四章(2) ◆ ◆ ◆ ◆ 「気がついたのね」 遠くから女性の声が聞こえてくる。そして車の発動機の音も。 すぅっと目蓋が開いていく。 辺りは、目蓋の裏とさほど変わらない青い闇。甘い香水の匂いが漂っている。風もなく、雪もなく、体は銀色の毛皮にくるまれて、濡れたガウンが生温い。 意識を取り戻した赤彦は、車の後部座席に座っていた。 「あと一時間くらいかしら。街の病院に着くわ」 隣から、さっき聞こえてきた女性の声がする。 体は重く、動かない。目だけを動かして横を見れば、母親ほどの年齢の婦人が微笑みを浮かべていた。 誰なのか。上品な黒紫の着物を着ている。虚ろな視界に映る彼女の顔に、見覚えはない。 それにここはどこなのか。自分は一体どうしてしまったのだろう。 確か、彼女は街の病院に着くと言った。 途端に目頭が熱くなった。 理由の分からない涙が頬を伝っていく。記憶の断片を繋ぎ合わせて、ようやく雪の中で倒れたことを思い出した。おそらく婦人は偶然、通りかかり、親切に助け出してくれたのだろう。 銀色の毛皮に雫がこぼれ、表面を滑るように足元まで落ちていく。涙を拭うことも忘れ、声を殺して泣く赤彦に婦人は戸惑い、ただただ大きな瞳を揺らめかせる。手を伸ばしかけてもその手を赤彦の髪の間近で握りしめて、触れることをためらった。 「大丈夫、大丈夫だから」 声だけ優しい。 やがて涙が涸れると、赤彦は窓の外の虚空を見つめた。 吹雪は止まることを知らないのか。怨霊の悲鳴はいまだに聞こえる。 赤彦はかすれた声で病院ではなく、自分のアパートがある場所に行って欲しいと婦人に告げて、細く息を吐き出した。 頭の中が奇妙なほど澄んでいる。 あの部屋に着いたら、自ら生を終わらせよう。思い出溢れるあの部屋で。多くの鬼の命を奪ってきたあの銃で、左胸を貫いて。 今はいとも簡単にその決意ができた。恐怖がないと言えば嘘になる。しかしその方法が最善だと、心から思える。 赤彦はそっと目蓋を伏せた。 雪の降り積もった沿道を車が走る音が、静かに辺りに響いている。凹凸が激しい道で、車は上下に揺れていた。 ふと自分がさっきから小刻みに震えているのは、車の振動のためではなく、体が冷えきっているからなのだとやっと気がついた。考えてみれば、森の中であのまま凍死しても可笑しくなかった。しかしなんてしぶとい命なのだろう。 笑えてくる。 「首の傷……鬼ね」 唐突な婦人の言葉に、赤彦はうっすらと目をあけた。彼女は眉を寄せて微笑む。婦人の悲しげな眼差しの先にあるのは、赤彦の首に巻かれた包帯。かすかに血の滲んだそこだった。 「生きる糧は人の生き血……しばらく一緒にいたから分かるの。あの人と……遠い昔よ。夫のある身でありながら、私はあの人を愛してしまったの」 あの人とは、鬼なのだろうか。 「信じていたのよ。同じだけ、愛されているって」 意識を保つのはすでに限界だった。 自然と目蓋は閉じられて、視界が暗い。婦人の話に耳を傾けようと思いながらも、深い眠りの中に落ちていく。 「でも、あの人は突然いなくなってしまった。私の前から突然……」 婦人は窓硝子に映る自分の顔を見つめながら、目尻のしわを深くする。 「後悔しているわ。あの人が私の体に宿してくれた子供にまで、辛く当たってしまって……だって面影があるあの子が許せなかったのよ。母親の私が、守ってあげなくてはいけなかったのに。恨んでいるでしょうね。だから……どんなに会いたくても会う勇気がない」 赤彦の体が座席に沈む。そして静かな寝息が立ちはじめ、彼女の声は届かない。 「私の……凪人に……」
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