四章(2)
おぼろげだが、目は確かに天鵞絨の天蓋を捕えていた。高い位置から吊り下げられた、ゆったりと波打つ深緑の布地。影の濃い部分は、辺りの闇に溶けこんでいる。
意識を取り戻した赤彦は、呆然とそれを見つめていた。
ここは垂氷の屋敷の、あの寝室。
何が起こったのか分からない。首にはきつく包帯が巻かれている。自分の身に降りかかった出来事が、夢ではなかったのだと物語っている。
だとしたら意識のない間に、垂氷の血を口にしてしまったのだろうか。しかし胸では鼓動が規則的に音を打ち鳴らしている。体も温かい。鈍重な思考回路は納得のいく答えを出してくれない。死んだはずだったのに。
起き上がろうとすると激しい頭痛と眩暈に見舞われる。
「どう……して……」
痛みを覚える体は、確かに生きている。赤彦はふたたび枕に頭を沈め、そっと震える両肩を抱いた。
死ぬのが怖い。
あの時、死に直面して、まざまざと感じさせられた。これまで神父として人に、鬼に、死は恐れることではないと説いてきたというのに。いったい何を分かっていたというのだろう。
強く手を握っていて欲しかった。会いたくて、会いたくてたまらなかった。
凪人に。
唇から吐息が溢れる。愛しい名前が、喉元までこみ上がってきていた。
しかしそれを口にする資格などない。彼を裏切ったのは他でもなく、自分だということに気づいてしまったのだから。
そして裏切ったのは、垂氷をも。
神父として命の尊さも説いてきた。それでも今は、死ぬことで許されるのならば、いくらでもこの命を差し出せる。生きていることが死と同じほど恐ろしい。
絶望が押し寄せる。
穏やかでない思考が脳裏を巡る。何も考えたくないのに。
赤彦は伏せた目蓋を両手で覆った。
窓に引かれたカーテンはかすかに開き、隙間から雪明かりが室内に漏れていた。ほんのりとしたその穏やかさとは裏腹に、外では白く輝く雪片が狂ったように吹き荒れている。硝子に当たる風雪はまるで怨霊の悲鳴。死に損なったこの身を責めているよう。
なぜ生きているのか、と。
目の前に広がるのは、夜闇と吹雪。何かに取り憑かれたかのように、赤彦は黒い森を突き進んでいた。
極寒の中、身につけているのはガウンのみ。目は虚ろ。足元はおぼつかない。
四方八方から吹きつけてくる氷の粒が全身を濡らし、体力を奪う。寒いのは体なのか、心なのか。とにかく苦しくてたまらない。首の傷だけがひどく熱く痛く、朦朧とする意識をかろうじて現実につなぎ止めている。
背後に垂氷の屋敷は、すでに影もない。
いつからこうしているのだろう。風雪が視界を覆い、四肢に絡みつく。目を凝らしても、何も見えない。
いったい、何から逃げているのだろう。どこに行こうというのだろうか。このまま歩き続け、先にあるものは何か。
安らかな死だろうか。
倒れた老木につまずき、ささくれが脚を裂く。赤彦は思わす雪中に手をつき、その場に倒れこんだ。投げ出された脚から流れる血は、雪をまばらに染めていく。
赤く、赤く。
赤彦は暗黒の天を仰いだ。
帰りたい。穏やかに日々が過ぎていた、あの頃に。
教会で祈りを捧げる毎日。アパートに帰れば宗一郎が待っていてくれる。そして日が落ち、夜が更け、凪人が部屋を訪ねてくる。まるで部屋の主のような顔をして椅子に座ると、彼はすかさず煙草を取り出し、それを銜えた唇で弧を描く。
自信に満ち満ちた不敵な笑み。
あの笑顔が好きだった。
忘れかけていた頭痛がふたたび襲う。絶えず聞こえる風音をかき消すように、脈打つ音が脳内で響きはじめた。全身が鉛のように重い。凍てつく大気と辺りに広がる雪床は冷たさを通り越して、痛みを感じさせる。もう、微動だにできない。
「う……ぅ、あ…………」
喉から競り上がってくる叫びは、凍りついて上手く声にならない。
ついにここで死ぬのだろうか。冷たく寂しいここで。
誰もいない。
「あ……あ……」
もう誰もいない。
平穏はすべて自分の手で壊してしまった。この現実は、自分の愚かで弱い心が招いた孤独。
