの闇は薄く、雪だけが変わることなく吹き荒れていた。
最後まで病院に行くように勧めてくれた婦人と別れを告げ、車を降り立ち、もう随分と歩いているように思う。
慣れたはずの最上階まで続く階段が、ひどく長く感じられる。
やっと自分の部屋の前に辿り着いた頃には、呼吸をするのもままならなかった。戸に手の平を重ねると、なんの抵抗もなく開いていく。
鍵がかかっていなかった。
ゆるりと視界が開けていく。
長い間、部屋を空けていた。それなのにストーブで十分に暖まり、やわらかい緋色の電燈にほのかに照らされている。まるで赤彦の帰りを待っていたかのように、懐かしい光景を見せてくれている。
なぜなのかと、疑問を抱けるほどの気力はもう残っていなかった。今まで張り詰めていたものが急速に萎えていき、胸からは安堵がこみ上げてくる。
限界だ。目に見えるもののどこまでが現実で、どこまでが幻なのか分からない。赤彦はその場に倒れ、頬を床に押し当て目を閉じた。
眠ってはいけない。
できることなら、この安らかな気持ちのままで逝きたい。銃はどこにしまっただろう。ふたたび眠りから覚めた時には決意が揺らいでいるかもしれないのに、もう指一本動かせない。
そして脳裏には、失った人のことばかりが浮かぶ。
彼との思い出の大半が、この部屋にあった。七年間、いつも彼と会うのは唐突で、約束など交わしたためしがない。彼が訪ねてきてくれる気になるのを、ひたすら待ち続けるだけ。どんなに杞憂だと自分に言い聞かせても、彼の無事が心配だった。
恨めしく思ったこともある。それでも一目見れば、すべてが帳消しになる。
顔を見ただけで心が落ち着いた。同時に込み上げてくる愛しさに、苦しくて苦しくてたまらなかった。
燃えさかるストーブの音に混じって、きりきりと聞き慣れた音が耳を掠める。それはこの部屋の木床を歩くと鳴る音。
「赤彦……なのか?」
そして男の声が、ふいを打つ。
重たい目蓋を押し開けて、瞬時に赤彦は呼吸を忘れた。見開いた虚ろな瞳は、部屋の奥で呆然と立ち尽くす二人の男の姿を映し出している。
一人は、もう会えないと思っていた男。
「……凪……と……」
動かないはずの唇から、彼の名前がこぼれ落ちた。
赤彦の声に正気づいた彼等の顔が、たちまち険しくなっていく。
幻なのだろうか。
「赤彦さ……っ」
「赤彦!」
宗一郎の声を掻き消して叫ぶが早いか、凪人が駆け寄ってきて体を抱き起こされた。
背は凪人の立てた片膝に寄りかけられ、肩と腰は大きな手でしっかりと包みこまれている。彼の大きな瞳は赤彦を見つめ、他には何も映さない。生乾きの衣服越しに、熱いほどの体温が伝わってくる。
こんなにも近い。
「夢じゃ……ないんだね?」
凪人の眼差し、体温、匂い、そして感触がここにあるというのにこれ以上、何を疑えばいいのだろう。
死んだなど、何かの間違いだった。
「生きて、いたんだね……」
「そう簡単にくたばってたまるか」
不敵な言葉、凪人の声。
これが焦れてやまなかった男。
自分を抱きとめる凪人の手に手を重ね、そのままずっと方まで撫で上げていく。指先が顔に届いた時、手を掴まれて凪人の頬に押し当てられた。彼は首に巻かれた包帯に滲む血痕を見て眉をひそめたが、問い正そうとはしない。それどころか口元を歪めて笑ってくれる。
胸が締めつけられた。
こんな自分になぜ笑いかけてくれるのだろう。
凪人に一方的に拒絶されたのだと誤解をしていた。絶望に囚われ、心の安らぎを求めて誘われるままに垂氷と体を重ね、辛いのは自分ばかりだと考えていた。
突き放して傷つけてしまったのは、彼の孤独な心の方。
呆れていないのだろうか。軽蔑していないのだろうか。なぜ優しい眼差しを向けてくれるのか。
「俺は、自分が許せない……」
惨めだ。
「こんなにも……こんなにも、君が好きだったのに」
「赤彦?」
見つめ合う凪人の瞳の深奥が揺れ動く。
赤彦は凪人の眼差しから逃げるように目を反らし、彼の胸に額を埋めた。そのぬくもりが温かく、知らず知らずのうちに吐息が漏れる。
心に深く棘が突き刺さっている。この想いを伝える資格などないのに。
「凪人……君が好き」
想いはとどまることを知らず、吐息と共に唇からこぼれていく。
「好き……なんだ……」
凪人の体が強張るのが分かる。
「もっと頼りになるから……お願い。君といさせて……」
怖い。この腕が、今にも離れていきそうで。
赤彦は凪人の胸に震える唇をすり寄せて懇願した。
心はずっと凪人のものだった。どれだけ垂氷に抱かれても。きっとはじめて出会ったその時から。
しかし凪人の沈黙が耳に痛い。
後悔した。告白などしてはいけなかったのだ。
「……ごめん」
凪人の胸から顔を上げ、離れようとしても体が言うことを聞かない。それ以前に肩を掴む凪人の手が放してくれない。もう一方の手が動き、顎にかけられる。顔を反らすことも許してくれない。
「ごめん。忘れてく……」
言葉は最後まで続かなかった。
凪人の真剣な顔が近づいてくる。
視界は凪人の影で光を失い、彼の輪郭すら分からない。そして唇に柔らかな感触が押し当てられた。
温かい。
吸ったばかりのCHERRYの味がする凪人の唇が重ねられていた。乾燥果実のようにほのかに甘い匂いの強さに、くらりと眩暈を覚える。
口付けをされている。
この上なく優しく。覆い包むように。
「いいのか? 俺はこういう目で、お前を見ているんだぞ」
ゆっくりと凪人は唇を離し、ただただ目を見開く赤彦に息のかかる至近距離で困惑ぎみに囁く。
「お前の口からそんな言葉を聞いて、忘れられるはずがねえだろう。側にいたいと思っているのは……俺の方だ」
凪人の手が赤彦の頭をやさしく掴む。
「他には何もいらない」
横顔を胸に押しつけられ、高鳴る鼓動が聞こえてくる。抗う意識は根こそぎ奪われ、赤彦は目をつぶり彼の声だけに耳を傾けた。
「ずっとお前だけが欲しかった」
強く、強く、抱き締められる。
髪に埋められた凪人の唇が発する悲痛な声が、慈雨のように胸に降り注ぎ、溶けていく。
疑うことなどできない。自分の犯した過ちを思っても、あふれ出す身震いするようなこの幸せを拒めるほど頑なにはなれなかった。
長い間、すれ違っていた想いが交わる。
「うれしい……」
片恋に身を焦がしている時よりも、ずっと胸が苦しい。
赤彦は凪人に体を預け、込み上げてくる甘い吐息を彼の胸に染みこませた。
「凪人……愛して……る」
想いを伝える言葉が、これ以上ないのが辛いほどに。
腕の中にある体から力が抜けていくのに気がつき、凪人は赤彦の顔を覗きこんだ。
「おい。赤ひ……」
冷えきった体。蒼白の頬。色を失った唇。閉じられた目蓋が開かない。
「赤彦っ!」
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