「会い、たいんだ……」
一目でいいから。
絶望に心が引き裂かれる。
耐えきれない。
(たすけて……)
誰にも届くはずのない叫びは虚しく胸の中で木霊する。
意識が遠のいていく。目を閉じた赤彦の体は、静かに雪の中に沈んでいった。
◆ ◆ ◆ ◆
「気がついたのね」
遠くから女性の声が聞こえてくる。そして車の発動機の音も。
すぅっと目蓋が開いていく。
辺りは、目蓋の裏とさほど変わらない青い闇。甘い香水の匂いが漂っている。風もなく、雪もなく、体は銀色の毛皮にくるまれて、濡れたガウンが生温い。
意識を取り戻した赤彦は、車の後部座席に座っていた。
「あと一時間くらいかしら。街の病院に着くわ」
隣から、さっき聞こえてきた女性の声がする。
体は重く、動かない。目だけを動かして横を見れば、母親ほどの年齢の婦人が微笑みを浮かべていた。
誰なのか。上品な黒紫の着物を着ている。虚ろな視界に映る彼女の顔に、見覚えはない。
それにここはどこなのか。自分は一体どうしてしまったのだろう。
確か、彼女は街の病院に着くと言った。
途端に目頭が熱くなった。
理由の分からない涙が頬を伝っていく。記憶の断片を繋ぎ合わせて、ようやく雪の中で倒れたことを思い出した。おそらく婦人は偶然、通りかかり、親切に助け出してくれたのだろう。
銀色の毛皮に雫がこぼれ、表面を滑るように足元まで落ちていく。涙を拭うことも忘れ、声を殺して泣く赤彦に婦人は戸惑い、ただただ大きな瞳を揺らめかせる。手を伸ばしかけてもその手を赤彦の髪の間近で握りしめて、触れることをためらった。
「大丈夫、大丈夫だから」
声だけ優しい。
やがて涙が涸れると、赤彦は窓の外の虚空を見つめた。
吹雪は止まることを知らないのか。怨霊の悲鳴はいまだに聞こえる。
赤彦はかすれた声で病院ではなく、自分のアパートがある場所に行って欲しいと婦人に告げて、細く息を吐き出した。
頭の中が奇妙なほど澄んでいる。
あの部屋に着いたら、自ら生を終わらせよう。思い出溢れるあの部屋で。多くの鬼の命を奪ってきたあの銃で、左胸を貫いて。
今はいとも簡単にその決意ができた。恐怖がないと言えば嘘になる。しかしその方法が最善だと、心から思える。
赤彦はそっと目蓋を伏せた。
雪の降り積もった沿道を車が走る音が、静かに辺りに響いている。凹凸が激しい道で、車は上下に揺れていた。
ふと自分がさっきから小刻みに震えているのは、車の振動のためではなく、体が冷えきっているからなのだとやっと気がついた。考えてみれば、森の中であのまま凍死しても可笑しくなかった。しかしなんてしぶとい命なのだろう。
笑えてくる。
「首の傷……鬼ね」
唐突な婦人の言葉に、赤彦はうっすらと目をあけた。彼女は眉を寄せて微笑む。婦人の悲しげな眼差しの先にあるのは、赤彦の首に巻かれた包帯。かすかに血の滲んだそこだった。
「生きる糧は人の生き血……しばらく一緒にいたから分かるの。あの人と……遠い昔よ。夫のある身でありながら、私はあの人を愛してしまったの」
あの人とは、鬼なのだろうか。
「信じていたのよ。同じだけ、愛されているって」
意識を保つのはすでに限界だった。
自然と目蓋は閉じられて、視界が暗い。婦人の話に耳を傾けようと思いながらも、深い眠りの中に落ちていく。
「でも、あの人は突然いなくなってしまった。私の前から突然……」
婦人は窓硝子に映る自分の顔を見つめながら、目尻のしわを深くする。
「後悔しているわ。あの人が私の体に宿してくれた子供にまで、辛く当たってしまって……だって面影があるあの子が許せなかったのよ。母親の私が、守ってあげなくてはいけなかったのに。恨んでいるでしょうね。だから……どんなに会いたくても会う勇気がない」
赤彦の体が座席に沈む。そして静かな寝息が立ちはじめ、彼女の声は届かない。
「私の……凪人に……」
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